空白の断罪
「ハンス・レイグルはその実験で『2人』を殺した」
男の言葉に、セイルは沈黙した。男は、反応を伺うようにセイルを見つめている。
「『3区共振実験』は心臓炉契約者を『心臓炉の一部』に変える実験だった。だが実験は失敗した。ハンス・レイグルは2人を殺し、本人は生き残った」
「…実験の過程で起こったのならば、事故と言うべきです」
「違う」
セイルの言葉に、語気を荒げた。男の爪先から、白い火花が散る。
「ハンス・レイグルが『触れた』ことで2人は死んだ。いや、“消えた”。死体すら、残らなかった」
男はフードを払い顔を晒した。白い面をゆっくりと取る。
――顔の左半分が無い。
正確には“透けて”いる。男がローブをまくり上げる。顔だけでなく、男の左の上半身全体が、すりガラスのように色を失っていた。
「あの実験の日から、徐々に侵食が進んでいる」
男は存在しない顔の左半分に手をやり、ゆっくりと面を付け直す。フードを被り、ローブを体に巻き付ける。
「ハンス・レイグルが“消した”2人は私の兄と姉だった。」
深層1410,採掘跡地に続く横穴。
湿り気を帯びた排熱と、鼻を突く廃霊の焦げた臭いが横穴に充満している。
等間隔に配置された旧式の煤星灯が煤けた横壁に橙の灯を落とす。先行するハンスの首筋から覗く黒い侵食痕から、かすかに瀝甘露の匂いが漏れる。
「…ハンス・レイグル、なんなの、それ?」
「あ?」
レイナの言葉に、ハンスは振り返りもしない。
「ただの廃霊じゃないみたい」
「廃霊だ。瀝甘露を爪に受肉した」
「瀝甘露を?」
ハンスはそれ以上話す気はないとばかりに速度を速める。
「…なぜそんなことを?」
「…」
ハンスは無言で足を動かし続ける。その左手は時折ホルスターに触れ、しばらく歩くと内ポケットを確かめるように抑える。
ハンスの歩調は速い。煤けた横穴に響く足音は、後を追うレイナの焦燥を煽るように等間隔で、冷淡だった。レイナは内ポケットを抑えた。そこから漏れ出るかすかな熱—イレブンが自身の血を核に練り上げた『共鳴する緋結晶』の拍動が伝わってくる。
「イレブンが言っていたわ。この結晶を通じて、彼が私たちの『個体定義』を守るって」
レイナの声が、岩壁の向こうへと吸い込まれていく。
彼女は歩きながら、自身の内ポケットにある緋結晶に触れた。イレブンの青い火花と鮮血が混ざり合ったそれは、まるで生き物のように温かく、そしてひどく危うい。
「…」
ハンスは口を開かず、首筋の黒い「蜜」を煤星灯の橙色に晒したまま歩みを留めない。
「ねぇ、さっきからどうしたの?」
「うるせえ」
ハンスはようやくレイナの方を振り返った。その顔には煤星灯が重々しい陰影を落としている。
「…この結晶が熱を帯びるたびに、思い出す」
「…何を?」
ハンスの声は、地底の熱気の中でも凍りついたかのように低い。彼は、内ポケットに入れた緋結晶を、まるで忌まわしい呪物であるかのように上から強く握りしめた。
「俺が触れると、消える。」
ハンスは吐き捨てるように言うと、再び背を向け歩き出した。ハンスの右腕の黒い「蜜」が、感情の昂ぶりに呼応するように脈動する。瀝甘露の焦げたような匂いが強くなり、ハンスは舌打ちして制服の襟を立てた。横穴の熱気は進むほどに増し、煤星灯の橙が頼りなく明滅する。
ハンスとレイナはそれ以上口を開かず、白い煤の積もる横穴を進んだ。内ポケットの緋結晶の熱が、彼らの心臓と共鳴するように、静かに脈動していた。
炉心室の通信機がノイズ交じりに鳴った。
静寂に包まれていた部屋に、砂嵐のような音とともに、くぐもった男の声が響き渡る。
「…聞こえるか、偽りの鼓動に縋る契約者よ」
僕はコンソールに置いた指先に力を込め、網膜のログを高速で走らせた。隣でニコが息を呑む気配がする。
(ノア、ハンスさんとレイナさんに現在の通信内容を共有してくれ)
『了解』
僕の網膜の端を青い走査線が走り抜ける。コンソールの隅で、ハンスとレイナに渡した「共鳴する緋結晶」のリンク状態を示す青い光が、地下へと進む彼らの鼓動に合わせて明滅していた。
「聞こえている。…要求は何だ?」
『…マスター、通信元を特定中。教団は独自の秘匿回線を使用しています。音声信号に「空白化」の処理が施されており、位置情報の偽装が三重にかけられています』
ノアの冷静な声が脳内に直接響く。
「要求は一つ。心臓炉の停止だ」
通信の向こう側で、男が宣言する。
「嫌だ、と言ったら?」
「お前の仲間が1人、『白』に還ることになる」
男が言葉を切った。ガタリ、と物音が鳴り、ホログラム・ウィンドウが展開された。
「…イレブンさん」
(―やっぱりか)
そこに映ったのは椅子に縛り付けられたセイルだった。その声は微かに強張っている。
「セイル君、無事か?」
「はい。ただ、絶縁拘束具を装着されていて、術式が使えません」
通信機の向こうで衣擦れの音がし、男の低い笑いが響いた。
「聴いたな。…さあ、レバーを引け。お前が心臓炉の拍動を止めさえすれば、この子供は解放される」
「自分が何を言っているのか分かっているのか?炉を止めれば、この区に住む全員が死ぬ。あんたたちだって例外じゃないはずだ」
「死ではない、解放だ。お前が無理やり繋ぎ止めているこの泥のような現世を、我々は終わらせてやるのだよ」
僕は返答を遅らせ、ノアに脳内で指示を送る。
(ノア、バックトレースを継続。相手の虚数回路を逆ハックして、映像信号を強制的に引き出せるか?)
『実行中です。ただし、敵のファイアウォールは論理構造ではなく、観測者の正気を削る精神汚染コードを含んでいます。…マスター、演算負荷の70%を本機に回してください。貴方の脳が焼き切れる前に、私が「入口」をこじ開けます』
「交渉の余地はないのか?」
僕は冷静を自分に強い、時間を稼ぐために言葉を繋ぐ。コンソールに立てた爪先からちかちかと青い火花が散った。
「ない」
男は言下に答える。
『解析完了。マスター、音声の背景から反響音を抽出。座標確定—深度1410、採掘跡地最奥の空洞。…映像リンク、強制接続』
ノアの言葉とともに、網膜にノイズまじりのモノクロ映像が展開された。
岩肌に囲まれた空間。白いローブ姿の人間が数人。その内の一人が、セイルに通信機を向けている。椅子に縛り付けられたセイルの背後には、白い面を被った男が立ち、その右手の爪先からは、白い火花が激しく散っていた。
「さあ、答えろ。契約者よ。」
男は声を強めて迫る。
(ノア、教団の通信端末を一時的にオーバーロードさせて、向こうのセンサーを狂わせることは可能か?)
『容易です。しかし、実行すればこちらのハックが露見します。…ハンス達が突入地点に到達するまで、あと300秒。マスター、もう少し時間を稼いでください』
「……分かった」
僕は通信機に向かって、苦々しく溜息をついた。
「心臓炉の完全な停止には、正規の停止コードを使用した、パージシーケンスが必要だ。11区の炉は不具合だらけで、強引に止めれば霊子が暴走して、制御不能になる」
「では心臓炉ごと破壊しろ」
「停止できないとは言っていない。今から停止コードを生成する。300秒だ。それだけの時間がかかる」
「…300秒か。よかろう、待ってやる。だが一秒でも遅れれば、この子供の定義を『空白』に書き換える」
僕は爪から青い火花を散らせ、意味のない、だが複雑に見える「ダミーの停止シーケンス」を画面に流し始めた。
(ノア、共鳴率を上げてくれ。第1層、事象重層化隔壁を準備)
『了解』
共鳴率の上昇に従い、僕の左手首の血管が緋色の光を帯びて脈動した。僕と二人を繋ぐ、血のリンクだ。
(頼みます…ハンスさん、レイナさん。)
網膜の隅で、300からのカウントダウンが、静かに始まった。




