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星痕の炉心  作者: 百舌
黒都エレボス
19/20

事象管理区域・第206号

黒都中央事象定義学院『オクトラム・カテドラ』。

ここでは、術式は「真理を記述する芸術」であり、学徒は「世界の編纂者」として扱われる。

防音術式によって調律された『沈黙の回廊』。学生たちの爪先から散る火花さえも、特定の周波数で奏でられる音楽のように規格正しくコードを編む。

その学院の最上階に近い監査室。

瀝星灯の青い光に満ちたその部屋で、ダリウス・ベックバルトは、自身のひび割れた青灰の爪で不快な音を立てて端末を叩いた。


「レイナ、観測手によれば、廃都206号の霊揮率レドが不安定だそうだ」


窓の外に広がる、幾何学的に整列した黒都の街並みを見つめていたレイナ・グレイロックが、その青灰の瞳を鋭く細める。


「不安定? 具体的には?」


「8%から17.6%の間で推移している。濃度そのものより、その『ぶれ幅』が問題だ」


ダリウスは、無機質な報告書を空間に投影した。

青白いホログラムが、事象管理区域・第206号「廃棄遺構」の地形データを映し出す。廃都206は黒都エレボスの管理下にあり、学院内では実施不可能な大規模術式や廃霊制御の実践演習地として、高等級オクタのカリキュラムに組み込まれている領域である。

「原因は?」


「不明だ。可能性としては、外部ノイズの介入。あるいは、地層深部における情報の再編リブートだが…。どのみち、今のあそこは『教科書通りの正解』が通用する場所じゃない」


レイナは、投影された波形の乱れを注視した。


「…まずいわね。次の高等級オクタの講義は、廃都206での外地演習よ」


「ああ、知ってるさ」


ダリウスは淡々と言い、ネイルガンに装填された重結晶を確認した。


「なるほど。霊揮率レドが不安定だと」

充てがわれた客員教授室でカウスはゆったりと紅茶を口に運んだ。斜め後ろにはギルが控えている。

「原因は特定できそう?」

呼び出したホログラムの資料を見つめながらレイナはカウスに問うた。

「いくつか仮説は立てられますが、現地に行かなければ断定はできません。廃都206の心臓炉契約者は?」

「私とダリウスよ」

「おや、共同契約コンセンサス・リンクに成功したのですね。」

「…ある程度構造化された駆動術式だったから解析できた。とはいえそれなりに古い心臓炉だ。1人で代償を背負うのは危険だと判断した」

「実に合理的な判断です」

カウスは微笑みながらカップを皿に戻した。

「では、こうしましょう。グレイロック監査官の廃都206の心臓炉解析に私も同行します。学徒の護衛にはギルを貸しましょう。ダリウス君、あなたはギルを好きに使ってよろしい。いいですね?ギル」

背後のギルが軽く頷く。

「今回の外地演習の教官は…ああ、ミレーヌ・リートですか」

カウスは、端末に表示された「第三定義室:濾過統括」の署名を一瞥すると、この話は終わったとばかりに立ち上がった。


「彼女ならば、廃都のノイズを『情報の腐敗』として片端から濾過しようとするでしょう。あの潔癖なリート教官が、廃都の不規則な脈動と衝突した時、一体どのような不純物が抽出されるのか。実に興味深い実験になりそうだ」


カウスは微笑みながら、斜め後ろに直立するギルへと視線を向けた。


「ギル。演習中、リート教官に『不純物』として排除パージされないよう、精々ダリウス君の影に隠れていなさい。…お前の左腕が放つ12区の波形は、彼女にとっては耐え難いノイズでしょうからね」


カウスの軽やかな冗談に、ギルは表情を動かすことなく、ただ静かに返諾として頭を垂れた。


黒都学院専用の装甲車両が、黒都管理区域・第206号「廃都206」の境界線を越える。

車内に漂うのは、ミレーヌ・リートが展開した「静音・濾過膜」による、人工的な無臭の空気だ。

この空間で、高等級オクタの学徒たちは、あたかも無菌室の標本のように整列していた。


「…不快だわ。この区域の霊揮率レドの揺らぎ、まるでノイズが逆流しているよう」


リートは、自身の「青灰の爪」を神経質に弾く。彼女の網膜には、廃都が吐き出す不規則なエントロピーの残骸が、耐え難い「汚れ」として投影されていた。


「リート教官。それは『情報の多様性』ですよ」


カウスは、車窓から流れる錆びついた鉄骨の群れを眺め、優雅に微笑む。


「多様性などという言葉で、定義の腐敗を正当化しないで。カウス教授。…あなたの連れているその『部品ギル』も、先ほどから私の濾過膜に不潔な波形を撒き散らしている」

彼女の薄茶色の瞳が、カウスの影で沈黙するギルの左腕を射抜く。

その背後で、座席に深く身を沈めていたセイルが、爪先から暗銀の火花を散らせて自身の掌に極小の「正八面体」を重結晶化コンパイルする。彼はそれを手元で転がしながらギルの左腕を観察していた。セイルの紫の瞳には、リートが忌み嫌う「波形の乱れ」が、解剖を待つ未知の臓器のように魅力的に映っている。


「無意味な嫌悪は演算効率を下げます、リート教官。…あれが散らすノイズの周期、廃都206の波形と0.8秒ごとに同期しています。興味深い」

セイルの無機質な指摘に、周囲の高等級オクタの学徒たちが一斉に視線を走らせる。彼らの爪先からは、黒都の規律に従った銀の火花が漏れ、車内の不快な静寂を飾っていた。彼らにとって、この廃都は戦場ですらなく、自分たちの「正しさ」を証明するための舞台装置に過ぎない。

「よせ、リート。現場で一番頼りになるのは、その『余力ノイズ』だ」


ダリウスが、ひび割れた青灰の爪でネイルガンのシリンダーを弄び、低く言う。

彼の視線の先、廃都206の中央に鎮座するのは、古い心臓炉。

それは、レイナとダリウスが「共同契約コンセンサス・リンク」によって延命させている、巨大な情報の墓標であった。


車両のハッチが、重厚な油圧音を立てて開く。

流れ込んできたのは、調律された黒都の空気とは正反対の、粘りつくような「事象の湿り気」だ。


「さあ、外地演習を始めましょう。…定義の死体(ジャンク)たちが、君たちの『正解』を待っていますよ」


カウスの促しに従い、セイルを先頭に学徒たちが一人、また一人と、廃都の土を踏みしめていった。


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