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自己定義の装填

地下空洞を支配する白濁した霧が、セイルの視界を執拗に遮る。

右手の爪は砕け、指先を焼く演算熱の痛みが、冷たい空気のなかでやけに鮮明だった。

「―っ」

セイルの左手の爪から暗銀の火花が散る。彼の爪先は前方の闇から、二つの対照的な波形をとらえた。

一方は、研ぎ澄まされた、絶対零度の「漆黒」。

もう一方は、調律を保ちながらも、激しく乱高下する「銀」。


「そこにいるのは、セイル君ですか?」

霧の奥から、漆黒の傘を携えたカウスが、まるで書斎を歩むような足取りで姿を現す。その後方、レイナ・グレイロックが、自身の共同契約者パートナーの苦痛をリンク越しに受けながら、青灰ブルーグレーの瞳を大きく見開き、セイルの姿を射抜いた。


「セイル! その手…!」


レイナが駆け寄り、セイルの肩を掴む。


「…グレイロック監査官、カウス教授」


セイルはレイナの手を静かに、だが拒絶するように振り払った。彼は荒い呼吸を整え、紫の瞳をカウスの無機質な視線に固定する。


「ダリウス先生が、後方ジャンクションで交戦中です。対象は…結晶構造の廃霊。俺の『正八面体オクタ』のコードを、内側から解析して解体しました」


セイルの声は、傷ついた指先の痛みを感じさせないほどに平坦だった。


「解析された、ですって…?」


レイナの顔が戦慄に強張る。黒都の最高定義、論理の要塞であるはずの『正八面体オクタ』が、ただのエラーの集積である廃霊に解読された。それは、黒都エレボスの絶対的な優位性が、文字通り根底から「食い破られた」ことを意味していた。


「なるほど。100年という時は、廃霊にさえ、学院の模範解答を読み解く程度の教養を与えたようですね。実に興味深い学習能力だ」

カウスは、黒い手袋に包まれた指先を顎に添え、目を細めた。

「カウス! 今は感心している場合じゃないわ! ダリウスが…リンクが、壊れそうなくらい悲鳴を上げているのよ!」

レイナが叫び、指先から鋭い銀の火花を散らす。腰に提げた携帯瀝星灯がチリ、と小さく音を立てた。


「俺も行きます」


セイルは、凝固し始めた血と廃霊の煤にまみれた右手を、再度強く握りしめた。剥き出しの神経に、新たな痛みが走る。レイナがセイルの顔を見つめた。


「俺は戦えます。それに、俺はあれと交戦しました。情報を提供できます」


カウスは、セイルの砕けた爪をちらと見やった。漆黒の傘の石突で、鋼鉄の床を小さく叩く。


「よろしい」


カウスの黒手袋の蒼い疑似爪の先から黒い火花が爆ぜた。鼓膜を叩く乾いた音と共に、周囲に立ち込めていた濃密な廃霊の霧が、目に見えない巨大な鞭で打たれたかのように激しく震え、一気に霧散する。


「では、行きましょうか」

カウスの先導で、四人は霧の深部へと足を踏み出す。

セイルは左手の爪を右手に立て、自らの神経に「強制冷却パージ」のコードを打ち込む。右指の痛みは遠ざかり、鈍く冷たい感覚だけが残る。セイルは、その右手を一度だけ強く握り直し、カウスの背を追って霊子回路のジャンクションへと歩を進めた。



ジャンクションの床は、過剰な霊子循環による情報の摩擦熱で青白く焼けていた。

その中心で、ダリウスは自身の十指から絶え間なく銀の火花を散らしている。

対峙する廃霊は、不定形な「心臓」を核としながらも、その外殻を鋭利な「正八面体(オクタ)」の断片で覆っていた。セイルから奪い、解体し、自らの肉として再構築した論理の刃だ。


ダリウスがネイルガンを連射する。

だが、着弾の瞬間、廃霊の体表を覆う結晶が細かく振動し、ダリウスの術式(コード)を逆位相で上書きした。

キィン、と鼓膜を直接削るような高周波。

鉤爪は廃霊の表皮に掠り傷のみを残し、砂のように崩れて霧へと還る。


「…俺のコードまで、数秒で最適化パッチしてくるか」

ダリウスの首筋に汗が滴る。

指先の爪は既に演算熱で炭化し、剥がれ落ちた甘皮からは鮮血ではなく、熱せられた水銀のような銀色の火花が溢れ出していた。

ジャンクションの壁面に設置された計器が、霊揮率レドの危険域を告げるアラートを撒き散らす。

廃霊が、地を這い獣のように距離を詰めた。

その中心核から、セイルの術式を歪に肥大化させた「暗銀の正八面体オクタ」が射出される。

ダリウスは、自身の焼ける指先から火花を散らせ、全演算リソースを防御壁へと注ぎ込む。

衝突の瞬間、ジャンクション一帯に情報の液状沈殿が爆ぜ、視界が白濁したノイズに塗りつぶされる。

「くっ」

ダリウスはネイルガンを構え直した。コードを瞬時に最適化パッチしてくるこの「学習体」を屠るには、既存の論理ロジックでは足りない。

白濁したノイズの向こう側から、廃霊の触手がダリウスの心臓を狙って加速する。

(足りないなら、今ここで編み出すまでだ)

ダリウスは避ける動作の代わりに、右手のネイルガンを握り込み、重心を前方へと傾ける。


「…ッ」


白い触手がダリウスの左肩に突き刺さる。

衝突の衝撃は、肉を裂く鈍い音ではなく、ガラスが粉砕されるような硬質な破壊音を伴った。接触面から廃霊の汚染エラーが急速に蔓延し、噴き出した血すら白い塵となって散る。ダリウスの左腕は「白い結晶」へと置換され、腕そのものがひび割れるように崩壊していく。

ダリウスは地を蹴る速度を緩めず、右手のネイルガンを崩れ落ちる左腕の残骸へと叩きつけた。

装填ロード…『ダリウス・ベックバルト』。個体定義を弾丸に重結晶化コンパイル

ネイルガンの吸着機構が、「左腕だったもの」を吸い上げる。自身の生体情報、生い立ち、契約の全情報が凝縮されたその破片は、廃霊のパッチが及ばない、この世に二つとない「重い」弾丸だ。

重力を失った左半身の喪失感。それを推進力に変え、ダリウスは廃霊の懐へと踏み込む。

廃霊が、傷ついた獲物を喰らおうと中心核を剥き出しにする。

「食らえ」

ダリウスは、残された右腕をネイルガンごと廃霊の「核」が脈打つ結晶の隙間に深々と突き入れた。右指の爪先から銀の火花がほとばしり、射出されたネイルガンの鉤爪が廃霊の内壁に食らいつく。

「強制重結晶化(コンパイル)。形状、定義不能まで圧縮」

零距離で放たれたコードが、「核」の内部を強引に抱き込んで収縮し、肉を引きちぎりながら重結晶化コンパイルしていく。ダリウスの指先が肉壁に揉み潰され、骨が砕ける。バキ、と言う音はネイルガンのものなのか自身の骨の音なのか、もはや区別が付かない。廃霊が、自ら取り込んだダリウスのコードによって内側から「重結晶」の檻に作り替えられていく。

空間そのものが悲鳴を上げるような音が「核」を震わせた。無数の白い触手が伸ばされ、ダリウスの右腕に巻き付く。パキパキと音を立てて右腕が白い結晶に覆われ、その侵食は肩まで広がる。結晶は皮膚を食い破って這い進み、ダリウスと廃霊との境界を塗りつぶす。


視界が急速に色を失い、白色へと染まっていく。

心臓炉とのリンクが細くなり、自身の呼吸すら遠くなる。

ダリウスは、感覚の消えゆく指先で、確かに「敵」の脈動が止まったことを確認した。

感覚の端で、レイナたちの波形が接近するのを捉えたのを最後に、意識は白濁した霧の中へと消えていった。




「ダリウス!」

レイナの声が地下空洞に響く。レイナがジャンクションに踏み込んだ瞬間、網膜を焼いたのは「白」だった。

先ほどまでリンク越しに狂ったように打ち鳴らされていたダリウスの鼓動―その銀色の波形は白く静まり返っている。


「…嘘、でしょ」


レイナの足元で、白い結晶片が低く軋む。

ジャンクションの中央。そこにはダリウスの姿はなかった。

あるのは、直径1メートル程の「重結晶」だった。それは廃霊の核を強引に抱き込み、内側から破裂したのち凝固した歪な塊だ。

ダリウスが最後に綴ったであろう「正六面体キューブ」の角ばった面が、セイルから奪われた「正八面体オクタ」の鋭利な断片と噛み合い、捻じれ、一つの歪な多面体へと癒着している。

結晶の隙間からは、ダリウスの衣服であった布の断片と、ネイルガンの銃身の一部が突き出していた。

だが、そこにあるべき「肉」の質量はどこにも見当たらない。


「波形が…消えた」


セイルの声が、乾いたジャンクションの空気に落ちる。彼は自身の血に染まった右手を下ろし、その重結晶の塊を見つめていた。銀の「正六面体キューブ」と暗銀の「正八面体オクタ」が互いの境界を侵食するように融合マージしている。


「…ダリウス」


レイナが呟き、重結晶の塊へと駆け寄る。

彼女は素手で、まだ微かに演算熱を帯びている重結晶の表面を掴んだ。

銀と暗銀の結晶の奥、ダリウスの右腕だったはずの部位が、廃霊のノイズと混ざり合い、半透明の波形となってレイナの爪先を震わせる。彼女の指先が、結晶の鋭利なエッジで切り裂かれ、鮮血が暗銀の面に伝った。

「ダリウス。 応答を。…ダリウス」

レイナは噛み合う結晶の亀裂に爪を立て、銀の火花を走らせる。滴った血は、結晶に触れた瞬間に廃霊の汚染エラーにさらされ、白い粉末へと変質し、パラパラと足元へ零れ落ちた。

「…」

セイルは無言で重結晶に近づき、その表面に右手を当てた。ネイルガンが食い込んだ結晶の面を分解デコンパイルし、慎重に引き抜く。

カウスは数歩後ろで立ち止まり、漆黒の傘の石突を静かに床に添えている。

「先生は、自身の個体定義を重結晶化コンパイルしました」

セイルが呟く。残った右手の爪先でネイルガンに残された術式の波形を読み取り、眼前の重結晶の塊を見つめる。

「だから廃霊の最適化パッチが追いつかなかった」

「…っ」

レイナが絶句する。

「重結晶のエネルギーは『情報の複雑さ』に依存する。『重い』データほど密度が高い」

セイルが平坦な声で教本をなぞる。


「…つまり」

レイナはセイルを見つめた。

「自分を…撃ち込んだの?」


「杭として、ですね」

セイルは淡々と訂正した。


「だが不完全だ」

その横でカウスが言った。

「侵食を受けた時点で、個体定義は純粋ではなくなる」

傘の石突を鳴らして重結晶の塊にゆっくりと歩み寄る。

「結果として、廃霊と融合マージした」

コツリ、と、蒼い疑似爪が結晶を叩く。


「ここにあるのは―」

カウスが続ける。

「勝利の残骸であり、同時に失敗の成果だ」




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