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深層の波形

「規制中だ。近づくな」

ハンスは腰から検知棒を引き抜き、近づいてきた野次馬に向かって軽く振った。


だが、gブロックの住人たちは、一度火がついた好奇心を簡単には手放さない。配管の鳴動、地表まで伝わってくる微かな振動、そして何より、管理庁舎の人間が慌ただしく動いている。その事実だけで、娯楽に飢えた彼らには十分すぎる「ご馳走」だった。


「おい、旦那。いったい何が起こったんだ?」

「配管が破裂するのか? 避難しなきゃならねえのかよ」


白い煤だらけの作業着を着た男や、垢抜けない身なりの女たちが、ハンスの張った規制線にじりじりと近づいてくる。彼らの視線はマンホールの縁に立つセイルに注がれていた。


「見ろよ、あいつ。どう見ても11区のやつじゃねぇ」

「どこのやつだ?まさか0区か?」

「んなやつが、なんでこんなところに?」


gブロック特有の、湿り気を帯びた猜疑心と、警戒心が群衆の間に波紋のように広がっていく。騒ぎを聞きつけたのか、レイナが鉄の梯子を鳴らしてマンホールから姿を現した。彼女はセイルを庇うように自身の身体を割り込ませる。


「静かにしろ。作業の邪魔だ。下がれと言っている。」

ハンスが声を低めるが、集まってきた野次馬の数は瞬く間に膨れ上がっていた。地面に置かれた煤星灯の灯が彼らの顔を橙に照らし出す。


セイルは、周囲の喧騒など存在しないかのように平坦な表情で沈黙している。レイナが彼の肩に手を置くと、セイルは微かに反応した。

「大丈夫よ。セイル」

「…はい」

セイルは再び、瞼を伏せて口を空けたマンホールに視線を落とした。暗い睫毛が煤星灯の灯を受けて、下瞼に影を落とす。

立ち込める薄闇の中、セイルの右袖から覗く、暗銀と銀の結晶痕が小さく瞬いた。




『目標地点まで、残り8m』

ノアの無機質なアナウンスが響く。リリィの視界と同期した僕の網膜では、ノアが描き出した青いガイドラインの上を、一心に這う小さな手が映っている。

リリィの掌が管壁に触れるたび、遮断膜ごしに鉄錆が皮膚を汚し、噴き出す微かな「雲」が、リリィの顔面を撫で、網膜投影機シンク・ゴーグルの視界を白く濁らせていく。


『目標地点まで、残り6.5m。…待機。前方200mmに構造的矛盾を検知』


ノアの声が、僕の脳幹に直接ノイズを叩き込んだ。

同期している僕の網膜上で、青いラインが激しく明滅し、一瞬にして赤いエラー表示に塗り潰される。

リリィの指先が、何かに触れた。

それは配管の内壁ではない。冷たい金属の「角」だ。


「…なにか…ある」


リリィの声が、配管の反響を伴って鼓膜を震わせる。僕の視界に、鈍い真鍮の質感が浮かび上がった。公図には存在しない、歪な形状のバイパス弁だ。何者かが「雲」を盗むために勝手に追加した密造の痕跡―長年の放置により、周囲には白い結晶が腫瘍のようにこびり付いている。


『種別判定:私設バイパス弁。設置者不明。結晶固着により通過不能。マスター、リリィのネイルガンによる物理破壊を選択してください』


「リリィ。ネイルガンを使うんだ。それを壊さないと進めない」


ノアがリリィの視界に赤い照準点ドットを固定する。


「そこだ。リリィ、落ち着いて」


リリィの視界に、脈動する赤い十字レティクルが重なる。彼女は両手でネイルガンを構える。配管の中にこもった金属音が鳴った。


「リリィ、トリガーを」


リリィの短い呼気の後、黄白色の火花を散らして、指先が引き金に沈み込んだ。ドシュッ、という射出音。弾丸がバイパス弁の基部を直撃する。

リリィの持つネイルガンに装填されているのは、僕が分解術式を組み込んだ、特殊な重結晶弾だ。着弾点から青い幾何学線が走り、白い結晶を切り分けるように分解していく。リリィの肩が跳ね、ネイルガンの反動が彼女の手首を鋭く震わせる。


『直撃。私設バイパス弁、損壊。通路を確保しました』


ノアの報告と同時に、赤く明滅していたエラー表示は消失し、再び青いガイドラインが奥へと伸びた。粉砕された真鍮の破片が、配管の底でカチリと音を立てて転がる。


『本工程による干渉および反動抑制のため、全工程時間を補正。+350秒』

「350秒…約6分か。ノア、許容範囲内か?」

『肯定。生存確率は依然として88%を維持しています』

ノアの声はどこまでも平坦だ。僕の網膜の端では、リリィのバイタルログが刻一刻と更新されている。


リリィは再び、這い始めた。

バイパス弁の残骸を乗り越える際、彼女の膝が鋭利な破片に触れ、遮断膜が小さくノイズを散らす。だが彼女は声を上げない。ただ、ノアが示す青い光だけを、視線で追い続けている。


「あと、少しだ」


僕は無意識のうちにコンソールの縁を握りしめた。網膜の端では、猶予時間を示す青い数字が、一刻一刻と時を刻んでいる。




セイルはマンホールの梯子を降り、地下に降り立った。壁面に張り巡らされた配管の中でも、際立って太い雲の導管。表面には、レイナのコーティングした銀の重結晶が鈍い光を放っている。リリィが進入したバルブ付近の空間は、ハンスとレイナによってかろうじて確保されている。しかし、奥へと視線を向ければ、導管の大部分が未だ崩落した土砂に埋没していた。

「…」

セイルは開口部から、配管に上半身を差し入れた。380mmの内径が、身体を圧迫する。中は暗く、鉄錆と湿り気の入り混じった臭いが鼻を突く。全身を潜り込ませれば、わずかに進んだだけで額に汗が滲んだ。

(暑い)

セイルは後退し、配管からずるりと抜け出す。遮断膜ごしの彼の掌は、鉄錆で赤っぽく汚れていた。地下の空気は湿っぽく、じっとりとした熱をこもらせる。


「セイル」


梯子から降りてきたレイナがセイルに声をかけた。セイルの汚れた掌を見て、黙ってハンカチを差し出す。セイルが受け取らないままでいると、彼女はセイルの額の汗をそのハンカチで拭き、折り返して彼の掌の汚れを拭った。


「リリィなら大丈夫よ」


レイナが言うも、セイルは口をつぐんだままだ。彼の視線は雲の導管に注がれている。天井の煤星灯が、橙の灯を地下に落としていた。


「…酸素は」

セイルが口を開いた。彼の視線は、未だ導管に向けられている。


「あなたがリリィに張った遮断膜内の酸素は、どれくらい持ちますか?」

「5時間よ」

レイナは答えた。元解剖部隊(ディセクター)である彼女が張った遮断膜は、一般的なそれより高度な術式で構築されている。作業時間を考えれば、十分すぎるほどの余裕があった。セイルは一歩導管に近づいた。


「生存確率、88%」

セイルが呟く。彼は左手で自身の右腕を押さえた。右の爪先から、チリリと暗銀の火花が瞬く。セイルは左手を離し、右手を胸の前に持ち上げた。小さくコードがつづられ、彼の掌の上に歪な暗銀の正八面体オクタ重結晶化コンパイルされる。


「未だに、不完全です」

セイルはその正八面体オクタを指先で転がした。歪なエッジが、不規則に煤星灯の灯を反射する。レイナはセイルを見つめた。


「でも、安定している」

「出力は不安定です。安定しているのは、形だけだ」


セイルの右手に暗銀の火花が爆ぜた。ピシリ、と硬質な音が響き、分解デコンパイルされた正八面体オクタが塵となって霧散する。セイルは、無造作に両手をはたいた。


「何故なのか、分からない」

「それは、11区のノイズが…」

「違う」


セイルがレイナの言葉を断つ。彼は再び、右腕を押さえた。指先に力がこもり、袖に皺が寄る。セイルは唇を噛んで俯いた。


「…重結晶化コンパイルを試みるたび、右腕で何かが息をする。最初は気のせいだと思った。でも、違う」


セイルは絞り出すように言葉を吐き出した。彼の左手が、絞め上げるように右腕を掴む。袖口から覗く結晶痕が、抗うように鋭く明滅した。


「…それ、イレブンには…?」

「…言っていません」


セイルが右腕を掴む力を緩めた。彼の右手の爪先から、暗銀の火花が不規則に散っている。セイルは、なで下ろすように左手を下げ、左手で右手を掴んだ。


「…言えば、なくなってしまう」

「…」

レイナは聞き返さなかった。“誰が”消えてしまうのか、彼女には分かってしまったのだ。イレブンの琥珀色の左目。その熱が焼き切った、重厚な銀の波形。


「セイル」

レイナは静かにセイルの右手をとった。セイルがレイナを見つめる。


「あなたが苦しむのを、きっとその人は望んでいない」

レイナは、セイルの右手を両手で包みこんだ。彼女の手の中で、セイルの右手の指先が小さく動いた。


「俺は苦しんでいません。疑問を抱いているだけです」


セイルは左手を握りしめた。その爪先から暗銀の火花が爆ぜる。彼は再びコードを綴り、正八面体オクタを生成した。面の歪んだ、不完全なそれ。セイルはレイナの手を振り払った。右手の爪からも火花が散り、歪な正八面体オクタが空中に稜線を結ぶ。セイルの両手からは、暗銀の火花とともに、次から次へと不完全な正八面体オクタが生まれては、足元の泥に転がっていく。


「できない」


セイルの右手から、のたうつように火花が走った。暗銀の火花が不揃いに爪先から零れ、チリ、と音を立てて歪な正八面体オクタを生み出す。セイルの足元で、暗銀の重結晶が小さく音を立てた。


「何故…」


ジリッ、と火花が高く弾けた。セイルの蒼い爪先に小さくひびが入る。レイナがセイルの右手を掴んだ。セイルはそれを解こうと力をこめる。


「…あ」


セイルが目を見開く。彼の指先から溢れたのは、暗銀の火花ではなかった。深く沈む銀。焼き切られたはずの波形。


銀と暗銀の火花が混ざり合うように爆ぜた。セイルの爪先に火花が収束する。彼はひびの入った爪先でコードを綴った。稜線が整列し、面が構成される。


セイルの手に収まったのは、暗銀と銀の面で構成された正六面体キューブだった。角が立ち、面の揃った重結晶。重心が座った、揺るぎのない形。


レイナは言葉を失っていた。その重結晶は、失われたはずだった。彼女の喉が小さく鳴った。彼女の脳裏に、黒都エレボスの演習場で見た光景が強制的に呼び戻される。ダリウス・ベックバルトの指先から生み出される銀の正六面体キューブ


「…なぜ、この形に」


レイナの声は、湿った地下の空気に吸い込まれて消えた。彼女の指先は、冷たい金属に触れた時のように不自然に震えている。


セイルは自らの右手を凝視したまま、瞬き一つしなかった。


「分かりません。…ただ、指先が勝手に線を引いた。俺の意志ではなく、この腕が、この角度で線を結ぶようにと」


セイルが右手をわずかに傾けると、正六面体キューブの面の上を、煤星灯の灯の反射が滑らかに移動した。セイルは空いた左手を伸ばし、その重結晶の角に触れた。


「…安定しています」

セイルの言葉は、止めていた息を吐くように零れた。彼はその正六面体キューブをポケットに収める。レイナは続く言葉がないまま、それを見つめた。


壁面の這う無数の配管の振動が、低く空気を震わせる。レイナは、無意識にその一つに手を置いた。


ノイズとともにレイナの腰の通信機が鳴った。キィン、という高周波の音が地下の湿った空気を裂く。


『あ、よかった繋がった!レイナさん?』

「イレブン、どうしたの?」

『白い雨です』

イレブンの声は硬い。レイナは通信機を握りしめた。

『ノアの予測によると、30分後にgブロックに雨が降ります。すぐ地下に退避してください。できれば、市民も屋内に入るように促してほしい』

「分かったわ」

『お願いします』


通信が切れる。レイナは通信機をホルダーに叩き込み、息を一つ吐いた。網膜に焼き付いていた銀の正六面体キューブの残像を、無理やり「白い雨」という現実の脅威で上書きする。


「セイル、イレブンから連絡。30分後に白い雨が降る。あなたはこのまま地下で待機して」


レイナは地上へと続く梯子に駆け寄った。錆びた横木が、遮断膜ごしに彼女の手のひらの皮膚を擦り、鉄の臭いが鼻腔を突く。


セイルは上へと消えていくレイナを見やった。壁面の配管からは、低い唸りが漏れる。視線を落とせば、足元の暗銀の重結晶が触れ合い、小さく音を立てた。


セイルはポケットの上から重結晶を押さえた。地下通路の闇の中、煤星灯の橙の灯が揺れる。そこから零れた白い煤が、音もなく泥のなかに沈んでいった。


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