二重波形の脈動
管理庁舎の重い防護扉が、油切れの悲鳴を上げて開く。
内部に満ちていたのは、焦げた金属の匂いと、心臓炉が吐き出す微細な廃霊が混ざり合った、11区特有のこもった空気だった。
「…これが、11区の管理実態なの?」
レイナが足を一歩踏み入れた瞬間、その言葉が埃っぽい廊下に落ちた。
ロビーの隅には、何十年も前に「ゴミデータ」としてパージされたはずの古い演算器が山積みになり、コンソールの隙間からは、結晶化した廃霊の白い粉末が雪のように零れている。黒都とは対極にある、情報の掃き溜め。
レイナの指先が、腰のホルスターに収められた最新型ネイルガンに触れた。彼女の青灰の瞳が、天井で力なく明滅する煤星灯や、継ぎ接ぎだらけの配線を鋭く観察する。
「警備長、驚くのはまだ早いぜ。ここはまだ、マシな方だ」
ハンスが背後から、屑煙草を燻らせながら投げやりに言った。彼は左手で、壁に掛けられた古い11区の地図を指し示す。
「奥の『炉心室』に行ってみな。あんたが今まで『正しい』と信じてきた術式OSが、ここではどれだけ無力か、嫌でも理解できるはずだ。な、イレブン」
「…ええ、まあ。僕らにとってはこれが『普通』ですから」
僕は曖昧に頷きながら先に立って廊下を進む。ニコがセイルの荷物を持って数歩遅れながら続く。
僕の網膜では、ノアが執拗にレイナの「歩幅」や「心拍数」までをデータ化し、僕の視界を真っ赤な警告で埋め尽くしていた。
その時、僕の後ろを歩いていたセイルが、ふと立ち止まった。
「…あつい」
不意にセイルが呟いた。
振り返ると、セイルは右腕の拘束布を、左手で引きちぎらんばかりに握りしめていた。
布の隙間から溢れ出す銀と暗銀のノイズが、11区のノイズと激しく干渉し、火花を散らしている。
(これが、「出力の制限」か)
資料にあったセイルについての「保護措置」が僕の脳裏をよぎる。11区の重いノイズの海が、彼の右腕に宿る過剰な情報を、力技で押し潰そうとしているのだ。
「セイル、我慢して。…イレブン、至急、彼を『減圧』できる場所へ!」
レイナの声に焦りが混じる。
「分かりました。炉心室へ。そこにメンテナンス用ポッドがあります」
レイナがセイルの肩を支えながら僕に続く。
「ニコ、とりあえずグレイロック警備長とセイル君の荷物を彼らの部屋へ」
僕の言葉にニコが頷き、レイナの手から荷物を受け取って廊下を駆けていく。
「こっちです」
僕の先導で炉心室の古びた扉を潜ると、そこには11区を辛うじて生かし続けている「心臓炉」が、汚れた肺のように喘いでいた。
「…セイル、ここに」
レイナに支えられたセイルが、古びたメンテナンス用ポッドに身体を沈めた。彼の右腕から漏れ出す暗銀と銀のノイズは、11区に満ちた高濃度のノイズに押し潰され、逃げ場を失った熱として少年の体温を跳ね上げている。
「イレブン、外部端子を。彼の右腕の波形をこの炉のノイズに同期させて。出力を強制的に散らさないと、彼自身の神経系が焼き切れるわ」
レイナが焦燥を滲ませ、僕に指示を飛ばす。彼女の指先は、既に空中のコンソールに走り、黒都式の高度な減圧プログラムを展開し始めていた。
『マスター。この警備長のアクセスを即時遮断してください。彼女が展開している「黒都式」の減圧コードは、演算密度が高すぎてこの11区の老朽化した受容体では処理しきれません』
ノアの声が、頭蓋の内側を直接爪で引っ掻くように響く。僕の網膜では、ノアがレイナの展開したプログラムを「侵入経路」と見なし、独断で外部アクセスを全面遮断する論理障壁を構築しようとしていた。
「待て、ノア…っ!」
僕は慌ててコンソールを叩き、ノアの先走った挙動を抑え込んだ。その指先を、レイナの鋭い目は逃さなかった。
「…イレブン? あなたのコンソールの挙動が、さっきからおかしいわ。演算速度が不自然に跳ね上がっている。それに、その網膜の異常なノイズ…何をリンクさせているの?」
レイナの青灰の瞳に、かつての監査官としての冷徹な光が宿る。僕は背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、不自然にならない程度の速度で言葉を紡いだ。
「ああ、これ…。僕が自作した、OS補助システムですよ。名前は『ノア』。11区の炉は機嫌が悪くて、まともにコンソールを叩こうとすると、すぐに指先までバグが逆流してくるんです」
「自作の…補助システム? 」
レイナは目を細めてこちらを向く。―そこには、ノアがいた。
ノアは自分の存在波形を僕の視神経だけに「同期」させ、外部の光学センサーや他者の網膜からは感知されない、僕だけの不可視の領域に潜んでいた。
『…マスター。正面の対象は、私を「解析」しようとしています』
ノアは実体のない両手を僕の右肩に置き、レイナの心拍を走査する。もちろん、レイナにはその姿は見えていないはずだが、彼女の爪はその「空間の歪み」を察知して小さく銀の火花を散らしていた。
「11区の契約者が、黒都の干渉を押し返せるほどの論理装甲を、独力で?」
「装甲、っていうか単なる『癖』ですよ。僕の指先の動きや思考のノイズに最適化しすぎて、他人…特に黒都みたいな『規格品』のアクセスは、全部エラーとして弾くように学習しちゃってるんです。僕が使ってる分には問題ないんですけど」
僕は無理やり口角を上げ、ノアのホログラムを振り切るようにコンソールへ指を滑らせた。
CMRに『消去』された12区の「管理OS」であり、発狂死した12区契約者の遺産であるノア。もし正体が知れれば、0区が彼女をどう扱うか分かったものではない。
「…『癖』、ね」
レイナは僕の言葉をなぞるように呟いたが、その疑念が晴れた様子は微塵もなかった。彼女はコンソールから視線を外さず、だがその声音には鋭い刺が混じる。
「なら、なぜあなたに制御しきれていないのかしら? その『補助システム』は、あなたの指示を待たずに私への論理障壁を展開しようとした。…まるで、独自の意思を持っているかのように」
レイナの問いが、心臓炉の唸りよりも重く僕にのしかかる。僕は網膜を焼き続けるノアの赤い警告を必死に抑え込みながら、乾いた喉を鳴らした。
「…ベースが、僕のオリジナルじゃないからです。変死した前任者―11区の元契約者が残したのを、僕が無理やり繋ぎ合わせて改良したんですよ。だから時々、前主人の『防衛本能』みたいなものがバグとして暴発するんです」
「自作だったのではなくて?」
間髪入れずにレイナが問い詰める。彼女はコンソールを離れ、僕の正面へと歩み寄った。逃げ場を塞ぐような、監査官時代の圧が室内に満ちる。
「さっき、あなたは自分の癖を学習させた『自作』だと言ったわ。前任者の遺品を流用しているのなら、それは『修復』であって『自作』ではない。」
レイナの青灰の爪先から散る火花がふっ、と静まった。そのかわり、その火花を宿したような視線が僕を見据えた。
「…イレブン、あなた、私に何を隠しているの?」
「いえ…」
『マスター、あなたの指示次第では本機がこの状況に“対処”します』
ノアの尖った声が脳に刺さる。彼女の青と、「死」を内包した琥珀の瞳がレイナを見つめる。冷や汗が背中を伝ったその時、重苦しい空気を切り裂くように、灰白色の煙がレイナの視界を横切った。
「…おいおい、警備長。着任早々、粗探しかよ」
壁に背を預けていたハンスが、屑煙草を指に挟んだまま、だるそうに歩み寄ってきた。彼はレイナと僕の間に割り込むと、わざとらしく大きく煙を吐き出す。
「11区の契約者が2代続いて『変死』してるのは黒都の記録にもあるはずだろ。どいつもこいつも、壊れかけの炉を動かすために、出所不明の野良プログラムやら禁忌のパッチやらをブチ込んでる。イレブンが使ってるのも、その成れの果ての一つだ」
ハンスは左手で僕の肩を乱暴に叩き、レイナを冷めた目で見据えた。
「自作だろうが拾い物だろうが、炉が回ってりゃそれでいいのが11区のルールだ。あんたのいた『綺麗な世界』の定義をここに持ち込むな。それとも何か? そのガキの右腕を冷やすより、こいつの『自作OS』の詮索の方が大事か?」
「ハンス・レイグル」
レイナは唇を噛み、ハンスの右肩の侵食痕と、苦しげに熱を吐くセイルを交互に見た。ハンスの言葉は乱暴だが、優先順位という一点において、反論のしようがない正論だった。
「…分かったわ。今は、あの子の処置に集中する。イレブン、あなたの『道具』の暴走を抑えなさい。二度目は許さないわよ」
レイナが再びセイルへと向き直る。追及の矛先はひとまず収まった。僕は安堵を飲み込み、ノアが構築しようとしていた障壁をコンソールの底へ沈める。
「…同期を開始します」
僕はポッドから伸びるケーブルを、セイルの右腕を覆う拘束布の隙間、露出した接続端子へと差し込んだ。
「…っ、何だこれ。二つの波形が…干渉している?」
ポッドのモニターに映し出されたのは、歪な二重波形だった。
一つは、セイルという少年自身の暗銀の生体波形。そしてもう一つは、その波形に巻き付いている、重厚な、銀色の—『個人の固有波形』。
「…? 警備長、この右腕。個人の波形が検出されています。廃霊由来の重結晶を受肉したと聞いていたんですが…これは、明らかに人間の…」
「……」
レイナの肩が、微かに跳ねる。彼女はモニターを見つめたまま口を開かない。その青灰の爪先は、コンソールの上で不自然に震えている。
その震えに呼応するように、セイルの右腕がバチリ、と銀のノイズを散らせた。




