繋ぐための形
眠い。熱い。重たい瞼を開くと、ホログラムのノアが僕の顔をのぞき込んでいた。
『おはようございます。マスター。休眠時間は3時間です』
身体を起こそうとすると、左半身がひどく重い。 左腕はまだ、心臓炉の廃熱を無理やり循環させているかのように、鈍い熱を帯びていた。
「…セイル君は?」
『セイル・ヴァランシエルとグレイロック警備長は、彼らの居室へ移動しました。セイルのバイタルは、右腕の結晶の定着とともに安定しています』
ノアの言葉に、わずかな安堵が胸をかすめる。 あの時、僕が左腕に受けたのは、ただのノイズではなかった。 あと銀の結晶の奥に、かつて誰かを守ろうとした強固な意志の断片の残滓があった。 それを僕が「死」のコードで焼き切ったのだ。
僕は右手で、鈍い熱を持った左腕をそっと撫でた。 皮膚の表面には、あの銀の塵がこびりついたようなザラつきが残っている。
『マスター、今は休んでください。あなたの状態は完全ではありません』
「分かってる。確認するだけだ」
僕は重い足取りで簡易ベッドを下り、仮眠室の扉を開く。11区の薄暗い廊下には、心臓炉の低い唸りが響いている。
煤星灯の橙の灯が揺れる。廊下の壁を走る排熱管は、心臓炉の拍動に合わせて小刻みに震え、焦げた油の匂いを撒き散らしていた。
レイナとセイルの居室の扉は、錆びた蝶番が軋む音を立てて開いた。
室内には、11区特有の白っぽい塵が舞っている。ベッドに腰掛けたセイルは、自らの右腕に刻まれた結晶の紋様に、感情の読めない視線を当てていた。傍らでは、レイナが飲み残しのスープの皿を手に、その様子を見守っている。
セイルの手元には、崩れかけた正八面体がいくつか転がっていた。
「…イレブンさん」
セイルの指先から、暗銀のコードが綴られる。だが、空中に描かれた正八面体の稜線は、結合を完了する直前に、急速に白濁していく。結晶構造は維持できず、白い塵となってシーツの上に降り積もった。
「…作れない。形を維持しようとするそばから、内側から食い破られるみたいだ」
セイルの声は、乾燥した空気の中で低く沈んでいた。その右腕には暗銀と銀の結晶の紋様が定着し、不規則な明滅を繰り返している。
僕はセイルに歩み寄った。網膜の奥では、ノアが不可視の演算フィールドを展開し、セイルの周囲で渦巻く霊子圧をミリ単位で走査している。
『マスター、推定結果を提示します。セイル・ヴァランシエルの術式自壊原因の78%は、右腕への未適応、および11区の物理定数との不適合です』
「…環境が違うんだ。セイル君。それに、君はまだその右腕に慣れていない」
僕の言葉は、排熱管が吐き出す不規則な蒸気音に紛れて、室内の白い塵を揺らした。セイルが顔を上げると、煤星灯の橙色の光がその瞳に鋭く反射し、不安定な光彩を放つ。
「…」
セイルは黙って俯いた。無機質だったその瞳に、初めて何かの影が揺らぐ。
「イレブン」
声をかけられ、僕は視線を動かした。レイナがスープの皿をサイドボードに置き、僕の正面に立つ。彼女の青灰の瞳には、深い沈痛と、それを上回るほどの真摯な光が宿っていた。
「さっきは、あんな言い方をして悪かったわ。セイルを救ってくれたこと、心から感謝してる」
レイナは頭を下げた。天井の煤星灯が不規則に瞬き、レイナの栗色の髪に橙の灯を落とす。
「いいんです。できることをやっただけです。セイル君が落ち着いたなら、それが一番ですよ」
僕が左手で後頭部を掻こうとして、指先の感覚のなさに動きを止める。レイナの視線が、僕の焼けた指先に一瞬だけ止まり、痛ましそうに揺れた。
その時、ベッドに座り込んでいたセイルが、静かに顔を上げた。
「…ネイルガンは、どこですか」
セイルの声は、感情を削ぎ落としたかのように平坦だった。だが、その視線は何かを探して、不安定に揺れる。
「…あれは」
レイナは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから躊躇うように懐へと手を伸ばした。彼女の指先が引き出したのは、黒都の最新鋭とは程遠い、11区で運用されているものと同型の旧式ネイルガンだった。セイルの右腕が異常な反応を示した「ノイズ」の源泉。
セイルの視線に、レイナはネイルガンを差し出した。セイルは右手を伸ばし、それを受け取る。グリップに刻まれた微細な傷痕をなぞり、爪先から小さく暗銀の火花を散らす。
「…先生は」
セイルがぽつりと言葉を落とした。彼の爪先から零れる火花が微かに音を立てる。
「どうして、あの結果に至ったのでしょうか」
セイルの問いは、誰に宛てたものでもなかった。ただ、右腕の銀の紋様が、それに呼応したかのように鋭く明滅する。セイルの左の爪先がシーツの繊維を削り、カサリと乾いた音を立てた。
『マスター。セイル・ヴァランシエルの心拍数が110を超過。霊子圧の波形に「拒絶」のスパイクを確認しました。右腕の結晶構造が不安定化しています。定着率、90%から74%に低下』
網膜にノアの警告が走る。
セイルの右腕、その皮下に埋まった銀の破片が、再び肉を内側から押し広げるように脈打っていた。彼はネイルガンのグリップを、力の入れ方が分からないかのように両手で持ち直した。レイナが、セイルの持つネイルガンに手を伸ばしかける。
「…何でも、計算通りにはいかないんだ」
僕は右手の爪先から青い火花を散らせ、空中にいくつかの重結晶を生み出した。L字やT字のそれは黒都の正八面体からもCMRの規格である正六面体からも遠い歪な多角形だ。
「11区では、これが動く」
それは黒都の「正八面体」のように完璧な幾何学を維持しようとはしない。
欠損を互いに組み合い、不揃いな突起で補い続けることで、構造を維持している。
黒都の術式が「正解」を体現するなら、この継ぎ接ぎの結晶は「不正解」そのものの形だろう。
「…」
セイルは黙っている。僕はその重結晶を持ってセイルに歩み寄った。彼は、その不格好な重結晶と、使い古されたネイルガンを交互に見つめる。その爪先が暗銀の火花を散らして歪な多面体のエッジに触れた。
「…不完全ですが、安定しています」
セイルの指が、ネイルガンの焼けたバレルに触れた。金属の表面には、微細な傷跡が無数に残されている。セイルの指が動くたびに微細な銀の塵がシーツにこぼれ落ちる。セイルがネイルガンの一点を見つめた。
「先生は、これを残した」
「セイル」
レイナがネイルガンを握るセイルの右手に触れた。彼女の爪先が金属の表面に当たり、小さな音を鳴らす。
「先生自身は、残らなかった」
セイルが左手で自身の右腕に触れた。その左手の指先にわずかに力がこもる。シーツの上で、正八面体の残骸が乾いた音を立てて転がった。
「…その人は、『繋ぐ』ために、形を変えたんだと思う」
僕は、左腕の鈍い熱を右手でさすった。レイナがセイルの肩にそっと手を置き、寄り添うように身を近づけた。窓の外では、日が沈み、ささやかな市が立ち始めている。
「『繋ぐ』ために…」
セイルが僕の言葉を繰り返す。僕は手の中の不格好な重結晶をセイルに差し出した。セイルはそれらを拒絶することなく受け取る。彼の蒼い爪先が歪な多角形をなぞった。
「…」
セイルは顔を上げ、右腕から左手を離してベッドから立ち上がった。
「セイル…」
レイナが小さく呼んだ。セイルはネイルガンをシーツの上に置き、ゆっくりとコードを綴る。彼の右手の爪先から、暗銀の火花が零れた。
「…」
彼の掌に転がったのは、面の歪んだ正八面体だった。だが、それは崩れることなく、確かに彼の手の上で形を保っている。
「不完全ですが」
セイルが微かに笑う。レイナが安堵の息を吐くのが分かった。彼女はセイルの手のひらの上の歪な重結晶を見つめ、彼に歩み寄った。
「セイル君―」
僕が続けようとした時、キィン、という、鼓膜を直接針で刺すような高周波のノイズが室内に響き渡った。
『警告。大気中の情報密度が急激に飽和点を超過。廃霊反応、液状化を開始します』
ノアの無機質な警告が網膜に赤く点滅する。
窓の外、先ほどまで見えていた市場の煤星灯の橙色が、一瞬にしてかき消された。夜の闇を塗り潰すように、空から音もなく降りてきたのは、雪よりも重く、霧よりも密度の高い「白」だった。
「…白い雨」
レイナが短く、鋭く言った。窓の外で始まったそれは、水滴ではない。空気中に浮遊する廃霊が、高密度化して白い液体へと変質し、重力に従って滴下し始めていた。
窓ガラスを叩く音は、パチパチと硬い火花が散るような乾いた音を立て、窓の外を白濁した霧へと変えていく。
「セイル君、窓から離れて」
僕の言葉にセイルはネイルガンを持って窓から離れ、外の景色をじっと見つめた。
パチ、と爆ぜるような音とともに窓ガラスの表面が変質し始めている。白い雨が触れた箇所から不規則な結晶体が広がり、微細な亀裂を走らせながら、窓を覆っていく。
その時、廊下から扉を叩く音が響いた。
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、建付けの悪い扉が勢いよく撥ね飛ばされる。
「イレブン」
飛び込んできたのはハンスだった。彼の呼吸は浅く、手の皮膚には、屋外の「白い雨」を浴びたのか、火傷のような赤い斑点が浮き出ている。
「主配管が…第4区画の、心臓炉直結のパイプが弾けた」
ハンスの声は、廊下を流れる排熱管の不規則な振動に掻き消されそうになっていた。
彼の背後の廊下からは、既に凄まじい轟音が響いている。
「雨が配管の継ぎ目を食い破ったんだ。このままだと、排熱が逆流して管理庁舎が内側から溶解する」
ハンスが吐き出した言葉と共に、足元の床板が、突き上げるような鈍い振動に震えた。窓の外から、パキパキという音が断続的に鳴る。
心臓炉の「拍動」が、白い雨とともに不整脈を刻み始めていた。




