契約の鎖
白い結晶塊と見えたのは、12区の“神”だった。以前に見た姿―コンソールとドロドロに溶け合い一体化していたその状態から、二回りは小さくなっている。
塊の表面は、塩を吹いたような灰白色の結晶層に覆われていた。かつてコンソールを侵食していた、生々しい青白さは失われている。結晶が崩れ落ち、小さくなったその輪郭の隙間。結晶塊の“口”に相当する位置から、周期的に青白い光の粒子が爆ぜ、鼓膜を抉るような高周波の摩擦音が大気中に押し出されていた。
「生きてる…のか?」
「いや、どう見ても死んでるだろ」
僕の言葉をハンスが言下に否定する。彼はネイルガンのホルスターに手を当て、もう一歩“彼”に近づいた。
ハンスがホルスターからネイルガンを引き抜く。その指先が、結晶塊の隙間から漏れる青白い火花の反射で鈍く光った。
僕の腰に提げた携帯端末から、ノアの声が、ノイズの摩擦音を切り裂いて響く。
『―報告。対象の生体バイタルは完全に消失。しかし、システム上の自律パルスを継続して確認』
僕はハンスの靴先が触れている灰白色の輪郭に視線を落としたまま、端末に向かって呟いた。
「…どういうことだ、ノア」
『推測』
ノアのホログラムが粗い像を結んだ。彼女の走査線が、結晶塊の波形を再計算し、緑色のグラフとして空中に投影する。
『当該契約者は死んでなお心臓炉との接続を切断されていません。肉体的死を遂げた後も、導体化した肉体が心臓炉との契約を維持し、“契約者”としての最低限の機能だけがシステム上で継続しています』
「…導体化深度は?」
セイルが結晶塊に視線を固定したまま、ノアに尋ねた。彼の左手の爪先から、暗銀の火花が散っている。
『深度5超。この個体の導体化深度は、現在確認されている唯一の深度5個体―個体名:ギルを超えています』
「…色々おかしいだろ」
ハンスがボソリと呟く。乾いた風がまた一層、結晶塊の表面を削り取っていく。
「正規の契約切断術式が実行されていませんね」
セイルが平坦に告げる。暗銀の火花がセイルの左指先から落ち、床の結晶塵を小さく弾いた。僕の視界の端で、チューブからこぼれた灰白色の液滴が、ゆっくりと床に吸い込まれていく。液滴の表面に、周囲の白い霧が冷えて生じた微細な気泡がいくつも浮かんでは消えた。
「契約切断術式が通っていない理由は二つ」
セイルは結晶塊の表面から目を離さず、指を二本立てた。
「CMRからの霊子信号が12区の途中で遮断されているか、あるいは…」
セイルが言葉を切る。
「あえて“放置”されているかです」
ハンスが短く舌打ちをする。彼の爪が首筋の侵食痕を深く引っ掻き、そこから滲んだごく微量の瀝甘露が、その爪先に付着した。
「どっちでもいい。要するに、この“神様”はまだ12区の心臓炉を掴んだまま、ラインを開きっぱなしにしてるってことだろ」
ネイルガンの安全装置が外れる金属音が、湿った空気の中に低く響いた。銃口が、灰白色の結晶塊の“頭部”に押し当てられる。
「掴んで離さねえなら、叩き割るだけだ」
ハンスの指が引き金にかかる。その瞬間に、結晶塊の“口”から、一際高い摩擦音が爆ぜた。
「イレブンさんたち、大丈夫でしょうか」
炉心室のコンソールから手を離し、ニコがレイナを振り返った。レイナの前に展開されたホログラム・ウィンドウには、11区の剥落した泥壁が映し出されている。
粗末な市場の荷台には、灰色の合成食料が詰められた錆びた缶が並び、その境界に引かれた歪んだ白線の手前で、衣服の袖口を擦り切らせた住人たちが低くうつむいたまま列を作っていた。配給を待つ群衆の足元で、踏み固められた土壌が乾燥して細かな砂煙を上げ、投影の走査線がその粒子の動きを拾ってかすかに明滅している。
「大丈夫よ。イレブンのバイタルは安定している」
レイナの青灰の爪先が、空中を滑るようにモニターの端を叩く。
細い直線の横に表示された数値が、82拍から84拍の間を厳密に往復し、霊子圧のスパイクが一定の波形を刻み続けていた。
レイナの言葉に、ニコは小さく息を吐く。彼は正面に視線を戻したが、その手はコンソールの上に置かれたまま静止している。レイナが立ち上がってニコに近づいた。
「…警備長さんは、知っていますか?」
ニコが細い声で尋ねる。首を傾げたレイナに、彼は自身の制服の襟元を小さく叩いた。
「…ええ」
レイナは短く頷いた。強制同期式の霊子頚環。それは、イレブンと11区の心臓炉を繋ぐ契約の鎖だ。正規の契約術式によらない心臓炉との契約。
今もその頚環はイレブンを縛り、こうしてそのバイタルを休みなく監視し続けている。
「…」
ニコは俯いた。ホログラム・ウィンドウには、11区の埃っぽい路地の映像が映っている。風に巻かれた砂煙が、配給の列に並ぶ人々の影を不鮮明に削る。炉心室の床板に伝わる心臓炉の拍動が、二人の足元を低く震わせていた。
「うわ。乱暴だな…」
僕の言葉に、ハンスは鼻を鳴らした。彼のネイルガンの一撃が、脆い結晶と化した“神”の頭を吹き飛ばす。粉砕され、壊れた石膏像のような音を立てて転がる頭部の破片を、ハンスは見もしなかった。
「おい、どうだ。ノア?」
ハンスの問いにノアは首を振った。彼が舌打ちをして、再びネイルガンのトリガーに指をかける。
銃口が、頭部を失った結晶塊の剥き出しの胸部―ひときわ厚い灰白色の層へと再び押し当てられた。
ハンスの指が、引き金をさらに二度、連続して引き絞る。鉤爪が至近距離から塊の芯へと叩き込まれた。結晶塊は爆ぜるような摩擦音を上げた。胸部に走っていた青白い細線が、打撃の圧力によって網目状の亀裂へと砕かれ、塵となって零れる。乾いた音を立てて、“神”の心臓部が崩落した。
その瞬間、僕の首を囲む頚環が、内側から鋭い熱を帯びて皮膚を均一に圧迫した。
金属の冷たさが一瞬で消え去り、熱せられた鉄の硬度が喉元を締め付ける。
「…っ」
僕は思わず左手を首筋に這わせた。指先が、頚環の境界に沿って異常に硬化した自身の皮膚の感触を捉える。視界の端が、灰色の微細なノイズによって一瞬だけ均一に塗り潰され、踏み固めた結晶の塵が散る床が、まるで二重にブレているかのように歪んで見えた。
『―システム、警告』
ノアの声が、砂を噛んだような摩擦音を伴って携帯端末から漏れた。
空中を浮遊していた彼女のホログラムが激しく上下に揺れている。
青色の走査線は均一な直線を維持できず、水平方向へと細かく引き裂かれていった。ノアの右目から胸元にかけての光像が粗いドットの塊へと変質し、崩れた光の粒子が、冷えた大気の中に薄い煤のように拡散して消えていく。彼女の顔の輪郭は、何度も明滅を繰り返しながら、辛うじてその像を空間に留めていた。
「ぐ…っ」
僕は首を締め付ける熱に膝をついた。右目から胸にかけて、焼けるような痛みが走る。
「おい、どうした。イレブン」
ハンスが膝をつき、僕の肩を支えた。彼の視線が、膝をついたまま喉元をかきむしる僕の指先へと固定される。ハンスの靴底が、床の結晶をパキリと踏んだ。
「同期しています」
セイルが、硬直した空気を切り裂くように淡々と言った。彼の左手の爪先から零れ落ちた暗銀の火花が、床の結晶の塵に触れ、床に細い焦げ目を刻んで消える。
「この死体と、彼女とのリンクが切断されていない」
セイルは、崩れかけるノアに視線を移した。ノアは、砂嵐に侵食された顔の中で、形を保っている琥珀色の左目でセイルを見つめた。
「あなたは、旧12区心臓炉のOSでしたね」
『肯、定…』
ノアの像を構成する走査線が、水平に、かつ不規則に引き裂かれ続けていた。琥珀色の視線の先で、灰白色の結晶塊が、高周波の摩擦音を周囲の大気へと押し出している。カタリ、と軽い音を立てて、吹き飛ばされた下顎の残骸が転がっていった。
「…頭を吹き飛ばしたのが引き金か」
ハンスの低い声が、乾いた風の中に響く。僕の肩をささえる彼の指先は微かに震えていた。
『推、測…』
ノアの声は、完全にノイズの摩擦音へと変質していた。途切れ途切れの声で、彼女は淡々と言葉を紡ぎ続ける。
『直接の刺激…マスターによる“星の核”への接触…』
ノアが僕に視線を向ける。“星の核”の繊維の間に吸いこまれていった青い火花。僕は床についた手を握りしめた。
『そして、ネイルガンによる…物理破壊により、当該個体の…システム制御部、すなわち“脳”に相当する論理回路が完全に消、滅…』
ノアの顔が大きく歪み、走査線の明滅が青い火花を弾けさせた。セイルは静かにノアを見つめている。
『これに、より…“契約”の自律パルスを抑制するブレーキ、が喪失…』
ぎりり、とハンスが奥歯を噛みしめる音が僕の鼓膜を擦る。頚環の金属部がじりじりと音を立てて僕の首の肉に食い込む。
『…制御を、失った契約が、逆流を開始…このまま、流入が継続した場合…私の全記憶領域、およびシステムコアは、あと300秒以内に完全に上書きされ…消滅、します』
ノアのホログラムが描く右腕の輪郭が、砂嵐の波形となって完全に消失する。青い火花がジリリ、と音を立てて白い塵と共に散った。僕は、喉元から指を引き剥がし、自分の欠けた爪に視線を落とす。正規の術式なんて知らない、出来損ないの端子。
「…契約が繋がっているなら、切ればいい」
僕は膝をついたまま、掠れた声を絞り出した。右目から胸元へと突き抜ける焼けるような痛みが、呼吸を極限まで浅くさせていく。
「何を言ってやがる、イレブン」
ハンスの靴底が、荒い砂を噛むように床を鳴らした。セイルの視線が、ノアから僕の喉元へと移る。
「ノアを消させない」
僕は顔を上げ、形を失いかけているノアの琥珀色の左目を真っ直ぐに見据えた。
「僕が、この契約を切断する」




