残響の記録
「ぐっ…」
僕の左手首にすさまじい痛みが走った。緋結晶の血のリンクが働いたのだ。
「ノア、第1層、事象重層化隔壁展開」
『了解』
事象重層化隔壁。
―通称“ゴミデータの壁”
僕はコンソールに叩きつけるように爪を立てる。
神経が焼ける不快な信号が脳を叩いた。心臓炉を囲む空間の密度が変質する。
コンソール上に展開されたのは物理的な質量を伴った「情報の残骸」の堆積だ。 受理されることのなかった数百万件の不服申し立て、抹消された住民票、期限切れの配給チケット。11区という掃き溜めが排出し続けてきた膨大な「無価値な文字」が、空間を埋め尽くす。
緋結晶が呼応するように瞬き、血のリンクを通じて「空白」の波動が、その情報の山に衝突した。 文字の破片が吹雪のように舞い、物理的な摩擦音を立てて削り取られていく。
網膜の端で、青の光が激しく明滅する。
『警告。緋結晶リンク先周辺の酸素濃度、規定値を3.4%下回りました。』
ノアの声が頭蓋の内側に響く。視界にノイズが走る。喉の奥が熱い。酸素を求める肺胞が、実体のない空気を吸い込もうとして痙攣を繰り返す。緋結晶のリンクは、ハンスたちが置かれた「空白」の真空を、そのまま僕の神経へと転送していた。
「は…っ」
僕は崩れそうになる体を必死に立て直す。駆け寄ったニコが僕の左手首を掴んだ。
「イレブンさん」
半透明のニコの右腕。その右腕の中には煤蜂の毒が黒くマーブル状に残っている。ニコは歯を食いしばると、その右手の爪先から青白い火花を散らした。
「ニコ…!」
「空白化」の衝撃を受けて、ニコの右腕が、空気に溶け出すようにさらに透明度を増した。肘から先の境界線が消失し、血管の代わりに青白い火花の筋だけが浮き上がっている。エミリオの放つ「空白」の波動がニコの腕に衝突するたび、ニコの腕の輪郭が砂嵐のように掠れる。
「駄目だ、ニコ。離してくれ」
僕の言葉に、ニコは黙って首を振った。その半透明の腕にはかつて僕が施した継ぎ接ぎのパッチがある。腕の輪郭が掠れ、霧散しようとするたびに、パッチの縁から青い火花が散る。そのパッチはニコの透明な腕に微細な亀裂を刻みながらも、その形をかろうじて縫い留めていた。
「…ああ、わかった。ニコ」
僕は血の混じった唾液を袖で拭った。コンソールに立てた右手の爪から青い火花が爆ぜる。
「ノア、共鳴率を上げてくれ。ここで持ちこたえるのが僕たちの役目だ」
『受理。共鳴率を50%から60%に引き上げます』
ノアの答えと共に視界のノイズが網膜を焼くように明滅する。ニコの右腕から一際激しく青い火花が散った。
ハンスは一気にエミリオへと距離を詰めた。ネイルガンを握った彼の左の爪から青白い火花が散る。エミリオが放つ針状結晶が、ハンスが展開した結晶壁を粉々に砕く。だがハンスは止まらない。結晶壁で針状結晶が食い止められた一瞬一瞬の隙にハンスは前に進んでいる。砕け散る青白い結晶片を背後に残して、ハンスはエミリオと対峙した。
「ハンス・レイグル」
エミリオは歯の間から絞り出すように言葉を紡ぐ。彼の左半身を覆っていた白い結晶は、今やその右半身をも侵食しつつあった。左半身はすでに元の形を保てず、溶けた蝋のように無数の針状結晶を滴らせている。
ネイルガンの銃身が薄い空気を切り裂き、至近距離へと肉薄する。ハンスの左指、その爪の隙間から漏れ出た青白い火花が、空気を焼くように鋭く爆ぜる。
エミリオの左半身から射出された無数の針状結晶が、空中でハンスの結晶壁と衝突する。硬質な破砕音が連続し、結晶片が地面に降り注いだ。ハンスはネイルガンの銃身に結晶壁を纏わせ、針状結晶の一撃を防ぐと、身を低くして大きく一歩を詰めた。
距離、二メートル。
エミリオの肉体を侵食する白い結晶は、溶けるかのように端から液化し、溶けた蝋のような粘性を持って足元へ滴り落ちていた。暴走した重結晶化の産物である針状結晶は、その性質上構造が安定しない。溶け落ちたそれらは、一滴一滴が床に触れた瞬間に再び鋭利な針へと変質し、微かな摩擦音を立てる。
「…エミリオ」
ハンスは、結晶壁を纏わせたネイルガンでエミリオの腹を殴りつけた。青白い火花が散り、エミリオの顔が歪む。苦悶に体を折ったエミリオの腹に、ネイルガンの銃口が当てられる。
「―個体定義を吸引」
ハンスのネイルガンが、キィンという高周波の音を立ててエミリオの肉体を吸い上げる。結晶の侵食を受けて脆くなっていたその肉体は、青白い火花を散らして崩れ、ネイルガンのチャンバーに吸い込まれていく。
「貴様…!」
エミリオが残った右目を血走らせてハンスを射抜く。
エミリオの左手が、空気を引き裂きながらハンスの胸元へと突き出された。エミリオの左手がハンスの右腕を掠め、衣服と表皮が「空白」へと変換される。
ハンスは、自身の肺から酸素が引き抜かれる感覚を、歯の間で噛み潰した。彼は左足の踵を軸に、地面の結晶片を跳ね上げながら円を描くように身を翻す。舞い上がった塵と土埃がエミリオの視界を遮る。エミリオの左手が虚空を掴み、そこにあったはずの空気を「空白」へと変換した。
ハンスの左手のネイルガンが、エミリオの右肘の裏側に食い込む。青白い火花が散り、肘から先がチャンバーへと吸いこまれた。跳ね上がった土埃が、エミリオの放つ「空白」に触れて一瞬で消滅する。
「ぐっ…」
右脇腹と右腕の肘から先を失ったエミリオがよろめきながら左腕を突き出し、針状結晶を束にして放った。ハンスはエミリオの右半身側に回り込むように躱す。針状結晶を放ったエミリオの左手には、ひび割れた石膏像のように亀裂が入っている。反動でバランスを崩したエミリオが壁に手をつくと、その左手は脆い土壁のようにボロリ、と崩れ落ちた。
「…っ」
不意に、ハンスが喉を押さえてふらついた。肩が大きく上下し、掠れた息が漏れる。
「ハンス!」
「ハンスさん」
駆け寄ろうとするレイナとセイルをハンスは視線だけで制した。レイナはセイルを後ろにかばい、その青灰の爪から銀の火花を散らしている。ハンスはネイルガンを構え直し、エミリオに近づいた。
「…」
膝をついたエミリオがハンスを見上げる。ハンスの足元で、結晶片がパキリと乾いた音を立てた。
「ハンス・レイグル、私を消すのだな」
エミリオの言葉に応えるように、ハンスがネイルガンの引き金に指をかける。
「私の姉と兄を“消した”時のように」
ハンスの動きが止まった。その瞬間、エミリオは結晶片を跳ね上げて立ちあがり、手負いの獣のような動きでハンスに迫った。崩れかける白い左腕をハンスの首へと伸ばす。
「ハンス!」
レイナの爪先から銀の火花が散る。幾何学陣が展開され、エミリオの足元の白い結晶片が渦巻くように重結晶化される。だが、「空白」の力を宿した結晶片はレイナの重結晶化のコードを崩壊させ、重結晶は完全な形をなさずに崩れ落ちる。
エミリオはレイナの重結晶の残骸を踏み破り、ハンスを地面に押し倒した。ハンスは重結晶を纏わせたネイルガンで、エミリオの左腕をかろうじて食い止める。だが、その結晶壁はパキパキと音を立て、見る間に白く崩れていく。
ハンスのネイルガンの銃身を覆う結晶壁が、白い粉末となって飛散する。エミリオの左腕の先から針状結晶が突き出され、ネイルガンの銃身が白く砕けた。エミリオの顔の左側を覆っていた白い結晶は、その右目の縁まで侵食を広げている。
「…ッ」
ハンスの頸動脈に近い皮膚を、エミリオの崩れかけた左腕がかすめる。接触面から熱が奪われ、細胞が「空白」へと置換される瞬間の、乾燥した剥離音が鼓膜にこびりつく。
レイナがハンスに駆け寄る。彼女の右手から鋭く銀の火花が散った。レイナが火花を収束させ、その手をエミリオに向ける。彼女の手から放たれた銀の熱線がエミリオのこめかみを掠めた。ハンスに当たることを恐れて、レイナは出力を絞っている。
エミリオは、もはや肘から先を失った左腕をハンスの首に伸ばす。ハンスは体を捩って右肩でそれを受けた。衣服が白化して崩れ、黒く侵食された皮膚がむき出しになる。
ドクリ、とハンスの右肩の「黒い蜜」が脈動した。押し当てられたエミリオの左腕に黒いノイズが散る。エミリオの「空白化」に抗うようにハンスの侵食痕が熱を持つ。
「エミリオ」
ハンスの声は掠れていた。彼は左手の爪を右肩に立て、青白い火花を散らす。右腕の「過負荷の溜まり場」としての定義を解き放ったのだ。右肩から溢れ出したノイズがエミリオの左腕に這い上がる。ハンスの右腕という高密度の器に閉じ込められていた毒が、“逃げ場”を見つけ、噴き上がるように溢れ出す。エミリオが左腕を引いたがすでに遅い。黒い毒に食い破られた彼の腕に数条の亀裂が走る。
「ぐ…っ」
エミリオの左腕が、ついに自重に耐えかねて肩の付け根からピシリと裂けた。裂け目からは血ではなく、細かな白い結晶の砂が溢れ出し、ハンスの胸元に降りかかる。エミリオの右目が見開かれる。
「…っ、…にい、さん、ねえさ…」
エミリオの右目から滴った白い結晶が頬の途中で止まった。ジュッ、という音とともにエミリオの頭が撃ち抜かれたのだ。レイナの爪から放たれた銀の熱線が、エミリオの眉間から抜け、白い煙を上げていた。
エミリオの身体は白い結晶となって砕けた。咄嗟に伸ばしたハンスの右手が白い塵にまみれる。カタリ、と中身のない石膏が落ちるような軽い音を立てて、欠けた頭部が地面で跳ねた。右目の周辺だけがわずかに形を保っている。
「…」
ハンスは黙って半身を起こした。何かが抜け落ちたかのように右腕が軽い。意識を右手に集中させると、ぴくり、とその指先が動いた。
「ハンス」
レイナがハンスに歩み寄る。彼女は荒い息を吐くハンスに手を差し出した。レイナの後ろにいたセイルが、何かに気づいたようにハンスの傍らの地面に屈み込んだ。その手は、地面に飛び散ったネイルガンの残骸を探っている。
「ハンスさん、これ…」
セイルが拾い上げたのは、ハンスが“吸い上げた”エミリオの体の一部―重結晶化された弾丸だった。正六面体の形に収まった、エミリオの個体定義。
「…」
ハンスは動くようになった右手を差し出した。セイルは二つの正六面体とともに、もう一つ、何かをハンスの掌に押し込んだ。途切れかかっていたハンスの息が安定し、血管に霊子が満ちる。
「セイル!」
代わって崩れ落ちたセイルを抱きとめたのはレイナだった。彼女は苦しげに息を吐くセイルを背負い、ハンスを振り返った。
「ハンス、早くここから脱出しましょう。打ち込まれた針状結晶が、ここの構造を『空白』にしている」
ハンスは小さく頷き、セイルから受け取った緋結晶と正六面体を内ポケットにしまい込んだ。
レイナの言葉通り、天井の岩肌が不規則に揺れ、パラパラと細かい土が降った。地面が震え、積もった結晶片が鳴る。
「急げ」
ハンスは一瞬、エミリオの頭部に視線を留めた。彼の口元がわずかに歪む。足元の地面がぐらり、と大きく揺れた。
「急いで、ハンス」
レイナが急かす。彼女は、祭壇の側に転がる教団の数人を見、諦めたように首を振った。
三人が横穴へと抜け出した瞬間、背後で天井の岩肌が、内側から食い破られるように爆ぜた。土塊の積もる鈍い音に混じって、結晶片の鳴る硬質な音が横穴に響く。落下する礫が、先ほどまで彼らがいた空間を土埃とともに埋めていく。
「…」
ハンスは振り返らない。ただ、彼の右手が内ポケットを上から強く押さえた。服の中で重結晶の角が掌を圧する。天井に吊られた煤星灯の橙の灯が、不安定に揺れた。




