灰白の街に、火花は爆ぜて
「停学処分」
レイナは書類を目の前の卓に叩きつけた。
「あなたの差し金ね? カウス」
「心外ですね。私は単に、事実をありのまま上層部に報告したに過ぎない」
カウスは机上の黒い陶器に注がれた茶を、音もなく啜った。漆黒の傘は傍らのスタンドに立てかけられている。その斜め後ろには、ギルが無機物のように控えていた。
「『セイル・ヴァランシエルが、廃霊の汚染定義を生体受肉させ、個体の純粋性を喪失した』。…これは黒都の公理に照らせば、即時の排斥、あるいは解体処分に相当する重罪だ」
カウスは薄く微笑んだ。
「それを『11区への無期限特別実習』という名目の更生プログラムにまで減刑させたのは、私の温情ですよ」
「温情? 冗談じゃないわ!」
レイナがソファから立ち上がった。
「それに、11区送りなんて、彼の『親族』が許すと思っているの?」
「セイル君の『親族』はむしろ、それを望んでいるようですよ」
カウスの言葉に、レイナは唇を震わせた。青灰の瞳が鋭さを増してカウスを睨みつける。
「…カウス、あなたの罪―第203号、204号での実験について、上層部は耳も貸さなかった」
「上層部には『知り合い』が多いので」
その答えに、レイナの指先から銀色の火花が激しく散る。
「セイルだけじゃない。カウス、私の『監査能力の欠如による更生指導』…上層部が私まで11区送りにしたのも、あなたの…」
「ええ。206号心臓炉の変質を、リンク越しにありながら見落とした君の失態は重い。ダリウス・ベックバルトという貴重なリソースを、たかが一介の廃霊に食い破らせ、あまつさえその残骸を少年に受肉させた」
カウスは立ち上がり、窓の外に広がる黒都の幾何学的な夜景に目を向けた。
「11区は、霊子情報の掃き溜めだ。背景ノイズが多すぎる。あそこでは高密度の重結晶化は物理的に成立しない」
「…あの子をどうするつもりなの?」
「“保護”ですよ」
カウスが穏やかに答えた。その蒼い疑似爪が、自身の顎をなぞる。
「セイル君の右腕に宿る『二重波形』は、今の段階ではあまりに過剰だ。情報の出力が入力を超え、内側から自壊するのを待つだけの時限爆弾。だが、11区の濁ったノイズの中であれば強制的に出力が制限される」
カウスがレイナを振り返った。
「出力の天井が物理的に閉ざされることで、暴走は抑制され、彼の右腕はかえって安全に定着を待つことができる。劣悪な環境こそが、あの異形を安定させるのですよ」
「あの子を…実験体扱いするのはやめなさい」
レイナの声は震え、右手からは断続的に銀の火花が散っていた。自身の無力、ダリウスの喪失、そしてセイルという少年の「受肉」を許した現実。それらすべてが刃となって彼女の胸を内側から引き裂いている。だが、カウスは、その焼けるような銀の火光を、エレボスの夜景の一部であるかのように無機質に眺めた。
「では、出発の準備を。グレイロック監査官…いえ、グレイロック11区警備長。」
「どうでした?ハンスさん」
僕が声をかけると、ハンスはコンソールから顔を上げた。サイドボードには琥珀珈琲が白い湯気を立てている。
「侵食が進みすぎだとさ」
ハンスの右半身には、右手から首筋にかけて、血管に沿うように黒い「蜜」の侵食痕が残されている。煤蜂との交戦で負ったその傷は、もはや生体組織との境界を失い、皮膚を乾燥した土壌のようにひび割れさせていた。
「やるとしたら首ごと切り落とすか。完全にバグに喰われてやがる」
彼は首筋から覗く黒い侵食痕を、左指で軽く叩いた。
「…でも、それ10区の義体術師の意見ですよね?9区…いや、5区までいけば」
「変わらねぇよ」
ハンスはサイドボードの上のカップを左手で取ると、一息で飲み干した。
「こんなんでもまあ、そのへんの廃霊散らすくらいはできる。右手が動かねぇ分、他が研ぎ澄まされるってな」
ハンスが軽く左肩を伸ばす。
「そうですね。あとは、右手を使わずになぜか僕より早く終わっている、デスクワークとか」
僕の網膜の端で、青い走査線が走った。 コンソールのサブモニターが瞬き、青白い発光体がハンスの珈琲の湯気を透過して浮かび上がる。
『マスター、あなたの指先の鈍重さはもはや11区の「仕様」として諦めていますが、ハンスの並列演算を甘えの温床にするのは推奨できません。せめてご自分の報告書くらい、自力で埋め立ててはいかがですか?』
ノアは琥珀と青の瞳で呆れたように僕を眺めた。
「いや、まぁ…」
口ごもる僕に対し、ハンスは、自分を透過して浮かぶホログラムのノアを左手で払いながら、鼻で笑った。
「お前、元は0区勤務だろ。上層部へ通す報告書の書き方くらい、骨身に染みてるはずだが?」
「書類仕事は好きじゃない。それに、ここではコンソール叩くより炉を叩くほうが…あ、ハンスさん、そっちの検疫データ、まだ入力が終わってませんよ」
ノアがため息をついて僕を見つめる。
ハンスは左手一本でコンソールを叩き、僕が数時間は要するであろうデータ群を、機械的な速度で処理していく。欠落した右腕の感覚を、脳内演算の精度に置換しているかのような速さだ。
『…マスター』
ノアの声に、僕はしぶしぶ両手を動かした。
「分かってる。やればいいんだろ、やれば」
僕は息を吐き出しながら、ひび割れた灰白色の爪をコンソールへと突き立てた。青い火花が散る。0区の洗練された論理構造とは程遠い、継ぎ接ぎだらけの11区用報告フォーマットが網膜を埋め尽くした。
「…マスター。第4項目の検疫ログ、記述が冗長です。もっと情報を圧縮して」
「厳しいな、これでどうだ?」
僕が空間に指先を滑らせると、ノアの瞳が僅かに細められた。彼女は実体のない指先を僕の腕の動きに重ねるようにして、入力途中のコードを鮮やかに最適化していく。
『補助します。…ただし、これはあくまで炉の効率維持のための暫定的な処置です』
ノアが指を動かすごとに、コンソール上の冗長な記述が、最適化された論理コードへと順次書き換えられていく。彼女の指先から走る青い走査線が僕の視界で同期し、入力すべき座標を正確にハイライトしていた。
不意に、ハンスの手が止まった。
「…今日か。例の二人組が来るのは。黒都“元”監査官のレイナ・グレイロックと、高等級のセイル・ヴァランシエル」
彼は未処理のホログラム・ウィンドウを、不機嫌そうに払いのけた。ノアがそれを横目で追いかける。
「一人は自分で右腕に『廃霊』を縫い付けたガキ。もう一人は、それを見逃した監査官。11区にふさわしいな」
砂嵐の中、官用車のエンジンが、砂礫を噛むような音を立てて停止した。
11区、心臓炉管理庁舎の前に降り立ったのは、栗色の髪を風に乱したレイナ・グレイロックと、その傍らに立つ少年、セイル・ヴァランシエルだった。
少年―セイルの右腕は、厚手の拘束布で固く巻かれている。だが、その隙間からは暗銀と銀のノイズが漏れ、11区の乾燥した空気に触れては硬質な弾音を立てていた。
「はじめまして。レイナ・グレイロック警備長、それに…セイル君、かな」
僕が声をかけると、セイルは無機質な視線をこちらに向けた。レイナの目線は僕に一瞬止まってから、錆びついた庁舎を見上げる。
「はじめまして。11区契約者、イレブン」
レイナは視線を戻し、僕に右手を差し出した。彼女の指先にあるのは、やや摩耗しているが整った青灰の爪だ。
「カウス教授から軽く話は聞いてるわ。12区で“色々”あったそうね?」
「…まぁ、僕はほとんど何もしてませんが」
探られている。僕は曖昧な笑みを浮かべてレイナと握手を交わした。網膜の奥で、ノアが警戒するように青い火花を散らす。
レイナが僕の横、壁に背を預けていたハンスに視線を移した瞬間、その眉が僅かに動いた。
「あなたのことは知っているわ。元3区心臓炉契約者、ハンス・レイグル」
彼女の視線は、ハンスの首筋から覗く、煤蜂の「黒い蜜」に固定された。生体組織を炭化させ、剥き出しのバグが肉を侵食しているその惨状。黒都の医療術式であれば即座に「切断」を宣告されるレベルの汚染だろう。レイナの指先から、銀色の火花がチリリと爆ぜる。
「…右腕の神経系、完全にバグと癒着しているわね。よく理性を保っていられること」
「黒都の『綺麗な』記録に俺の名前が残ってるとはな。光栄だ、“元”監査官様」
ハンスは意に介した様子もなく、ポケットから出した使い古された屑煙草を左手で口に運んだ。彼は右腕をだらりと下げたまま、短く灰白の煙を吐き出す。
「まあ一つよろしく、“警備長”。11区じゃ廃霊もノイズも日常だ。黒都でのやり方はさっさと忘れた方がいいぜ」
ハンスは、レイナの背後に立つセイルをちらりと見た。拘束布に包まれノイズを散らす彼の右腕に、一瞬だけ視線を留める。
「ハ、ハンス先輩! 失礼ですよ!」
ハンスの背後で所在なさげに立っていたニコが、真っ青な顔で声を上げた。彼は黒都の「高等級」のバッジを胸に付けたセイルと、かつて恐れられた監査官の威圧感に気圧され、震える半透明の右手で何度も敬礼を繰り返している。
「あ、あの! 11区警備兵のニコ・フィーリです! お、お荷物、お持ちしますから!」
「いいわ、自分でやる。…セイル、行きましょう」
レイナはニコの戸惑いを無視し、きびきびとした足取りで庁舎の扉へと向かった。セイルは一言も発さず、右腕を気にしながら、彼女の後に続く。
『マスター。あのセイルという少年の右腕、ハンスと同じ、“不純物”が呼吸しています。ですが、その密度はハンスのそれよりも遥かに破壊的です。それに、あの「警備長」の騒がしい火花…この場所に、あんな高出力のノイズを持ち込まれるのは不快です』
ノアの散らす青い火花が目の底を染める。レイナが黒都の元監査官ということもあり、ノアはセンサーを研ぎ澄ませているのだろう。彼女の走査パルスが、神経質なほど細かく網膜の端で震え、視界に「警告(Warning)」の赤いアラートが浮かび上がる。
「…ノイズ、か」
僕は欠けた爪の右手を軽く握りしめた。
黒都を逐われた二人の来訪者。彼らが持ち込んだ“ノイズ”。目の前の砂嵐は、先ほどよりも激しさを増しているようだった。




