砕け散る結晶
『作業地点到達』
ノアの声が淡々と告げる。僕の網膜には、網膜投影機の走査線が細かく明滅しながら、前方1メートルの配管内壁に固着した結晶塊の輪郭を映し出していた。、不規則な多面体は周囲の光を吸収して白く濁り、表面が周囲の湿度を吸ってわずかに濡れている。その中央、亀裂が集中する一点へ、ノアが描画した直径2ミリメートルの赤い照準点が滑り込み、固定された。
リリィが両腕を突き出し、ネイルガンを構えた。トリガーを指が引き絞ると、弾丸が射出される金属の衝突音が鼓膜を叩く。
分解術式を組み込んだ鉤爪が結晶の重心を穿ち、高い破壊音が狭い空間に反響した。結晶の表面から爪の先ほどの破片が3片、剥がれ落ちて配管内部に転がる。打撃の反動でリリィの細い前腕が一度だけ大きく震え、リリィが肩で息をした。着弾点から青い力線が走り、周囲の結晶を分解していく。
「よし、その調子」
「は、い…」
僕が励ますと、リリィが浅く呼吸をし、もう一度ネイルガンを構えた。ノアが次の照準点を固定する。
射出音が連続して鳴った。2発、3発。リリィの指が引き金を絞るたび、その爪先から黄白色の火花が散る。反動が腕の骨を伝って逃げ、彼女の右肩が不自然な周期で後方へ揺れた。削り取られた結晶の破片が細かな塵となり、配管の底に溜まった赤錆の粉末を巻き上げて視界を灰白色に濁らせる。青い術式の力線は、新しく刻まれた亀裂の奥へと吸い込まれるように収束していったが、結晶の大部分は配管内に固着したまま形を保っている。
リリィの網膜投影機と同期した僕の視界で、センサーが乱反射する光波のズレを感知して細かく明滅した。 表示された霊揮率と構造スキャンデータが重ね合わされ、結晶の最深部に別の影が浮かび上がる。
『走査完了。表面から18ミリメートル奥、分解術式の浸透が拒絶されています』
ノアの声が、僕の聴覚神経に直接滑り込んできた。投影機が示す赤色ドットのさらに奥、結晶の幾何学的な中心点に、直径8ミリメートルほどの、周囲より明らかに光の透過率が低い円錐形の塊が定着している。硬度測定値は、先ほどまでの外殻部分の3倍を超えていた。
『高密度に圧縮された結晶の芯です。現在の距離からの投射では、衝撃波の8割が表面の不規則な多面体によって拡散し、減衰します。破壊には、エネルギーの全量を拡散させずに伝える必要があります』
走査線が新しいシミュレーションを開始し、緑色のガイドラインが結晶の表面へと伸びる。
『銃口の先端をその芯の真上に位置する外殻へ垂直に密着。距離ゼロ。分解術式の出力を物理的な衝撃波と同調させる必要があります』
結晶の上に新たな赤い照準点が描かれる。
「リリィ、銃口を直接結晶に押し当てるんだ。そう…その赤い点に。よし」
リリィの指先が、押し当てられたネイルガンのトリガーを最後の一ミリメートルまで引き絞った。
銃口の先端が結晶の不規則な多面体に完全密着し、重い衝撃音が鼓膜を揺らす。リリィの腕が発射の反動で激しくしなり、関節の限界を超えた衝撃が彼女の肘と肩を激しく後方へ突き動かした。
着弾点から放たれた分解術式は、拡散することなく、奥の硬質な円錐形へと直撃した。
高密度に圧縮されていた「芯」に、一筋の白い亀裂が走る。青色の力線が展開され、白い結晶に幾何学線を描く。その直後、パキパキと硬質な音が連続し、白色の結晶塊が内側から崩壊した。砕け散った結晶が、青白い細かな破片となってリリィに降りかかる。
『着弾。対象の消滅を確認』
網膜投影機の視界を占拠していた赤色の警告表示が、点滅を止めて静かに消灯する。ノアの描く格子が障害物の消失を告げるフラットな直線を配管内壁に描き出した。
「消えた…。よくやった、リリィ」
僕は胸の奥に張り付いていた息を吐き出し、肩の力を抜いた。安堵がじわりと全身に広がる。
「ノア、残り時間は?」
『39分26秒です』
リリィが往路にかかった時間は17分、復路には十分余裕がある。
「よし、リリィ。離脱だ。ゴーグルの青い線に沿って引き返すんだ」
リリィの返事のかわりに、ゴトリ、と重たい金属音が配管の底で鳴った。リリィの指先から力が抜け、ネイルガンが錆びた鉄板の上へと転がり落ちる。彼女の右手首は、不自然な角度で小さく震えていた。
『対象リリィの右橈骨遠位端、および手根骨の配列に構造的逸脱を感知。純物理的衝撃による関節窩からの骨頭脱転――脱臼です』
ノアの声は、一切の抑揚を排したまま、僕の網膜へリリィのバイタルデータを滑り込ませた。
リリィの全身を示す緑色のワイヤーフレームが明滅し、その右手首の部分だけが警告の赤色へと変色する。脈拍は毎分142まで跳ね上がり、呼吸のサンプリング音は細かく短い周期で途切れていた。
「リリィ、聞こえるか。右手は動かさなくていい。左腕と足だけで体を支えて、ゆっくりと這うんだ。来た道を戻るだけでいい」
通信機に向かって、僕は声を絞り出した。心臓炉と共鳴している僕の指先が、冷えた鉄の感触を皮膚に伝える。配管の内部は狭く、方向転換すら困難だ。リリィと共有する視界が上下に小さく揺れた。
「は、い…。戻り、ます……」
途切れ途切れの音声とともに、リリィが左手でネイルガンを掴み、胸のホルスターに収めた。彼女の左手が錆びた配管の底を掴む摩擦音が小さく鳴り響く。
だが、ノアのシステムは、青い離脱ルートのガイドラインを網膜に引き直しながら、さらに冷徹な数値を上書きした。
『追加警告。gブロック外壁部の気圧および霊揮率が急速に上昇。大気中の廃霊が凝集を開始しています。30分後、当該配管全域に『白い雨』の到達を予測』
表示された新たなカウントダウンが、29分59秒から1秒ずつ冷酷に数字を削り始める。
「30分…。往路より時間がかかる。リリィ、辛いだろうけどできるだけ急いでくれ」
僕の視界の中で、障害物の消えた配管の中を、青色のガイドラインが奥へと伸びていく。
リリィはその青い線を辿り、少しずつ、引きずるように体を進め始めた。
「リリィが脱臼?」
地下通路の中、レイナは通信機に聞き返した。白い雨が頭上のコンクリートを叩き、マンホールの縁からわずかに白い結晶が壁を伝って這い落ちる。壁にもたれていたハンスがわずかに口を歪ませた。
「残り時間は…」
「4分22秒です」
レイナの問いに、セイルが携帯端末を見ながら答えた。彼の爪先から暗銀の火花が小さく散る。
レイナが硬い表情で通信機をホルダーに戻した。セイルがレイナの顔を見上げる。
「リリィの現在地点はここからおよそ60m…今のペースで戻れれば、ぎりぎり間に合うわ」
レイナはセイルを安心させるように、彼の肩に手を添えた。セイルは黙って雲の導管に視線を動かした。ハンスは壁に背を預けたまま、鼻を鳴らす。
「することねぇな」
ハンスは腰の検知棒を引き抜き、器用に右手の中でくるくると回転させた。マンホールから滴る白い結晶を見て、彼は軽く舌打ちをする。
「『雲』がないせいで『白い雨』がそのまま降ってきやがる」
「…建物が倒壊するかもしれないわね」
「あぁ」
都市を覆う遮断雲が遮っているのは、太陽光だけではない。
今、「雲」の供給が止まったgブロックに、希釈されることのない『白い雨』が降り、街と人を食い破ろうとしていた。
「警備長、頭上が鳴ってる」
ハンスは手の中の検知棒を止め、その先端を天井の亀裂へと向けた。コンクリートの割れ目から、粘度の高い白色の結晶が染み出し、微小な気泡を立てて爆ぜている。大気中の霊揮率の上昇に伴い、鼓膜に微弱な圧迫感が定着し始めていた。
『…聞こえますか?』
全員の通信機が鳴り、イレブンの焦ったような声が響いた。高周波の風切り音が、壁の配管の継ぎ目から漏れ出し、地下通路の空気を細かく振動させる。
『g63-008番配管の断裂が拡大、作業中の配管―g70-888番配管に流入の危険性がある』
全員の動きが止まった。イレブンからの通信は、ノイズとともに切れた。セイルが無言で遮断膜を張り直し、導管の開口部に手をかける。
「セイル!」
レイナがセイルの右手首を掴んだ。無理矢理引き戻そうとするレイナに対し、セイルは体をよじって抵抗した。彼の手首を掴むレイナの手に力がこもる。
「だめよセイル。絶対にだめ」
レイナの爪先に銀の火花が散る。彼女は歯を食いしばり、その爪先をセイルの首筋にあてた。
(―“あの時”は間に合わなかった。)
『停止』コード。打ち込まれたセイルの体が力を失う。レイナは息を吐いて腕の力を抜いた。だが、セイルは意識を保っていた。首筋に当てられた彼の右手の爪から銀の火花が散る。セイルはレイナの『停止』コードに抗っていた。彼の紫の瞳が、レイナを強い光で射抜く。
「セイル…」
「先生なら、向かうはずです」
セイルの右手から一際激しい銀の火花が爆ぜた。レイナの打ち込んだ『停止』コードが解け始める。レイナは唇を噛んだ。彼女は、再び爪に銀の火花を灯し、セイルの首筋に当てる。
「…っ」
セイルの体が自由を取り戻す。レイナは『停止』コードを解除したのだ。彼女は、右の手を導管の開口部に差しこむ。彼女の爪先から銀の火花が散り、細い糸が伸びる。それは重結晶化の変形発動である、結晶糸だ。暗い配管の中を、一筋の銀の糸が、きらめきながら這っていく。
「いたわ」
レイナの結晶糸の端が、黄白色の波形に触れた。リリィだ。
「距離、およそ40m」
レイナはセイルを促した。セイルは顔を上げた。ハンスが無言で頷く。セイルは頷き返し、導管に体を滑り込ませた。鉄錆が遮断膜ごしに彼の掌に擦れる。
セイルが配管の中を這い進む。380mmの内径が彼の体を圧迫した。湿っぽい空気が全身に張り付く。
「リリィ」
セイルは前方で聞こえた音を頼りに、暗闇を探るように右手を伸ばした。小さく息をのむ音とともに、小刻みに配管を鳴らす音が近づく。彼女の胸元で暗銀の正八面体がチカリと瞬いた。
「セイルお兄ちゃん」
リリィの左手がセイルの右手を掴んだ。汗ばんだ小さな手が、セイルの手に熱いほどの体温を伝える。
「これを掴んで」
セイルはリリィに銀の糸を示した。彼女が頷き、左手で銀の糸を掴む。セイルは、リリィの掌の熱を残す右手を、銀の糸に絡めた。セイルが後退しようとした時、ぐん、と勢いよく銀の糸が縮み始めた。
張力を増した銀の糸は、内径380mmの円筒内で硬質な音を立てて縮んでいく。収縮の始動とともに、セイルの背中が配管上壁の粗い鉄錆に強く押し付けられる。遮断膜ごしに摩擦による局所的な熱量が衣服を通して皮膚に届いた。
「…く」
セイルは眉を顰めた。配管の内壁に擦れた遮断膜が激しくノイズを散らしている。セイルのポケットで、銀の正六面体が鳴る。糸は二人の質量を容赦なく引き摺り、往路の倍近い速度で後方へと退行させていく。配管の継ぎ目を通過するたび、リリィの脱臼した右手首に微小な段差の衝撃が加わり、彼女の左の指先が白くなるまで銀の糸を握りしめた。
リリィの背後、およそ50mの地点から、ピキピキと硬質な結晶の音が響いた。g63から流入した白い雨が、配管の内壁の錆を細かな結晶へと変質させながら二人を追尾している。セイルは左手で銀の糸を掴み直す。彼の右手から銀の火花が散った。
ジッ、と音を立てて放たれた銀の熱線が先頭の結晶を焼きつぶした。津波のように迫る白い結晶を、セイルは次々と撃ち抜いていく。持ち上げた彼の腕が揺らぐたび、内部に宿る何かが、腕を押し上げるように脈動する。
「…っ」
リリィの踵まで迫った結晶が撃ち抜かれ、その破片がセイルの額をかすめた。リリィの背にもパラパラと白い塵が降りかかる。二人の視界の端で、銀の糸が摩擦熱によって微かに発光し、接触した鉄錆を黒く焦がしていく。
「ハンス!」
開口部の外でレイナの声が鋭く響いた。次の瞬間、セイルの視界が急速に広がり、湿った大気が全身を叩く。銀の糸の牽引が途切れ、二人の体が導管の暗がりから滑り落ちた。
床面の手前で、ハンスの両腕がセイルの肩口とリリィの身体を横から抱え込み、落下の衝撃を殺した。ハンスのブーツが泥を跳ね上げながら床を滑り、重い摩擦音を立てて停止する。
「…二人とも揃ってんな」
ハンスは腕を離し、リリィの前に屈み込んだ。彼女の右手首を取り、手早く包帯で部位を固定する。レイナはリリィを見て安堵したように息をつくと、セイルの手首を引き寄せ、彼の体を抱きしめた。
「グレイロックさん…」
セイルの言葉に、レイナは弾かれたように体を離した。彼女は腰のホルダーから通信機を取り出し、繋がると同時に、きびきびと作戦完了をイレブンに伝える。
「―残り88秒、か」
導管のバルブを締め直したハンスが、携帯端末をちらりと見やった。イレブンが雲の供給を再開させ、gブロックの空が再び完全に雲で覆われるには8、9時間はかかるだろう。現時刻、20時14分50秒。日の出には雲がここを覆う。ぎりぎりの成功。
ハンスは軽く口の端を吊り上げ、セイルの方を向く。
「…」
ポン、とハンスに肩を叩かれ、セイルは瞼を伏せた。やり場を失った彼の左手が、結晶痕の浮き出た右手をさする。
「セイルお兄ちゃん」
リリィがセイルに駆け寄った。セイルは視線を動かし、リリィが自分に抱きつくのを眺める。彼の右手が、リリィの背に付いた細かい結晶の破片を払った。
「…?」
ふと、セイルの手が止まった。彼の指先が、リリィの背に付いた結晶の一片を慎重につまみ上げる。リリィが不思議そうにセイルの顔を見上げた。
「…おかしい」
セイルの呟きは、壁面を這う無数の配管の唸りに紛れて消えた。
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