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剥落する結晶

白い結晶で覆われたダリウスの右腕に、セイルの爪先が当てられ、結晶の分解デコンパイルを試みる。彼の爪先から暗銀の火花が散り、打ち込まれたコードがダリウスの右腕に固着した白濁結晶を少しずつ削り始めた。

「…ッ」

ダリウスの喉が鳴る。結晶が剥がれるたび、鋭い痛みが断続的に走り、神経の軋みが網膜に白いノイズを走らせた。

「…癒着が予想より深い。先生、これ以上の分解デコンパイルは肉体の定義そのものを損なう恐れがあります」

セイルの声は淡々としている。しかしその指先は少しでも結晶を削り取ろうと、細かい火花を散らし続けている。

「構わん、続けろ。…動けば、それでいい」

ダリウスは、感覚の消え失せた右手の指を、自身の意志で無理やり屈伸させた。バリバリと音を立てて、皮下に残った微細な結晶が肉を内側から裂く。

「…痛みますか」

「続けてくれ」

 

ダリウスの言葉に、セイルは軽く瞼を伏せると作業を再開した。結晶の剥がれる小さく硬質な音が落ちる。セイルの指先が、微細な円を描く。爪先から溢れ出す暗銀の火花は、もはや散発的な火花ではなく、一条の細い熱線に収束し、白濁した結晶の深層へと潜り込んでいく。

「―構造の最適化オプティマイズ。癒着部位、強制剥離」


セイルの呟きは、誰に聞かせるものでもなかった。彼は、爪先で廃霊のバグコードの波形を読み、ダリウスの腕との境界線を捉えることに集中していた。

(…浅い。まだ、この程度の出力では足りない)


セイルの額に、じわりと汗が滲む。

普段の彼ならば、これほど「非合理な」作業には即座に見切りをつけていたはずだ。定義を損なうリスクがあるのなら、損なわれた部位ごと切り捨てるのが、学院で教わる『正八面体オクタ』の最も美しく合理的な解決策である。

だが、セイルの指先は止まらない。

彼は爪先から走る暗銀の火花をさらに細く絞り、結晶とダリウスの肉体の境界を薄く鋭く削り続けていく。分厚い結晶を針の先で彫り出すような作業だ。セイルの整った蒼い爪に小さなヒビが入り始め、指先の肉から微かに血が滲む。

「…」

ダリウスは、自身の腕を削り続ける少年の横顔を、見つめた。暗銀の火花が走り、コードが白い結晶に噛みつくように食い込む。セイルの普段の冷たいまでの余裕は薄れ、そこには、ただひたすらな集中だけがあった。

「くっ、…定義が、安定しない…!」

セイルの爪先が、ついに割れた。人差し指と中指の爪が半ばまで砕け、血に染まった皮膚を火花の残滓が焼く。ダリウスは左手でセイルの手首を掴んだ。

「十分だ」

「いえ、まだ…」

ダリウスは自身の右腕に視線を落とした。セイルが結晶を剥がしたそばから、廃霊によって汚染された空気がダリウスの傷口に触れ、新たな結晶を芽吹かせようとする。しかしセイルの術式によって、手首から指先の結晶は皮膚が見えるまでに剥がされ、五指は拳を握ることができる程に感覚を取り戻していた。

ダリウスは足元のネイルガンを拾い上げ、立ち上がった。

「セイル、指は?」

「…出力が低下しました」

セイルは割れた爪先を左手で押さえた。目線は、ネイルガンを持つダリウスの右手に落とされている。

「そうじゃない、見せてみろ」

「先生、剥離作業が不完全です。続行を提案します」

「十分だ」

「不完全です」

セイルは頑なに自身の指を隠し、低く吐き捨てた。『高等級オクタ』の術者である自分が、高々廃霊の結晶ひとつを御しきれず、逆に自身の指を損なった。


「…セイル、熱くなっている。落ち着け」


ダリウスの静かな声が、地下の冷気に混ざる。セイルはその言葉にさらに指先を握り込む。足元の白い結晶片がパキパキと乾いた音を立てた。ダリウスの背後、横たわる「肉塊」からはなおも結晶片が数片ずつ剥落し続けている。

「…?」

かすかな違和感にダリウスは振り返った。視線の先には暗銀の正八面体オクタに閉じ込められたはずの「心臓」がある。その結晶の内側から、チリ、と何かが焼けるような音が鳴った。


「―先生。今の、聞こえましたか」


セイルが凍りついたように動きを止めた。

ダリウスもまた、ネイルガンを構えたまま視線を前方へと固定する。


ドクン、とこもった拍動が結晶を揺らした。


地下空洞の静寂にその音が波紋のように広がる。凍てついた硝子を内側から重い槌で叩いたような、硬質で、不規則な振動が肉塊を震わせる。


「セイル、下がってろ」


ダリウスは爪先から火花を散らし、ネイルガンのトリガーに指をかけた。セイルが生成した完璧な正八面体の檻の内部、青白く発光していた心臓が、さらにその輝きを増し、粘液をまとって脈打っている。心臓の表面からは数千、数万の細い毛細血管のような触手が蠢き、結晶の檻の内壁を舐めるように動く。

パキ、と微かな音がした。


正八面体オクタの表面に、一筋の白い亀裂が走った。

それは外部からの衝撃によるものではない。結晶の内側から、何かがその定義を「理解」し、逆位相のコードを叩き込んでいるのだ。


「セイル、離れろ!これは…!」


ダリウスが叫ぶより早く、肉塊の表面が波打った。

硬化したはずの白い肉の層が、ドロドロとした泥状の液体へと崩れ落ち、そこから「指」が突き出す。

一つではない。二つ、三つ。

それらは人間の指の形を模しながらも、関節が異常に多く、爪の先からはセイルのものと酷似した「暗銀の火花」が散っている。肉塊から生え出たその「指」は、無数の関節を蠢かしながら、自分たちを閉じ込めている結晶の檻を叩き始めた。青白い指の群れが檻の内側を引っ掻くようにコードを綴る。暗銀の火花が爪先から爆ぜ、結晶に走る亀裂が少しずつ広がっていく。だが、セイルが生成した正八面体オクタは、黒都が誇る最高位の定義建築である。通常の廃霊による物理的な打撃であれば、傷一つつくはずのない強固な論理の壁だ。


「…俺の、解析手順シーケンスをなぞっている?」


セイルの瞳が驚愕に細まる。

内側から檻を叩く「指」の動きは、先ほどセイルがダリウスの腕で行った剥離作業デコンパイルそのものだった。

肉塊から生えた無数の指先が、正八面体の稜線に沿って、細く鋭く火花を収束させていく。チリチリと焼けるような高音が空洞に満ちる。「指」の群れが、さらに檻の内壁をなぞる速度を上げた。


パキン、と地下全体を震わせる乾いた高音が響き渡り、暗銀の幾何学面が粉々に砕け散った。結晶の破片が光の塵となって舞う中、檻から解き放たれた「心臓」が、「指」を蠢かせながら激しく拍動ノイズを撒き散らす。

ダリウスはネイルガンを続けざまに発射した。

放たれた鉤爪は、肉塊から伸びる「指」を数本弾き飛ばしたが、断面からはすぐさま関節からせり出すように新たな指が芽吹いてくる。

檻を失った心臓は、もはや心臓の形を留めていなかった。

それは無数の指を放射状に生やした、白濁した「掌」の集合体へと変貌し、周囲の壁や床を掴んでは、自らの質量を強引に引きずり、ダリウスたちの方へと這いずり始めた。


「セイル、逃げろ」


ダリウスの言葉にセイルは無言だった。傷ついた右手と、無傷の左手から暗銀の火花を散らせ、正八面体オクタのコードを綴る。空中に幾何学陣が展開され、粘液を引きずりながら迫る肉塊に結晶の杭が打ち込まれる。割れた爪先から血が滴り、足元の白い結晶片を赤く濡らした。


「セイル!」


ダリウスがセイルの手首を掴むとセイルはそれを振り払った。


「俺は戦えます」


「俺は戦えない」

その言葉に、セイルはダリウスを見上げた。

共同契約コンセンサス・リンクだ。レイナが近くにいる。カウス教授も一緒のはずだ。お前は彼らに救援を頼んでくれ」

「…俺は」

「頼む」

そう言うとダリウスはセイルを後方の暗闇に突き飛ばした。足元の砕けた結晶片が硬質な音を立てて散る。

「先生…」

呼ぼうとした声は、肉塊が床を這いずる粘着質な音にかき消された。

ダリウスの背中は、すでに眼前の異形へと向けられている。右腕はまだ白濁した名残を留め、ネイルガンを握る拳には、彼自身の血と廃霊の煤がこびりついていた。ダリウスの肩が激しく上下しているのが、遠目からでもわかる。


「…ッ」


ダリウスは一度もこちらを振り返らない。

セイルは血に塗れた右手を固く握りしめると、踵を返した。

背後では、ダリウスのネイルガンが空気を引き裂く重低音と、肉塊が放つ金属的な咆哮が、混ざり合いながら小さくなっていく。

肺を刺すような冷気を吸い込み、セイルは駆けた。

一度だけ、彼は後方を振り返った。

遠ざかる視界の端、ダリウスの放つ銀色の火花が、小さく瞬く。


―その火が消える前に。


セイルは再び前を向くと、血の滲む右手を握りしめた。湿った空気を振り切るように速度を上げる。前方には、白濁した廃霊の霧が行く手を阻むように立ちこめていた。


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