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log39.不測の回路

ハンスが膝をつくと、制服の膝が床の結晶を粉砕し、乾いた音を立てた。

検知棒の青い光が、配管の隙間に挟まった小さな輪郭を闇の中に浮かび上がらせる。

そこにいたのは、11区の配給服を泥と灰で汚した、十歳にも満たない子供だった。

子供の右半身は、漏れ出した冷媒の飛沫を受け、既に衣服ごと配管の結晶と癒着している。

剥き出しの細い足首には、配管の亀裂から零れた灰色の結晶が肌に絡みつき、皮膚の熱を吸い上げていた。子供がしゃくり上げるたび、喉の奥で氷の粒が擦れ合うような、不自然な異音が漏れる。


ハンスは検知棒をベルトに戻した。網膜投影機シンク・ゴーグルが、子供の身体と結晶の境界を、警告を示す赤色の等高線で縁取った。癒着部位の温度は摂氏二度まで低下している。このまま引き剥がせば、皮膚の表層ごと持っていかれるのは明白だった。


「ニコ、そのガキの肩を支えろ。俺が結晶の結合を緩める。…いいか、絶対に動かすな。配管ごと崩れるぞ」

ハンスは子供のそばに屈み込み、左の爪から青白い火花を散らせた。遮断膜を子供に貼り終えると、彼はその小さな右半身に左手を当てた。


「ごめんね。ちょっと動かないでね…」

ニコがなだめるように子供に声をかける。ハンスは結晶と皮膚の癒着面に左の爪を押し当て、火花を細く収束させた。青白い火花が硬質な音を立てて結晶を削り取っていく。


「ひっ…」

身をすくめる子供をニコが背後から押さえた。「見ない、見ない」と穏やかに声をかけ、子供に目を閉じるように促す。ギュッと目を閉じた子供は自由な左手でニコの服を握りしめた。


ハンスは網膜投影機シンク・ゴーグルに表示される数値を追った。粘性を帯びた結晶の膜が、子供の皮膚組織を食い破り、配管と一体化させている。ハンスは爪をさらに深く肉と結晶の境界へ沈めた。爪の端から爆ぜる青白い火花が、氷と結晶を剥がしていく。ハンスは指先から伝わる微細な振動へと意識を集中した、チリ、という硬質な音が指の骨に伝わる。


「大丈夫、すぐに終わるからね」

ニコがあやすように子供の頭を撫でる。子供は目を固く閉じ、口元を震わせながら耐えている。パキパキと結晶の剥がれる音がするたび、ニコが子供を撫でる指先がわずかに速度を乱した。


パキ、と乾いた剥離音が響き、子供の体が配管から切り離された。剥がれた後の肌には、皮膚が引きちぎれた際の赤い溝が走っている。


わっ、と火がついたように子供が泣き声を上げた。ハンスは腰の携帯ポーチから包帯を取り出し、手早く応急処置を施した。泣きじゃくる子供を意に介さず、その体を無造作に抱えあげる。


「ニコ、ここじゃろくに手当もできねえ。一旦庁舎に帰るぞ。配管の補修は後回しだ」

「はい」


ハンスの後を追ってニコが地下室を出る。ハンスの背に負われた子供は、泣き疲れたのか大人しい。路地には、煤星灯ばいせいとうの橙の灯が点々と灯っている。




「おかえりなさい。ハンスさん、ニコ…って、あれ?」

僕が救護室に入ると、簡易ベッドに腰掛けた子供に、レイナが包帯を巻き付けているところだった。ハンスとニコの姿はない。


「レイナさん、ハンスさんとニコは?」

「D-12ポイントの配管の補修に行ったわ」


レイナは慣れた手つきで、子供の傷ついた皮膚を保護していく。巻き終わりに、彼女の爪先からきらめく銀の糸が紡がれ、包帯を綴じた。


「レイナさん、医療系術師なんですか?」 

「まぁ、ね。これでも元、解剖部隊ディセクターだったの」

「えっ、解剖部隊ディセクター…?」


解剖部隊ディセクターは0区直下の精鋭部隊だ。全員が医療系術式を修め、文字通り解剖学的アプローチで廃霊バグを“切除”する。


「0区から黒都に引き抜かれたってことは、相当ですね。もしかして隊長だったりとか?」

「副隊長よ。…隊長は…」

レイナは立ち止まるかのように口をつぐんだ。わずかに唇が噛み締められる。彼女のレイナの視線が、滅菌液の染みたガーゼの山に固定される。煤星灯の橙色を吸い込む彼女の瞳孔が、僅かに収縮した。僕が慌てて話題を変えようとした時、脳内にノアの声が響いた。


『マスター。ハンス、ニコから通信です。こちらに繋ぎます』

「あ、分かった」


僕は救護室の通信機を取った。レイナが包帯を片付ける小さな音が聞こえる。

『…イレブン?俺だ。一次処置を完了した。続きは明日だ』

「あ、ハンスさん。お疲れさまです。さっきの子はレイナさんが手当てしてくれてます」

『了解』


通信はそれで切れた。見れば、窓の外はすっかり暗くなっていた。天井の煤星灯が、救護室に橙の灯を落とす。


『対象の心拍数、88bpmまで低下。バイタルサイン、安定域に移行。』

ノアの淡々とした声が、僕の脳内で子供の状態を報告する。ちらりと子供の様子を見ると、眠たいのか、頭がぐらぐらと揺れていた。


「さあ、もうお休みなさい。疲れたでしょう」

レイナは、しきりにまばたきをし始めた子供をベッドに寝かしつけた。粗末な毛布に包まった子供の背を優しく叩く。子供はしばらく目をこすっていたが、やがて眠りに落ちたようだった。


「…レイナさん、その子、IDタグは…?」

「着けてなかったわ」

レイナが首を振る。IDタグが無いということは、非登録市民だろうか。それともどこかでタグを落としたのか。


『対象の血中酸素濃度98%。末梢神経への結晶汚染指数は0.02%以下で推移。レイナ・グレイロック警備長による遮断術式の精度を確認。再汚染の兆候はありません。』

ノアのホログラムが、ベッドの端に淡い燐光を撒き散らしながら収束する。その瞳の奥で、膨大な文字列が高速で流れていた。


「ありがとう、ノア」

レイナが微笑むと、ノアは黙って僕に顔を向けた。

『マスター。対象のバイタルは安定しましたが、依然として身元を特定する物理的記号が存在しません』

ノアの声は、感情の起伏を排した響きで室内の空気を震わせた。

その瞳の奥で、11区の市民居住ログが高速で垂直落下し、次々と「不一致」の判定を受けて消えていく。


『現時点における、この個体の処遇に関する最適解を三案提示します』


ノアの指先が虚空をなぞると、青白いホログラムのウィンドウが三つ展開された。


『第一案。11区の血縁ネットワークとの照合。非登録市民である可能性が高い場合、周辺区画の「非正規雇用者層」の居住域にこの個体の特徴を拡散し、所有権を主張する者を募ります。ただし、回収される確率は現時点で12.4%に過ぎません』

レイナの視線が、青い光に照らされた子供の寝顔に向けられた。子供は、すやすやと穏やかな寝息を立てている。


『第二案。公的養護施設への移送。10区管理下の児童保護施設「第14セクター」への申請。ここは教育プログラムへの適性が考慮されますが、ID非登録者の場合、“検体”としての登録を条件に受け入れられる可能性が極めて高い』

「検体」という単語が放たれた瞬間、レイナの背筋が微かに硬直した。彼女の指先が、無意識に制服の裾を強く握り締める。


『第三案。現状維持。この11区居住区庁舎における「非登録労働力」としての暫定的な留置。マスターの管理下において、雑役に従事させることで生存権を確保します。』

ノアは事務的に、しかし決定的な事実として数値を羅列した。レイナが制服の裾をふっ、と離した。彼女はホログラム・ウィンドウから視線を外し、子供の寝顔を見つめる。


『決定権はあなたにあります。マスター』

ノアが、三つのホログラム・ウインドウを差し出すように僕の顔に近づけた。青白い光がちかちかと目の奥に刺さる。レイナが何か言いかけて唇を閉ざし、僕を見つめた。


「えー…、えっと…」

僕は口ごもり、子供、ノア、レイナと順繰りに見渡した。目の前に突きつけられたホログラム・ウィンドウを見る。レイナの視線を感じる。もう一度ノアを見つめた。琥珀と青の瞳で見つめ返される。レイナの方を見たら決断できなくなる。たらり、と汗が額を伝うのが分かった。


(ハンスさん、ニコ、帰ってきてくれ…!)


カラリ、と僕の心の声が聞こえたかのように救護室の扉が開いた。


「グレイロックさん、イレブンさんを知りませんか?」


現れたのはセイルだった。


「あ、ごめん。何か用だった?」

僕はホログラム・ウィンドウを投げ出すようにセイルに歩み寄った。セイルは動じた様子もなく僕に頷く。


「はい。11区の地層データの分析と、管区内の配管系統における腐食進行度を、重要度別にランク付けしたリストのまとめが終わりました」


セイルが差し出した携帯端末の画面には、血管のように張り巡らされた配管網が、警告を示す赤色で点滅していた。

救護室の蟠った空気が、セイルの持ち込んだ実務的な危機の報告によって僅かに攪拌される。レイナはセイルの言葉に眉を潜め、手元のホログラムから彼が持つリストへと視線を移した。11区のインフラが限界に近いという事実は、この場にいる全員が皮膚感覚で理解している「日常」だった。


「あっ、ありがとう。セイル君」

僕はセイルの持つ端末を覗き込んだ。赤くマークされていないところの方が少ないのではないだろうか。とりあえず重要施設があるところを優先的に、と考えていると、セイルの持つ端末が動いた。セイルが、僕の肩越しに何かを見ている。


「子供」

セイルが物珍しげに呟いた。携帯端末を僕の手に預け、ベッドに歩み寄る。


「…」

セイルは珍しい動物でも見るかのように、まじまじと子供を観察している。黒都から来た彼からしてみれば、11区の子供などほとんど珍獣に近いのかもしれない。


「生きているようです」

「セイル」

レイナが呆れたようにセイルの手を掴む。セイルは首を傾げた。

「霊子の流れが感じられません」

セイルが子供の爪をじっと見つめた。術式を綴ることを知らないその子供の爪は、白っぽく、ごく薄い肉色をしている。


「11区じゃ珍しくないよ。術式が何か知らない人間もいる」

僕の言葉に、セイルは自身の右の指先を軽く動かした。小さな暗銀の火花が彼の爪先から散る。


「試してみたいです」


「え?」

セイルの意図するところが分からず、僕は聞き返した。レイナがセイルを見つめる。


「回路のない器に、術式を流すとどうなるのか」


そう言ったセイルの目には、「答え」を求める純粋性だけが宿っていた。


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