log3.存在定義の回収
どこからともなく響く、感情を排したアナウンス。それは管理局―0区の基幹システムが発する、冷徹な計算結果だ。
『優先順位:低。セクタ12を「不要領域」と定義。……領域解放を実行シマス』
瞬間、炉心室の壁が、天井が、そして外に広がる廃都のビル群が、砂のようにサラサラと白く透け始めた。
それは「破壊」ではない。
12区という座標を維持するために割り当てられていたエネルギーが、1区から10区を存続させるために「回収」され始めたのだ。
「教授……! 壁が、消えてる……!」
「おや、始まりましたか。予定より数分早い。0区のメインOSは、我々が思うよりもずっと『節約家』のようですね」
教授の口調には、どこかこの状況を楽しむような響きがある。
「イレブン君。システムを書き換えなさい。 さもなければ崩壊は間もなくです。」
「分かってる ……けど、この物量は……僕の爪じゃ脳が焼き切れる。」
30年分の負債、数テラバイトの廃霊の濁流。それを僕の細い神経で受け止めれば、一瞬で先程の死体の二の舞になる。
「ギル」
教授の冷徹な声が、崩落の音を切り裂いた。
「左腕を。彼の『アース』になりなさい」
「…了解」
ギルが、自らの左腕の付け根に右手をかけ、生々しい音を立ててそれを身体から「引き抜いた」。
血の代わりに青白い火花を散らすその腕を、彼は躊躇なく、心臓炉へ叩きつけるように突き立てた。
「…イレブン。…俺が、毒は全て吸ってやる」
「…分かった」
僕は小さく頷いた。突き立てられたギルの左腕。心臓炉の基部に突き立てられた前腕部を通じ、腕の切断面から凄まじい青白い火花が散っている。だがその左腕も、廃霊の濁流を受けて表皮から崩れるように蝕まれていく。
「これでしばらくはもつはずです。」
教授の冷徹な声。僕は結晶化したコンソールの受光部に、ひび割れた爪を深く突き立てた。ノアの核をデバイスへ転送しようとした、その刹那。
『――未登録ユニットを検出……強制適合を開始シマス』
室内の空気が、凍りつくような震動と共に爆ぜた。
少女の姿をしたノアのホログラムが、一瞬で真っ赤な警告色に染まる。それと同時に、沈黙していた炉心室そのものが、巨大な「生物」のように咆哮を上げた。
「うわあぁぁっ!?」
コンソールから伸びた半透明の術式回路が、僕の腕に、そして爪に、牙を剥くように絡みつく。
ノアは12区の管理OSであると同時に、この炉心室にとっては文字通り、全ての機能を司る「心臓」そのものだった。彼女を奪うという行為は、この巨大な廃霊の胃袋を、麻酔なしで解体するに等しい暴挙だったのだ。
「おやおや、やはりこうなりましたか。イレブン君、彼女をサルベージするということは、この部屋全ての『敵意』をその身に引き受けるということですよ」
背後で、カウス教授が冷徹に告げる。
部屋の壁、天井、床。あらゆる場所から、かつての人間の遺物を取り込んだ「瓦礫の腕」が生え出し、僕をリソース(部品)として取り込もうと一斉に襲いかかる。
「イレブン君、動かないように。 接続を切れば、君も消去されます。」
炉心室はノアを繋ぎ止めるため、僕の爪を媒介に、30年分の「死」のログを逆流させ始めた。
「ぐ、あああああッ! 脳が、焼ける……!」
僕の視界が、情報の過負荷で真っ白に染まる。
ノアという心臓を奪い去ろうとする僕と、それを「部品」として同化しようとする炉心室。その臨界点で、僕の爪は青白く発火し、指先の肉が焦げる臭いが立ち込めた。
「カウス……教授……! 早く、こいつを、黙らせて……!」
教授が漆黒の傘の柄を指先で軽やかに弾く。
「いいでしょう。面白いものが見られそうですし」
教授が傘をくるりと回すと、滴るように黒い火花が現れ、石突から幾何学陣と共に漆黒の術式波が展開された。
「――固定」
空間そのものが凍りついたような硬質な音が響く。
僕を今まさに握り潰さんとしていた数多の「瓦礫の腕」が、彼の皮膚に触れる寸前で、見えない壁に阻まれたように静止した。
「おや、驚きましたか。これは単なる『論理的な拒絶』ですよ。私の定義するこの領域内では、12区のバグなどという野蛮な干渉は、存在を許されないのです」
僕達の周囲数メートルだけが、荒れ狂う情報の嵐から切り離された「真空の静寂」と化した。外側では、炉心室が狂ったように脈打ち、防護壁を食い破ろうと無数の眼球が血走ったノイズを撒き散らしている。だが、教授の展開した漆黒の円環は、微塵も揺らぐことはない。
「さあ、イレブン君。雑音は私が引き受けましょう。あなたは、その『汚い指先』で、彼女を救うための最善手を指しなさい」
「……、……っ、あ……りがとう、ございます……!」
情報の逆流による激痛は消えない。だが、物理的な圧殺の恐怖から解放された僕は、震える手でネイルガンのトリガーに指をかけた。
防護壁の向こう側で、ギルが結晶化した右腕を振り回し、結界に縋り付こうとする群霊体を無機質に粉砕していく。
僕は、自分を守るために背を向ける「片腕の戦士」と、優雅に観測を続ける「特級の紳士」の背中を、一瞬だけ網膜に焼き付けた。
(…救う? 僕が、こいつを?)
僕はコンソールの受光部に、ちりちりと熱を持ち始めた自らの爪を立てる。
「…おや、外も随分と賑やかになってきましたね」
教授が視線を向けた炉心室の重厚な防壁が、外側から凄まじい衝撃を受けて歪んだ。
「イレブン君、システムが我々を『部品』として咀嚼しようとしている。飲み込まれてしまえば12区の一部となり消失を免れない。」
『――修復……解体……再構築……』
壁の隙間から、数千の「窓」がノイズを撒き散らしながら覗き込む。12区の街そのものが、心臓を奪おうとする僕を排除するため、瓦礫と鉄骨の巨体を震わせ、この部屋ごと圧壊させようと迫っていた。
「外は我々が引き受けます。行きますよ。ギル。」
「はい」
ギルが、炉心の基部に深く突き立てられた自らの「左腕」を一瞥し、残された右腕で僕の背中を軽く叩いた。
切り離された彼の左腕は、今や僕の脳を過負荷から守るための「巨大な導管」として、青白い放霊を繰り返しながら結晶化を加速させている。
「イレブン君。ここはあなたの『聖域』です。せいぜい静かな環境で、彼女を口説き落としなさい」
カウス教授が、漆黒の傘をゆっくりと広げる。その傘が開いた瞬間、教授の周囲に物理法則を強制的に「固定」する不可視の結界が展開された。
「ギル、外を『掃除』します。腕一本分、身軽になったのでしょう?」
「了解」
ギルは、断面から火花を散らす左肩を気にする素振りも見せず、残った右腕の「鱗爪」を逆立てた。
彼は僕の退路を守るように、崩落の続く廊下へと、片腕のまま獣のような足取りで踏み出していく。
「あ、あんたたち……死ぬ気か!?」
僕の叫びが、情報の濁流の中に溶ける。
「死? いいえ、これは単なる『メンテナンス』ですよ。さあ、急ぎなさい。彼女を引き抜いた瞬間、この12区は死にます。その前に、我々の『車』まで辿り着いてくださいね」
教授の背中と、片腕で瓦礫の触手をなぎ倒していくギルの影が、押し寄せる群霊体の靄に消える。
静寂を奪われた炉心室で、僕は再び、焼けるような「爪」の熱と、ノアの冷徹な声の中へ投げ出された。




