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未定義の深淵

不意に、背後で「廃霊」の唸り声が消えた。

地表を埋め尽くしていたはずの廃霊の火花が、何かに怯えるように道を開ける。

コツン、コツン。

死にかけの街には不釣り合いな、乾いた硬質な音が炉心室に響いた。

「おや。…随分と、野蛮な修理(デバッグ)ですね」

白濁した霧を切り裂き、その男は現れた。

特権階級のみが許される「深淵蒼(アビス・ブルー)」の三つ揃え。手にした漆黒の傘。

男が傘の石突で床を叩くたび、周囲の廃霊ガスが物理的な質量に押し潰され、霧散していく。

彼が傘の先で、暴走するエネルギーの澱みを軽く突く。

次の瞬間、濁ったガスが凝縮し、光を吸い込む黒い宝石のような多面体となって石畳に転がった。

「不衛生なコードだ。君、自分の指が焼けていることに気づいていますか?」

男は指先に特級術師の証しである、蒼い擬似爪を備えた黒手袋を優雅に直し、僕の「欠けた灰白色の爪」を、検品するように見つめた。

その斜め後ろ。一歩引いた位置には、ボロ布のような灰色のローブを纏った長躯が、音もなく控えている。


「おやおや、レジー管理官。そんなに怯えた顔をしないでください。これは事故…いえ、むしろ『朗報』ですよ。11区の炉の出力が上昇したのですから。」

カウスと名乗ったその男は、独立特権都市・黒都の教授であるらしい。そんな特権階級中の特権階級が、一体何のためにこんな死にかけの場所を訪れたのだろうか。カウス教授は火花を散らす11区心臓炉の制御パネルを愛おしそうに撫でながら、通信機越しに困惑する管理官、レジーへ微笑みかけた。

「説明しましょう。現在、11区の炉心は、30年前にパージされた旧12区の遺棄炉心と、混成地層の深層部で『論理的共鳴(レゾナンス)』を起こしている。…ええ、地層の歪みが原因で、術式が勝手に同期してしまったのですよ。放置すれば11区ごと霊揮してホワイトアウト、つまり全消去(デリート)だ」

通信機の向こうで、レジーが悲鳴に近い声を上げる。

『そ、そんなの報告書に書けないよ! 教授、どうにかしてくださいよ!』

「ですから、私とこの優秀な技術屋(イレブン)君で、直接12区へ赴き、同期(リンク)を物理的に切断してくる必要がある。事後報告の書式なら私が用意しましょう。君はただ、ここで『システム復旧待ち』のステータスを出しておけばいい」

『わ、わかった。……頼みます、本当に。俺は何も見てませんからね』

プツン、と通信が切れる。

僕は、教授の吐いたあまりに鮮やかな嘘に呆れながら、自作の重い工具鞄を肩にかけ直した。

「教授。今の、嘘ですよね。地層のせいじゃなくて、あんたがさっき11区と12区を『同期した』んでしょう」

「おや、人聞きが悪い。私はただ、『幽霊』が送ってくれた『青空の画像データ』を、より高解像度で見たくなっただけですよ。さあ、行きましょうか」

「…あんたのやり方、好きになれない」

「それは結構。好かれるためにやっているわけではないので」

カウスが指を鳴らすと、11区の防護隔壁が、うめき声を上げて開いた。

目の前には、10区の住民が「死」と呼んで忌み嫌う、真っ白に透けきった『白都(死都)』寸前の光景が広がっている。

「僕の術式(コード)が、あっちの地獄で通用する保証はありませんよ」

「だからこそ、私が行くのですよ。君のその泥臭い工夫が、本物の絶望にどこまで抗えるか。特等席で見物させてもらうためにね」

カウスが掲げた「漆黒の傘」が、二人の周囲にだけ、夜のような安らぎの影を落とす。

僕たちは一歩、音もなく崩壊を続ける灰白色の街へと踏み出した。



この大陸に無数の星が降り注いだのは、すでに数百年も前のことだ。後に「大落星の夜」と呼ばれるその天災は、世界の在り方そのものを書き換えた。

落星の衝突によって生まれた物質―「瀝星」。

それを「心臓炉」で燃焼させることで、都市は生命を維持するエネルギーを得る。

それが、この世界の(ことわり)だ。瀝星が尽き、心臓炉が止まればその都市は崩壊する。


「…レジーの野郎、とんだポンコツを貸してくれたな」

11区の官用車は、瀝星(れきせい)の燃焼不良による異音を撒き散らしながら、白濁した「12区」の境界線を越えた。防護ガラスの向こう、かつての高層ビル群は内側から結晶化して捻じ曲がり、巨大な墓標のように立ち並んでいる。

「おや、イレブン君。そんなにハンドルを握りしめては、せっかくの『爪』が割れてしまいますよ。」

後部座席で、カウス教授は漆黒の傘を膝に置き、退屈そうに窓外を眺めている。

「私や君のような術師の爪は、コードを編むための『生体接続端子(バイパス)』だ。道具を粗末に扱うのは二流です。」

「…僕はアンタみたいな特権階級じゃないんでね」

僕は道のへこみや段差を避けもせずに12区の中心部へとハンドルを切る。ここでは無傷の道などどこにも見当たらない。

「…先生、前に。」

教授の隣に座っていた長躯の男が短く告げた。

白濁した霧の向こうから、巨大な「音」が迫っていた。

ズゥ、ズゥ、と世界そのものが軋むような足音。現れたのは、崩落したビルの瓦礫や鉄骨を筋肉のように組み上げ、数千の窓を「眼球」のように明滅させる巨大な異形――群霊体『廃都の残響(アーキタイプ・エコー)』。

『――修復……対象……検出。解体シテ、再構築セヨ……』

数千人の死者の声が重なったような、ノイズまじりの「命令(コード)」が空気を震わせる。巨人が振り下ろした「瓦礫の腕」が、官用車の進路を物理的に粉砕した。


感染(インフェクション・)(エコー)……! 掠っただけでこっちの存在定義が書き換えられるぞ!」

僕は舌打ちをしながら腰の旧型の官製ネイルガンを引き抜いた。群霊体に狙いをつけ引き金を引く。

撃ち込まれた鉤爪(アンカー)が、僕の携帯端末へと、巨人の『構造定義(プロファイル)』を逆流させる。

解析(スキャン)完了 。教授、右膝の結合術式、そこだけコードが古い。 継ぎ接ぎ(パッチ)だらけだ。」

僕が告げるのと同時に、後部座席で退屈そうにしていたカウス教授が、初めて薄く唇を吊り上げた。

「おや、よく見つけましたね。泥の中を這いずり回る者ならではの、嗅覚ですか」

教授が指先で空をなぞると、僕が指定した『脆弱な座標』に向けて、漆黒の傘から極細の熱線状の術式が放たれた。

凄まじい音を立てて巨人の右膝が内側から論理崩壊(ハング)を起こし、瓦礫の山となって崩れ落ちる。

「ギル」

教授が短く呼ぶと、灰色の影が車内から崩れた瓦礫を足場に跳躍した。

巨人のバランスが崩れた瞬間を、彼は見逃さなかった。空中で翻った彼の藍色の前腕が、夕闇を断つような青い光を放つ。その腕は鱗状の藍色の結晶で重々しく鎧装されていた。

「…抽出(ドロー)

長躯の男―ギルは巨人が撒き散らす感染型廃霊の霧を、自身の右手で強引に掴み取り、「アース」し、凝縮された結晶へと変換する。腕の鎧装がミシリと音を立てて歪み、藍色の結晶が針のように逆立つ。そしてそれらは超高密度の弾丸として発射された。

巨人の「核」を直撃したその一撃は、瓦礫の巨体を内側から結晶化させ、沈黙させる。

「…終わった」

「…っ、あんた、手が」

欠損した掌から、青白いノイズを滴らせながら、ギルは淡々と言葉を紡いだ。

「っ、おい、えっと…ギル! 手が吹き飛んだぞ! 教授、早く止血を――!」

慌てふためく僕を余所に、カウス教授は紅茶の香りを愉しむかのように、一瞥もくれず歩みを止めない。

「おやおや、騒々しい。イレブン君、無駄なエネルギーを使わないでください。彼なら、すぐに『翻訳』を終えますから」

「な、何を…!」

「…気にするな」

ギルが欠損した右腕を、渦巻く廃霊の嵐の中に無造作に突っ込んだ。

ジュッ、と肉の焼けるような音が響き、周囲のノイズが彼の腕へ吸い込まれていく。次の瞬間、青白い結晶が掌の形を象り、一気に肉へと変異した。

「……そういう問題じゃないだろ」

僕の言葉に、教授が肩をすくめて答える。

「おや、彼なら大丈夫ですよ。欠損しても戦っていればそのうち再生します。ここは『素材』だけは豊富ですからね」


「…これが、12区の『神』の成れの果てか」

僕は、炉心室の中央で絶句した。

そこには、かつての契約者だったモノが鎮座していた。肉体はとうに炭化し、剥き出しの神経系が青白い結晶となって、炉のコンソールとドロドロに溶け合っている。

彼は死んでなお、炉に「接続(リンク)」され、30年分のバグをその身で受け止め続けていたのだ。

「おやおや、素晴らしい。脳漿まで綺麗に導体化している。イレブン君、これこそが契約者の到達点、完全なる『部品』ですよ」

カウス教授が、死体の頭蓋を傘の先でコツリと叩く。その無機質な音に呼応するように、死体の口から青白いノイズが溢れ出した。

『――警告。……全セクタの……論理矛盾を確認。……初期化(デリート)を開始シマス』

死体の背後、虚空からノイズの粒子が組み上がり、一人の少女を形作った。

毒々しい青い瞳。その瞳には一切の感情はなく、ただ膨大なエラーログが高速で流れている。

「…君が、救援信号を送ったのか?」

僕が問いかけると、少女――ノアは、抑揚のない声で告げた。

『肯定。……本機は12区管理OS「ノア」。……現在、この炉心は出力低下による自壊プログラムを実行中。……停止には、外部からの「非正規パッチ」による、OSの強制再インストールが必要です』

「……非正規、ね」

僕は、自分の欠けた爪を見た。


焼けただれた端子(バイパス)。正規の術式なんて知らない、出来損ないの接続器。



『――警告。全セクタの生存リソースが閾値を下回りました』


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