異形の継承
カウスの声が淡々と告げた。
レイナは、重結晶に触れたまま動けずにいた。指先の傷から流れる血が、廃霊の汚染によって次々と白い塵へ変わり、感覚が麻痺していく。だが、その痛みさえも、胸の奥に広がる空虚に比べれば、あまりに微弱で、遠い。
(…間に合わなかった)
彼女が常に口にしていた「現場では“正しい”より“間に合う”が優先」という信条が、最も残酷な形で自身に突きつけられていた。リンクが切れた瞬間の、あの銀色の波形が断絶する衝撃。それが今さらのように痛みとなって心臓を掴んだ。
「ダリウス…」
レイナは、震える手で重結晶の表面をなぞる。そこにはもう、ダリウスの熱も、声も、重厚な演算の響きも何も残っていない。レイナは結晶に額を押し当て、失われた波形の残響を、網膜の裏側で追い続けた。
誰も口を開かない。
カウスは漆黒の傘を支えに、彫像のようにその結末を眺めている。セイルは抜き取ったネイルガンをじっと見つめている。
静寂の中、暗銀と銀の混ざり合った重結晶が、脈動を止めた心臓のように鈍く光る。
不意に、セイルが重結晶の数センチ手前まで歩み寄った。足元にダリウスのネイルガンを静かに置く。彼の瞳には、レイナのような感傷は浮かんでいない。その多面体のエッジを、貫き通すような眼差しで観察している。砕けた右手の爪から暗銀の火花が散発的に零れ落ちていた。
セイルは、重結晶の最も捻じれがひどい「融合点」に、血に染まった右手を置いた。
パキ、と、微かな亀裂の音が響く。
「…セイル、何をしているの」
レイナが掠れた声で尋ねる。しかし、セイルは答えなかった。その意識は既に、重結晶の情報の深部へと集中している。
「侵食率は推定で七割以上。個体定義は既に単体では維持不能」
セイルは視線を結晶の奥へ固定したまま、淡々と状況を記述する。その右手の火花が激しさを増す。残された爪から、幾何学的な光の格子が展開され、結晶の脈動と同期を開始した。
「僅かに残存波形を確認…しかし廃霊との融合状態にあります」
レイナはセイルを見つめた。
「まだ完全に失われていない」
セイルが重結晶を指さす。
「この中に、先生の波形が残っている」
「…何を言ってるの」
レイナは一歩踏み込んだ。
「再構成による回収は理論上可能です」
セイルはゆっくりと顔を上げる。その瞳は異様に静かだった。
「必要なのは、十分な演算リソースと―」
セイルの右手の、砕けた爪の隙間から、鋭い暗銀の火花が散る。その火花は露出した指先の肉を巻くように収束し始めた。
「同等以上の複雑性を持つバイパスがあれば」
「セイル、それは―」
「問題ありません」
セイルが被せるように言う。
「理論は成立しています」
暗銀の火花を纏った指先が、重結晶の融合面に食い込んだ。
「再構成可能です」
その言葉は、誰に聞かせるためでもなく、ただ自身の演算結果を確認するように発せられた。
「…待って。セイル、あなた、何を―」
レイナの声を無視して、セイルはさらに爪先を食い込ませた。重結晶の表面が、内側から呼吸するように脈打つ。
セイルは、自身の砕けた右爪の「代わり」として、生体組織へと強制的に受肉させようとしていた。廃霊の汚染と、ダリウスの残響、その両方を、自身の右手に宿そうというのだ。
「セイル!」
レイナが目を見開き、踏み込む。
だが、セイルは止まらない。僅かに顔を顰めると、その指先を一層深く重結晶へと沈めた。接触点から、銀と暗銀の混ざったノイズが滲み出す。セイルの暗銀の火花が乱れ始め、その指先の皮膚が崩れる。
「やめなさいッ!」
レイナがセイルの肩を掴んだ。
「再現可能域に入った」
セイルが静かに言葉を紡ぐ。重結晶が、硬質な音を立てて軋みはじめた。外側ではなく、内側から崩れ始める。パキ、と内側から開くように亀裂が広がっていく。
結晶が、弾けた。
飛び散ったのは破片ではない。“流体化した情報”が、セイルの右腕へと流れ込む。
「―ッ!!」
セイルの腕が、それを受け止める。銀と暗銀の混ざった奔流がセイルの爪先、指先を越えて肘の裏まで侵食する。レイナが引き戻そうとするも、セイルの右腕は重結晶のなかに囚われていた。
「先生の定義を―」
セイルの歯の隙間から、言葉が漏れる。
「ここに、固定する」
セイルの背中が大きく反る。右腕が、さらに膨張した。血管の代わりに銀と暗銀の混ざった筋が浮き上がる。右腕の骨格の輪郭が歪み、皮膚の下で、何かが蠢く。セイルの肩をつかむレイナにまで、その衝撃が伝わった。骨が軋む音、爪が割れる音。そのすべてに混ざって別の“拍動”が鳴る。セイルの肩が大きく上下し、呼吸が荒くなる。
重結晶の「核」が解けるように形を失った。セイルが右腕をゆっくりと引き抜く。
「…成功、です」
セイルが息を吐く。
セイルの右腕は、元の形を失っていた。銀と暗銀が混ざり合った、歪な多面体の断片が皮膚を押し上げている。だが、それだけではない。
―“二重になっている”。
レイナは凍りついた。
その奥で、“誰かの波形”が脈打っていた。右手の爪から不規則に銀の火花が散る。
「まだ、不完全ですが」
セイルはゆっくりと顔を上げた。左手に小さく暗銀の火花が灯る。その爪先で、浮き上がった結晶の断片を右腕のなかにゆっくりと押し戻していく。
「…セイル」
レイナの声が掠れる。
「それ、もう―」
彼女の言葉は続かない。
その右腕―肉と結晶が癒着し、皮膚の下で銀と暗銀のパルスが激しく明滅する異形を、彼はまるで道具を確認するように見つめている。
セイルが、ゆっくりと首を傾げる。
「制御可能です」
セイルの声は、熱に浮かされた者のそれではなく、ごく無機質だった。右腕を一瞥すると、屈み込み、足元のネイルガン、ダリウスのそれを拾い上げた。
「…セイル」
レイナが絶句したまま、数歩後ずさった。
その時、背後で静止していたカウスが、ゆっくりと二人に近づいた。
「グレイロック監査官。これは極めて真っ当な『継承』ですよ」
カウスは、セイルの傍らへと歩み寄った。黒い手袋に包まれた指先が、セイルの右腕を指し示す。
「ダリウス・ベックバルトは、自身の人生という重い情報を杭に変えた。そしてその結果として残された重結晶を教え子が継いだ。セイル君の中で、彼は生き続ける」
カウスの蒼い疑似爪が、セイルの右腕に触れるか触れないかの距離で停止する。
「セイル君。君は素晴らしい。君はその『閉じた回路』を強引にこじ開け、自分という新たな導体を接続した。生体重結晶の受肉は成功例がごく少ない」
「先生の波形が、まだ残っていました」
セイルはカウスを見上げず、ただ右腕の結晶の拍動を調整することに全神経を注いでいる。
「確かに生体重結晶の受肉は成功例が少ない。けれど俺は成功例をごく身近で見てきました。」
セイルがカウスを見つめた。
「ギル。あなたの成果です。カウス教授」
「ふふ、なるほど、確かに君はギルに大変興味を示していました」
カウスが、喉の奥で硬質な笑い声を漏らした。
「君ならあるいは、と思っていました。セイル君。ギルの構造を解析し、それを自身の受肉に置換する。しかも、廃霊との融合体という高難度の素材をこれほど美しく縫い合わせるとは。君の学習能力は、私の期待すら凌駕している」
「カウス…! あなた、それで黙って見ていたの!? セイルが、ダリウスを…自分の肉に縫い付けるのを!」
レイナの叫びを片頬で受け止めると、カウスはセイルの右腕に視線を戻す。輪郭はかろうじて腕の形を取り戻しつつあったものの、皮膚は銀と暗銀の筋が混じりあい、不規則に脈動している。
「さあ、帰りましょうか。報告すべきことが山積みです」
カウスは満足げに背を向け、ジャンクションの出口へと歩き出した。
セイルは、重結晶を受肉させた右手を、静かに、だが確実に握りしめた。
その指先から、ダリウスと同じ銀色の火花が、セイルの暗銀に混じってチリ、と小さく弾けた。
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