虚無の残響
排水管から滴る廃液が、階層深度1410の静寂を規則正しく刻んでいる。
ハンスの歩調が止まった。煤けた壁に投げ出された彼の影が、明滅する煤星灯の橙色に引き伸ばされ、不自然に歪む。
「…着いたぞ」
低い声が横穴の湿った空気を震わせた。目の前には、かつて瀝星を掘り尽くした後の巨大な「空白」――採掘跡地の入り口が、巨大な獣の口のように開いている。
ハンスは内ポケットの緋結晶を、布越しに指先で強く押し潰した。イレブンの血が核となったその結晶は、今や火傷しそうなほどの熱を放ち、ハンスの胸板を一定の周期で叩いている。
「ハンス、それ…」
レイナが彼の背中に声をかける。彼女の視線は、ハンスの首筋から右腕へと這い上がる「黒い蜜」に釘付けになっていた。粘り気を帯びた瀝甘露が、皮膚の隙間から滲み出し、服の繊維をじりじりと焼き焦がしている。
「構うな」
ハンスは短く答え、左手の指を曲げ伸ばしした。爪の間から青白い火花が散る。レイナも自身の緋結晶を内ポケットの上から押さえると、右手の爪に銀の火花を迸らせた。
『残り120秒』
ノアの声が僕の脳に直接響く。網膜には、ノアが弾き出す膨大なログと、ハンスたちへ送り出す「共鳴」の波形が重なり合い、万華鏡のように激しく流動している。
左手首の血管は、緋結晶とのリンクによって不気味なほど鮮やかに発光し、ドクン、ドクンと、僕の心拍とは異なるリズムで脈動していた。
(ノア、ダミーの停止シーケンスの深度を上げてくれ。教団の監視の目を、もっと『深い』階層へ引きずり込むんだ)
『了解、マスター。精神汚染コードを中和しつつ、偽装命令を増殖させます。…負荷が閾値を突破。神経系への逆流に備えてください』
僕の視界の端で、カウントダウンが「118…117…」と刻まれていく。
画面上では、さも心臓炉が末端の回路から順次遮断されているかのように装う、緻密極まりない「死の偽装」が進行していた。教団の男はその偽りの数字に悦に入り、セイルの背後で白い爪からチリチリと白い火花を散らしている。
(そのまま…。そのままこっちに意識を向けていろ。ハンスさんたちが死角に滑り込むまで、一瞬も目を逸らさせるな…!)
ドクン、と灼熱の鋼を流し込まれたような激痛が脳を突き抜けた。
今僕がやっているのは、『仮想の心臓炉を止める』作業だ。敵を騙すための嘘を、真実よりも精密に作り込む。それは、もう一つの心臓炉を稼働させるのに等しい演算負荷を僕に強いていた。
「…っ、ぐ…!」
「イレブンさん!」
ニコが悲鳴に近い声を上げ、倒れそうになる僕の背中を支えた。僕の鼻から、一筋の鮮血が零れ落ち、コンソールを緋色に汚す。
「大丈夫だ…。ニコ」
僕は血を拭う間も惜しみ、震える指でキーを叩き続ける。
網膜に映る採掘跡地の入り口で、二つの光点が同時に爆ぜた。
ハンスとレイナが、教団の聖域へと「突入」を開始した合図だ。
「…90秒」
鼻から滴った血が、ポタリ、とコンソールを赤く染めた。
「…これこそが、我らが切望した静寂の序曲だ」
採掘跡地の中心、情報の残滓すら凍りついた「空白」の祭壇で、男は呟いた。その視線は、空間に投影された心臓炉の監視ログに釘付けになっている。イレブンが紡ぎ出した「死の偽装」—深層回路が一つ、また一つと機能を停止し、11区の拍動が絶えていく虚偽の記録を、男は取り憑かれたような目つきで見つめていた。
「見ていろ、子供よ。お前が信じた偽りの鼓動が、今、永遠の白へと塗り潰される」
椅子に縛り付けられたセイルの背後で、男が右手を高く掲げる。その爪先から放たれる白い火花が、祭壇の空気を震わせた。セイルは指をもがかせるが、絶縁拘束具に術式を封じられ、その爪先がコードを綴ることはない。
その時だった。
「—悪いが、その『白』ってのは俺の性分じゃねえんだよ」
静寂を切り裂く暴力的な破砕音とともに、採掘跡地の入り口が爆ぜた。
煤煙を割り、橙色の明滅を背負って飛び込んできたのは左手にネイルガンを握ったハンスだ。その指先からは青白い火花が激しく散っている。
「ハンス・レイグル…!」
男が驚愕に目を見開いた瞬間、ハンスの影に重なるようにして、銀の残像が駆けた。銀の火花とともに新型ネイルガンが教団の一人を撃ち抜く。
「そこまでよ」
レイナが鋭く告げる。
「銃火」
彼女の右手の爪から放たれた銀の火花が、一条の熱線に収束し、セイルを縛り付けているロープを焼き切る。セイルはハンスの撃ち込んだ「停止」コードによって倒れ込む男の体を踏み越え、レイナのもとに駆け寄った。
「グレイロック監査官」
「今は“警備長”よ」
レイナの銀の火花が解除コードを綴り、「絶縁拘束具」からセイルを解放する。セイルは自由になった手を軽く握り込んだあと、その十指から暗銀の火花を走らせた。
「おのれ…!」
男はハンスの放った鉤爪を左半身に受けた。だが鉤爪は「爪」を立てることができず男のローブだけを裂く。その裂け目から覗いた半透明の左半身にハンスが小さく息を呑んだ。
「虚無の白杭…」
男が呟き、白杭を左手で構えた。その半透明の爪先から激しく白い火花が散り、白杭から帯状の結晶が伸びる。結晶の帯は男の左手、左腕、肩に巻き付くように覆っていき、やがて左半身を白く塗りつぶした。
「…エミリオ…?」
振り返った男の顔を見て、ハンスの声が掠れた。左の爪先から散る火花が不安定に揺れる。
「ハンス?」
レイナがハンスの様子に気づき、焦りを滲ませて振り向く。
「ハンス・レイグル。お前が踏み止まり、我々が踏み越えた、その境界の先を見せてやろう」
エミリオと呼ばれた男は、白杭を握る左腕を振り抜いた。その瞬間、結晶で覆われた腕が棘を植え付けたかのように逆立った。それは暴走した重結晶化の産物である針状結晶である。高密度の弾丸として放たれた白い針状結晶がハンスを襲った。
「ハンス!」
レイナの叫び声が空気を震わせる。ハンスが避け損なった針状結晶が彼の右肩を裂く。だが、エミリオが意図した「空白化」は起こらない。イレブンの緋結晶がハンスの内ポケットで脈動するように熱を持った。
「…っ」
ハンスは血の滴る右肩を抑えた。地面や壁に突き刺さった無数の針状結晶から「白」が広がり始めている。
「セイル、下がれ」
ハンスはセイルを背にかばった。緋結晶を持たないセイルが攻撃を受ければ、「空白化」は免れない。
「…嫌です」
セイルはハンスを押しのけるように前に出た。
教団の術師は、エミリオを含め3人が残っている。レイナがネイルガンを放つ。だがその鉤爪はエミリオの周囲に展開された「空白」の場に接触した瞬間、瀝星導霊線ごと虚空へと霧散した。
「熱も、色も、存在の証明に過ぎない。この地において、それらは等しく無意味だ」
エミリオが一歩、また一歩と踏み出すたび、足元の岩盤が色を失い、砂のような白い粒子へと崩壊していく。
「は…っ、…?」
不意にセイルが喉を押さえて膝をついた。苦しげな呼吸が細く漏れる。
「…空気が薄くなってる」
レイナが小さく言った。膝をついたのはセイルだけではない。エミリオ以外の教団の男たちも崩折れるように倒れ込む。辺り一面に広がる白い結晶は空気すらも「空白」にし始めていた。
ハンスとレイナの内ポケットの緋結晶が不整脈を打つように激しく脈動し、キィン、と高周波のノイズを散らす。
「ほう、これで無事とはな。だが、子供の方はいつまで持つか」
エミリオが低く笑った。その左半身を覆う白い結晶は、パキパキと音を立てて右半身にも広がりつつある。
「実体が少ない分、呼吸も少なくて済むってか」
ハンスは苦しげに息をつくセイルの傍らに屈み込んだ。セイルがハンスを見上げる。
ハンスは一拍置いて、息を吐いた。
「俺が“消した”って扱いになってるのは、たぶん正しい」
ハンスは絞り出すように言葉を紡ぐ。
「あの日の結果だけ見れば…そうなる」
『3区共振実験』、契約者を心臓炉の一部に変えるという試み。逆流した廃霊がリンクしたハンスの神経を焼いた。苦悶するハンスの元に、防護壁を越えて駆け寄る親友と恋人。「来るな」と言う言葉はノイズに消えた。振り払おうとした右手を掴む親友、解けるようにその輪郭が崩れる。ハンスの左手を握った恋人は、ハンスと揃いの指輪だけを残して白い塵になった。
そして、噴き上がる廃霊は防護壁を焼き、その内側の人間をも襲った。脆い土壁のように崩れるその後ろで、一人の若い男が、残った右目でハンスを見つめていた。
「セイル」
ハンスは内ポケットから、狂ったように脈打つ緋結晶を取り出した。苦しげに息を吐くセイルの手元にそれを押し込む。
「ハンスさん…」
セイルの呼吸が落ち着いたのを確認したハンスは、ゆっくりとエミリオに視線を向けた。ネイルガンを握る彼の左手に力がこもる。
「これは俺のけじめだ」
ハンスの声は、肺の奥からせり上がるような息を伴っていた。セイルの掌に押し込まれた緋結晶が、彼の暗銀の火花と不規則に干渉し、パチパチと硬い音を立てる。セイルの青白い顔に、結晶の放つ拍動が赤く照り返した。
ハンスは立ち上がる。ネイルガンを握った左の爪先から、青白い火花が鋭く爆ぜた。




