琥珀色の導体
僕の左腕へ流れ込むのは、高圧の霊子流だ。それは皮膚の裏側を、摩擦音を立てて通過した。あらゆる情報の駆動を停止させる「死」そのものの重圧だ。炭化していた指先が無機質な灰白色へと変質する。
「…これなら、掴める」
僕は左手を伸ばし、セイルの右腕で脈動する銀の結晶を掴んだ。
『マスター。銀の個体定義と接触。…情報の圧力が想定値を200%超過』
接触面で、銀の結晶と僕の青い火花が激突し、高周波の鈴鳴りが炉心室に響き渡った。銀の奔流は、行き場を失った演算負荷を濁流のごとく僕の左腕へ流し込む。
僕の左の爪先から、温度を増した青い火花が激しく爆ぜた。情報の摩擦熱が皮膚を焼き、焦げた臭いが充満する。
後ろに立っていたハンスが数歩近づいた。屑煙草の灰白色の煙が視界の端に映る。
「止まれ…ッ!」
僕が指先に力を込めると、セイルの右腕を組み替えようとしていた銀の結晶が、「肉体の死」という静止コードに触れてその輪郭を融解させた。硬質な結晶構造が流体状の熱へと変わり、僕の左腕という巨大な「排熱先」へと吸い込まれていく。
「…あ」
レイナが、持っていたネイルガンを床に落とした。
乾いた金属音が響く。彼女は自分の右手を凝視していた。そこには、ネイルガンを握っていた時に移った、微かな銀の塵が残っていた。
セイルの右腕を覆っていた銀の結晶が、剥がれ落ちるように崩壊していく。露わになったセイルの皮膚には、肉と結晶が歪に混ざり合った境界線が、痣のように刻まれていた。だが、その脈動は、先ほどまでの狂ったような律動ではない。
『マスター。「死」の静止コードがセイルの右腕に固着していた強力な個体定義を分解、停止させています。』
ノアの声は、もはや脳内だけでなく、左半身の震えそのものとして響いていた。
掴んだ左の掌から、何かが伝わってくる。
それは単なる演算負荷やノイズではなかった。
指先を通じて、強固だった「誰か」の輪郭が、砂のように指の間から零れ落ちていく感覚。
かつて誰かの肩を抱いたかもしれない手の温もり。「守る」という意志。重厚な銀の演算。それらすべてが、僕の青い火花によって銀の結晶が融解するたびに薄れ、色褪せ、消えていく。
「…消える」
レイナが小さく零した言葉は、ノイズの爆ぜる音に紛れた。銀の塵がセイルの右腕から零れ落ちていく。
「…90%。定着、完了…」
僕が左手を離すと、セイルの腕からは、銀の結晶は糸くずほどの名残を残して消えていた。
左目の熱が引いていく。
急激に色彩を取り戻していく視界の中で、酷使された視神経が焼けるような残痛を訴えた。僕は膝を突き、激しく喘ぐ。ノアが遮断していた痛覚が、代替処理の解除とともに一気に押し寄せてきたのだ。
「…イレブン」
ハンスが僕に歩み寄り、肩を支えた。ニコも走り寄ってきて、僕の左腕を心配そうに見つめる。
「…ったく、とんでもないものを持ち込んでくれたな」
ハンスが僕の左腕と、ポッドで落ち着いた息を立て始めたセイルを交互に見ながら零した。炉心室に満ちていた銀のノイズは霧散した。代わりに、僕の左腕からは、廃霊の焼ける煙が白く立ち昇っている。
「…あの、これ」
ニコが床に落ちていたネイルガンを半透明の右手で拾い上げ、困ったように呟く。レイナは答えなかった。彼女は自身の震える指先を見つめている。
「…セイルを。もう、休ませてあげたい」
レイナが、絞り出すような声で言った。彼女は顔を伏せ、その表情を髪の影に隠した。そこにあるのはただ、痛々しいほどの疲弊だった。
「そうだな。ここでの処置は終わった」
ハンスが僕の肩を支えて立ち上がらせ、顎でニコに指示を送る。ニコは「はい!」と短く応じると、炉心室の隅から古い折り畳み式の担架を抱えてきた。
「警備長さん、手伝ってください。セイル君を…あなたたちの居室まで運びましょう」
ニコの言葉に、レイナはハッとしたように顔を上げた。彼女はネイルガンを、重い枷でも持つかのような手つきでニコから受け取り、懐へしまい込んだ。そして、ニコと共にセイルを慎重に担架へと移していく。
担架に乗せられたセイルの顔色は、先ほどまでの銀色の侵食の熱が嘘のように静まり返り、泥のような深い眠りに落ちていた。
「イレブン、お前も休め。右手の処置と左腕の冷却を忘れるなよ」
ハンスが屑煙草を噛み締めながら、どこか安堵したように小さく笑った。
レイナとニコが担架の両端を持ち、炉心室の重い扉へと向かう。レイナは扉を抜ける直前、一度だけ僕の方を振り返った。
「…ありがとう、イレブン」
彼らの足音が遠ざかり、再び炉心室には、心臓炉が奏でる低周波の駆動音と、僕の左腕から立ち昇る、廃霊の焦げるかすかな臭いだけが残された。
『マスター。あなたのバイタルは安定していますが、左腕の組織に広範囲の情報の「虚脱」が見られます。…少し、眠った方がいいかもしれません』
ノアの囁きを遠くに聞きながら、感覚の消えた熱っぽい左腕を、右手で覆った。
コンコン、とノックの音。レイナは扉に顔を向けた。
「―どうぞ」
「飯だ」
入ってきたのはトレーを持ったハンスとニコだった。トレーの上には湯気を立てる皿が乗っている。ハンスはサイドボードにトレーを置いた。
「…これは?」
レイナはトレーの上に並んだ「食事」を凝視したまま、微動だにできなかった。
彼女の知る「食事」とは黒都や0区のクリーンルームで厳格にカロリー計算され、滑らかなペーストや無味乾燥な錠剤として提供される効率の塊だった。あるいは、上層部の会食で供される、色鮮やかな擬似肉だ。
目の前にあるのは、それらとは対極に位置する、ノイズの塊だった。
「泥生芋のマッシュだ。見た目は泥だが、腹持ちだけは保証する。こっちは埃茸のスープ」
ハンスが事も無げに説明する横で、ニコが「大丈夫ですよ、味は…慣れれば!」と、慌てたように笑った。
「…」
レイナは、無言でスプーンを手に取った。スープからは、まるで心臓炉の排熱をそのまま凝縮したような、金属質でチリチリとした独特の臭気が漂ってくる。
「イレブンは?」
レイナはスプーンを持ったまま、ふと顔を上げた。彼女の脳裏に、イレブンの琥珀色の左目がよぎった。
「寝てる。あいつも限界だったんだろ」
ハンスは短く答え、壁に背を預けた。
「…そう。彼にはあとで改めてお礼を言わなくちゃね」
レイナは視線を落とし、手つかずのスープに映る自分の顔を見つめた。傍らの寝台ではセイルが穏やかな寝息を立てて眠っている。その右腕には、暗銀とごくかすかな銀の結晶の輪郭が幾何学的な紋様のように浮かび上がっている。
「…ん」
セイルが小さく身じろぎをして瞼を開けた。何度か瞬きをしたあと、ゆっくりと身を起こす。
「セイル、起きたのね。気分はどう?」
「…拘束布は?」
セイルが右腕に視線を落とした。左手で、結晶の痕をなぞるように状態を確かめる。
「破損したのよ。覚えていない?」
「…暴走したのですね」
セイルは顔を上げ、レイナを見つめた。その紫の瞳は音を吸い込むように静まり返っている。
「…ええ」
セイルの言葉に、レイナは一瞬だけ言葉を詰まらせた。 彼女は懐にあるネイルガンの硬い感触を確かめ、それから自分自身を納得させるように頷いた。
「でもイレブンが止めてくれたわ。…今のあなたの右腕は、安定している」
セイルは自らの右腕に浮かぶ、暗銀と銀が混ざり合う幾何学的な紋様をじっと見つめた。その右手の感覚を確かめるように五指を曲げ伸ばしする。
「…」
セイルの左の蒼い爪からチリ、と暗銀の火花が散った。彼は右手にも同じように火花を灯し、比べるように両手を見つめた。空気中のわずかな廃霊が火花に焼かれ、塵になって零れる。
「…ノイズが多い」
「そりゃ11区の“仕様”だ」
セイルの言葉にハンスが鼻で笑った。屑煙草をポケットから取り出し、セイルの右腕に視線をあてた後、しまい直す。
「イレブン…さんは?」
「眠っているそうよ」
レイナはサイドボードのトレーのもう一方をセイルに手渡した。カチャリ、とスプーンとトレーが触れ合い小さな金属音が鳴る。
「…食事ですか」
セイルはレイナのような戸惑いは見せなかった。静かにスプーンを取り、機械的な手つきで口に運ぶ。その様子にハンスが片眉を上げ、ニコはぱちりと瞬きをしてセイルを見つめた。
「…ぅ、っ」
セイルが口元に手を当てて咳込んだ。レイナがその背中をさする。
「大丈夫?」
「…栄養の摂取は回復に必要な行為です」
セイルは青白い顔のまま、吐き気を堪えるように喉を鳴らした。埃茸の刺激が、彼の細い喉を容赦なく焼く。
「ですが、この『食事』は、少々ノイズが過ぎます」
「ノイズだろうが何だろうが、そいつを燃やさなきゃ明日の演算はできねぇぞ」
ハンスが突き放すように言いながら、セイルに歩み寄った。
セイルは再びスプーンを手に取ると、今度は慎重に、まるで未知の劇物を検品するかのような手つきで泥生芋を口に含んだ。ザラついた澱粉質が舌の上で砕け、微弱なノイズが歯茎を突き抜ける。
その様子に、レイナは自らの皿に残った食事を見つめ、複雑な表情を浮かべた。意を決したようにスプーンを手に取り、少しずつスープを口に運ぶ。
セイルは静かに目を伏せ、機械的な律動で咀嚼を続けている。その右腕に刻まれた暗銀と銀の紋様は、心臓炉の拍動に呼応するように、淡く、けれど絶えることなく明滅した。
「ニコ。イレブンの様子を、定期的に報告して」
レイナの指示に、ニコは「了解しました、警備長さん!」と元気よく敬礼してみせた。その様子にレイナの口元にも微笑みが浮かぶ。
不意に、カチャン、と小さな金属音が響いた。セイルが右手の爪先に暗銀の火花を灯している。彼は空中に小さくコードを綴り、重結晶化を試みていた。
「セイル?」
「…正八面体が、作れない」
セイルの指先で、暗銀の火花がひび割れた音を立てて霧散した。黒都の学院で首席を冠していた彼にとって、正八面体の構築は、呼吸と同じほどに容易で完璧な基礎技術であったはずだ。
だが、今、セイルの手にあるのは、面がひび割れるように崩れる、歪な正八面体の残骸だった。




