小さな火花
『生体導体化』
―術師の肉体が、術式を流すために変質していく現象だ。
深度1の爪先から始まり、神経、内臓、脊髄、脳へと進行する。
全身が深度5まで到達した例は、現在一名しか確認されていない。
コンソール上にホログラム・ウィンドウが展開されている。僕はほとんど埋まっていない報告書の項目から目を逸らし、隣をちらりと見た。ハンスが機械的な速度でコンソールを叩いている。その左の爪先から散る青白い火花は鋭く、安定している。彼はおそらく深度3。内臓まで導体化した者特有の無駄のない火花だ。
『補足。マスター。ハンスの導体化深度は3.5と推計。循環器および消化器系の82%が術式導体へと変質済みです』
ノアがホログラムとして像を結び、僕の隣に降り立った。彼女の青い爪先がコンソールをなぞる。
「なるほど。ハンスさんが琥珀珈琲が好きなのはそのせい?」
『肯定。食事による栄養摂取の必要性が低下するため、術師は感覚器への純粋な刺激として嗜好品を要求する傾向にあります。深度3における典型的な行動パターンです』
「おい、聞こえてるぞ」
ハンスが画面から目を離さずに言った。彼はサイドボードから右手でカップを取り、琥珀珈琲を一口啜る。
「無駄口叩いてる暇があったら手を動かせ」
ハンスの指先が青白い火花を散らしながら、コンソールを操作する。彼の展開するホログラム・ウィンドウでは、大量の文字列が高速で流れ落ちていく。時折その流れが止まると、ハンスが素早く何かを書き込み、再び文字列の落下が始まる。その緩急付いたデータの流れは、見ているだけで気持ちがいい。
『…マスター』
「はいはい、やってますよ」
僕はコンソールに指を置いた。爪先から青い火花が散る。入力フィールドの空白が、ホログラムの冷たい光を放っている。ノアが生成した予測変換のリストが、僕の視線の動きに合わせて明滅し、未入力の項目を強調した。
「…これ、ノアが全部打っちゃえばいいんじゃないの」
『否定。思考の言語化プロセスはマスターの神経系訓練を兼ねています。推奨:あと2000文字の入力』
ノアの返答は平坦で、空中に表示された進行バーが赤く点滅した。僕は溜息を吐き、入力作業を再開する。
「…そういえば、あのガキはどうなった?」
ハンスがサイドボードからカップを持ち上げながら尋ねた。彼はコンソールから手を離し、ウィンドウを確認している。どうやら作業が終わったようだ。
「あー…、あの子はセイル君が」
「セイルが?」
ハンスがウィンドウから視線を外し、僕に向き直った。
「なんか、術式を教えてみたいらしくて」
僕の言葉に、ハンスは手にしたカップを置いた。癖になっているのか、彼は左手で首筋の侵食痕を軽く搔く。
「なんでまた」
「セイル君、黒都の人だから、11区の子供が珍しいのかも」
ハンスが立ち上がった。飲み終えたコーヒーカップを持ち、炉心室を出ていこうとする。
「あ、ハンスさん。できたら手伝って欲しいんですけど…」
「自分でやれ」
ハンスがそっけなく返した。炉心室の扉が蝶番の油切れによる金属音を立てて閉められる。ノアが呆れた目で僕を見つめた。
「入るぞ」
「―どうぞ」
ハンスがノックすると、すぐにレイナが答えた。古びた扉が耳障りな音を立てて開く。
部屋の中には、小さなスチール机に向かい合ったセイルと子供がいた。レイナは少し離れた場所に椅子を置いて携帯端末を操作している。
「…そう、そこ。神経の分岐点を意識して。熱を逃がさないように」
セイルの爪先が、小さな暗銀の火花を散らし、子供の手首を軽くなぞった。対面した子供の額には、術式展開による負荷からか、脂汗が滲んでいる。唇を結んだ子供の瞳は、目の前できらめく暗銀の光に吸い寄せられ、瞬きを忘れていた。
レイナは壁際に背を預け、手元の端末に視線を落としている。画面の反射光が、彼女の無表情な横顔を白く切り取っていた。ハンスが近づく気配に、彼女は視線だけを僅かに動かし、短く顎を引いた。
「順調そうだな」
ハンスが投げかけた言葉に、セイルは顔を上げた。その爪先から暗銀の火花がチリ、と鳴って消える。それにつられたように、子供も視線を上げてハンスを見つめた。
「比較対象がないので、現時点での評価は困難です」
セイルはハンスに向き直り、必要項目を埋めるかのように淡々と告げた。彼の袖口から覗く右手には、暗銀と銀の混ざる幾何学文様が刻まれている。二重波形の右腕。歪んだ正八面体。11区に来て以来、セイルの重結晶化は安定していない。ハンスがカリ、と左手で右の首筋を掻いた。
「…あ、あのっ…!」
子供が、椅子を後ろへ蹴るような鋭い音を立てて立ち上がった。真剣な面差しでハンスに歩み寄り、ぴょこんと頭を下げる。
「わたし、リリィって言います!おじさん、助けてくれてありがとう」
子供―リリィは未だ腕に残る包帯をいじりながら言った。大きな目が、いっぱいに見開かれてハンスを見つめる。
「仕事だ」
ハンスは鼻を鳴らして答えた。ポケットに手をやり、屑煙草を指先でつまむ。取り出した火の付いていないそれを咥え、ハンスは踵を返した。
「何か用があったんじゃないの?」
レイナが端末から顔を上げて尋ねる。ハンスを見つめるリリィは、自分の腕に巻かれた包帯の端を、無意識にか引っ張っている。
「別に」
キィ、と蝶番の鳴る音を残して、ハンスが部屋から去った。レイナは首を傾げて、再び視線を端末に落とす。セイルが机に戻ると、リリィも慌てたように対面の席についた。
「右手を」
セイルはリリィの右手首を掴み、空中に固定した。彼女の皮膚の下を走る静脈が青く浮いている。セイルの爪先が触れる箇所から、微かな熱が伝播した。
「熱が流れるのを意識して。熱が手首から指を通り、爪先に集中するイメージ」
セイルの指示に、リリィは息を止め、自分の指先に意識を集中させる。彼女の爪先が小刻みに震え、乾いた音を立てた。セイルの右手に刻まれた暗銀と銀の幾何学文様が、室内の乏しい光を吸い込んで鈍く明滅する。
「…」
リリィは唇を噛み締め、目を見張って自分の爪先に集中している。セイルの左手の爪先から暗銀の火花が散り、リリィの手首の熱を流すように、静脈に沿って爪を這わせた。
「…ぁ」
リリィの指先から、不揃いな黄白色の火花が瞬いた。しかし、一瞬の火花は塵のように崩れる。リリィの口元が歪む。セイルはリリィの手首を離した。
「…もう一回」
リリィが再び右手を持ち上げ、指先に力を込めた。鼻の頭にしわが寄るほどに自身の指先を睨みつけ、爪先に火花を灯そうとする。
「今日はそのへんでいいんじゃないかしら」
レイナが椅子から立ち上がり、リリィに声をかけた。リリィが口を引き結んで首を横に振る。彼女は左手で自身の右手首を、セイルがやったようになぞり始めた。指先が震え、リリィの額から汗が流れる。
「リリィ」
「お願いです」
リリィはレイナを見上げた。その目には水の膜が張っている。それを零すまいとするかのように、リリィはさらに首を伸ばしてレイナを見つめた。
「わたし、できます…やります。きっと。頑張りますから」
リリィの声が震える。目の縁にたまった雫が彼女の下瞼を濡らす。
「一生懸命やります。だから、おねがいです」
ついにリリィの瞳から大粒の涙が零れた。彼女はめちゃくちゃに顔を拭い、声を漏らさないよう手で口元を抑える。レイナが手をリリィの頭部へと伸ばすと、リリィの体がびくり、と硬直した。
「たた、かないで、…ごめん、なさい、すぐ、泣き止み、ますから」
しゃくりあげながらリリィが声を絞り出す。レイナは行き場を失った手を一瞬さまよわせ、そっとリリィの肩に置いた。衣服越しに、リリィの小刻みな震えが掌に伝わる。
「大丈夫よ。リリィ…大丈夫。だから泣き止んで」
レイナは、なだめるようにリリィの背を叩く。リリィは俯いたまま喉を震わせている。黙ってその様子を見つめていたセイルが、レイナとリリィに近づいた。彼の爪先に暗銀の火花が灯り、チリ、と音を立ててコードを綴る。歪んだ正八面体が重結晶化され、セイルの掌に収まった。
リリィの肩がレイナの手の下で小さく跳ね、その後、石のように硬直した。彼女の呼吸は浅く、喉の奥で空気が擦れる音だけが室内に響く。
セイルの掌の上で、暗銀の重結晶が脈動していた。それは完全な対称性を欠いた、歪な正八面体だ。白い煤の舞う部屋の中で、結晶の角が微細に剥離し続けている。剥がれ落ちた光の破片が、きらめきながら床にこぼれる。
リリィは顔を上げた。涙で濡れた瞳が、その暗銀の光を歪んだ輪郭で捉える。
セイルは無言のまま、それをリリィの手に渡した。彼女は両手で包み込むようにそれを受け取る。暗銀の正八面体は、天井の煤星灯の橙の灯を受けて、その歪んだエッジを浮き上がらせていた。
「くれる、んですか?」
リリィの言葉に、セイルは首肯した。リリィは、重結晶を包み込んだ両手を狭め、じっとその輝きに見入る。
「…つめたい」
リリィが呟く。リリィは指先の力を強め、その重結晶を胸元に抱きしめた。指の隙間から、暗銀の光が彼女の喉元を照らす。
「大切に、します」
リリィが目を見張ってセイルに言った。セイルはただ頷くだけでそれに答える。彼女は、胸元の結晶をさらに強く抱きしめた。重結晶のエッジが、彼女の服に小さな皺を寄せる。
セイルはリリィから興味を失ったかのように背を向けた。部屋の隅にある自身の作業机に向かい、その引き出しから、ダリウスのネイルガンを取り出す。蒼い爪先が、一つ一つの傷を確かめるように指先でなぞった。セイルは作業机に置かれた工具箱を開き、慎重な手つきでネイルガンを分解する。部品を一つずつ磨き上げ、機関部に油を塗る。
「…」
セイルに歩み寄ったリリィが、その手元を見つめた。彼女は、磨かれた部品が、艶を増して机に並べられるのを食い入るように眺めている。その様子を見たレイナが、自身の荷物からハンカチを取り出してリリィに渡した。
「いいのよ。使って」
レイナが微笑むと、リリィは「ありがとうございます」と小さな声で呟いた。ハンカチを持ってスチール机に向かい、自分の席に腰掛ける。彼女は重結晶を机の上に置き、レイナからもらったハンカチで、丁寧にその歪な面を拭き始めた。
レイナも椅子に座り、自身の端末に視線を落とす。部屋に響くのは、階下の心臓炉が拍動する低い音と、それぞれの作業が発する微細な振動だ。
ボルトが摺動する金属音。布が硬質な面を擦る摩擦音。レイナがコンソールを叩く打鍵音。
それらの音の中で、部品の手入れを終えたセイルが工具箱の蓋を閉める。ガシャリ、と重厚な閉鎖音を立てて組み上げられたネイルガンが、セイルの手の中で鈍く光った。




