脈動する根源
落下。ダリウスの背中を打ったのは硬質な鋼鉄ではなかった。そこには、白い生体結晶の残骸が泥状に堆積していた。
「ぐ…っ」
ダリウスは落下の衝撃に歯を食いしばった。網膜の裏で銀の火花が弾ける。
「セイル、怪我は?」
「…問題ありません」
立ち上がったセイルは淡々と答えた。
彼の手は、演算の摩擦熱によって指先まで赤く焼けていた。だが、その瞳は暗闇に沈む「地下空洞」の構造を鋭く観察している。
二人が落ちたのは、演習場の遥か深部。かつての「連環都市」を繋いでいた巨大な霊子回路のジャンクションだ。
壁面を這う極太の配管は、もはや機械的な実体を失い、半透明な白い肉芽となって脈動している。100年前のカウスによる実験、その「生き残り」たちが、今もなお他の炉から漏れ出す廃霊を啜り、この闇の底で呼吸し続けていた。
「ここは…回路の、胃袋か」
ダリウスが呟く。立ち込めるのは、濃い廃霊の霧。未希釈のそれがじりじりと皮膚を削り、神経を刺す。視界の端に軽いノイズが走った。
ズゥ、と。
地底の奥底から、巨大な肺が空気を吸い込むような音が響いた。
「先生。何かいます」
セイルが指差す先。
巨大な霊子回路の合流点から、白い結晶片を撒き散らしながら「それ」が這い出してきた。
それは、人でも、触手でもない。
数万人の意識が溶け合い、拒絶し合い、融合した巨大な「肉の塊」、カウスの実験の、なり損ないの残骸である。
白い肉芽の隙間から、無数の声が重なり合った呻きが漏れる。
「――カ、……ウ……す……」
「先生、この波形。数万のコードが、一つの叫びに圧縮されている」
セイルの声は、この状況でも平坦だった。彼の爪先から、暗銀の火花が散る。
「…『捨てられたデータ』の断末魔だ」
レイナとの共同契約を通じて伝わってきた「心臓炉の変質」。そして、カウスによる漆黒の解剖。ダリウスは指先を強くこすり合わせた。 目の前の肉塊はカウスの名を呼んだ。爪先に嫌でも伝わってくる「悪意」の波動。
「先生、あなたの波形…心臓炉との同期が剥離しています。」
「あぁ」
ダリウスは、ひび割れた青灰の爪でネイルガンのシリンダーを回転させる。瀝星導線が霧を裂いて飛び、白い肉芽の脈動に割り込んだ。
「停止」
しかし肉塊は止まらなかった。鉤爪の打ち込まれた箇所を自ら分離させ、白い触手を振り回しながら咆哮を上げる。複数の人間の頭部や四肢が、でたらめな位置から生え、溶け合いながら跛行し、通路を押しつぶすようにしてダリウスとセイルに迫った。
ダリウスは続けざまにネイルガンを発射した。移動に使われている肉芽を狙って撃ち抜き、その接近を遅らせる。
「援護します」
セイルは蒼い爪先から暗銀の火花を走らせた。空中に整然とした幾何学陣が展開され、肉塊の周囲に数十の結晶壁が瞬時に生成される。セイルが構築した結晶の壁は、肉塊の突進を物理的に阻む「杭」となった。肉芽が結晶に触れた瞬間、その場所から削ぎ落とされるようにして重結晶化されていく。
「――ガ、アアア……ッ!」
肉塊の奥底から、無数の声が重なり合った絶叫が上がった。肉塊は白い結晶片を剥落させながら触手を悶えさせ、全体を震わせる。針状に結晶を逆立てた触手が瓦礫をなぎ倒し、セイルへと狙いを定めた。
ドゥッ、という音とともにその触手を鉤爪が射抜く。ダリウスは素早くカートリッジにワイヤーを引き戻すと、足元の白い結晶片を重結晶化し、次弾としてシリンダーに装填する。
「ここなら弾切れの心配だけはないな」
ダリウスは皮肉げな笑みを浮かべると、突出した触手から的確に撃ち抜いていく。その隙を縫ってセイルがコードを綴り続ける。絡み合った四肢や、溶け合った頭部が次々と重結晶化され、肉塊が確実に削がれていく。
「セイル、あいつ、『芯』がある」
「はい」
セイルの爪先から散る火花が微かに乱れた。体積を半分以下に減らされたその肉塊はなおも蠢き続け、触手を伸ばして這い進もうとする。セイルの結晶壁はその外皮に食い込むも、何かに押し返されたかのように結晶片を散らす。
「直接やる」
「それは」
セイルの言葉を背に、ダリウスは肉塊へと距離を詰めた。伸ばされる触手を避け、流し、一息に本体へ肉薄する。唸りを上げる2つの頭部を無視し、ダリウスは右手の爪を肉芽の傷口へと突き立てた。銀の火花が散り、肉塊が空気を震わせて咆哮する。鼓膜を叩くその怒りに顔を顰めながら、ダリウスは左の爪で傷口をさらに押し開いた。
「剥いでやる」
ダリウスの右手の爪が肉芽の割れ目に深く、肘の近くまで埋没した。生温かい粘液が袖口を濡らし、血管を逆流する熱病のようなノイズがダリウスの視界を真っ白に染め上げる。彼は構わず、その「肉」の奥にある情報の継ぎ目に指先を引っ掛けた。
ダリウスが渾身の力で腕を左右に割ると、不快な生体組織の断裂音と共に、肉塊の「外皮」がベリベリと剥がれ落ちた。
剥き出しになった断面からは、未希釈の廃霊が白濁した煙となって噴出する。その奥底―何百層もの結晶壁に守られていたのは、青白く拍動する直径1メートルほどの巨大な「心臓」だった。
「固定します」
セイルが指先を空中で一回転させると、肉塊の心臓部を囲むように、暗銀の幾何学陣が出現した。展開されたそれは侵食するように力線を伸ばし、「心臓」を結晶の檻へと閉じ込めていく。暗銀の火花が走る幾何学陣が折り畳まれ、「正八面体」の輪郭を編み上げる。
「―ア……ア、アアアアアッ」
廃霊の叫びが軋むような高周波となって鼓膜を劈く。ダリウスがコードを打ち込み、外皮を解体し続けているため、再生が追いつかない。
「…ッ」
痙攣する肉の層がダリウスの腕を万力のような力で締め上げた。肉塊は、これまでにないほど激しく震え、青白く発光する「心臓」が結晶の檻から逃れようとのたうつ。
「往生際の悪い…!」
ミシミシと骨が軋む音が、神経のノイズと混ざり合って脳髄を叩く。ダリウスは歯を食いしばり、一層深く肉に爪を立てた。割れた爪先から血の混じった銀の火花が溢れ出し、暴れる肉壁を、内側から固定し続ける。肉塊がもだえ、白い結晶片が皮膚を裂く。
パキン、と地下空洞全体に、凍てつく高音が響き渡った。肉塊の咆哮が、ガラス細工が割れるように砕けて静止する。ダリウスの腕を締め付けていた肉の弾力が、氷のような質感へと変わっていく。青白く発光していた心臓は、暗銀の結晶の中に閉じ込められていた。
「はっ…」
ダリウスは、硬化した肉壁の隙間に挟まったままの自身の右腕を、強引に引き抜いた。
バリバリと音を立てて剥がれた結晶の破片と共に、彼の腕からは血と、結晶片が零れ落ちる。右肩から指先までが、白濁した結晶に覆われ、感覚は完全に消失していた。周囲を埋め尽くしていた白い肉芽も、無数の破片となってガラガラと音を立てて崩落していく。
「先生」
「よくやった、セイル」
歩み寄ってきたセイルにダリウスは左手を上げて応じた。彼らの目の前には、暗銀の結晶に閉じ込められた「心臓」と、それを抱く巨大な肉塊が横たわっている。ダリウスは膝をつき、肩で息をしながらそれを見上げた。
セイルの『正八面体』に封じ込められたそれは、もう二度と拍動することはないはずだった。
だが、静寂が戻ったはずのその結晶の奥底。その中心部で、白い煙のような影が、チリチリと蠢いていた。
「―ダリウスが近くにいる」
レイナは呟いた。その言葉に触手の残骸の上に立つカウスが振り向く。廃都206号の心臓炉。先ほどまで天井を貫き、退路を断っていたはずの無数の白い触手は、ことごとく沈黙していた。
「あなたの共同契約者ですね。彼がどうかしましたか?」
「彼は…」
レイナは、ひび割れた床を掴み、奥歯を噛み締めた。
共同契約を通じ、ダリウスの右腕が「白濁」に飲まれる感触が、まるで自分の腕が砕かれるような激痛となって伝わっていた。ノイズ、感覚の喪失、そして強引に結晶を引き抜いた際の断裂感。
「彼は…無茶をしている。腕が…」
「なるほど。確かに空気が少々騒がしい」
カウスは、黒手袋に包まれた指先を顎に添え、前方の暗闇を見やった。指先の蒼い疑似爪が小さく動く。
「どうやらダリウス君だけではないようですよ。もう一人います。」
「まさか…学徒が…?」
「…ええ。セイル君ですね。この極めて美しく正しい『正八面体』の波形。学院のアーカイブをそのまま地下に叩き込んだような、実に彼らしい演算だ」
カウスは、まるで教え子の答案を採点するかのように答える。
「セイル…。どうして彼とダリウスが…?」
レイナは唇を噛み締めた。今は考えても仕方がない。
「カウス、二人に合流しましょう。心臓炉のことは後回しよ」
「賢明な判断だ」
カウスは、まるで散歩の誘いに応じるかのように軽く頷いた。
共同契約を通じて流れ込むダリウスの苦痛は、今や右肩を焼き切るような高熱へと変わっていた。前方の闇には、未希釈の廃霊の霧が、視界を白っぽく塗りつぶしている。
「行きましょう」
踏みしめた鋼鉄の床からは、心臓炉の拍動に呼応するかのような振動が伝わってくる。腰に提げた瀝星灯が足元に青い灯を落とす。レイナは挑むように前方を見据えると、爪先から小さく銀の火花を散らした。




