黒都中央事象定義学院(オクトラム・カテドラ)
黒都学院、第一定義室。
黒く艶やかな講義机が整列する中、カウスの講義が響く。
空間を満たすのは、数百人の学徒たちの呼吸音さえ吸い込む、高度な防音術式と絶対的な静寂。その中心で、カウスは蒼い疑似爪の先から黒い火花を散らして幾何学コードを展開し、12区の崩壊データ―その表向きの記録を「解剖」していた。
「…故に、旧OSの冗長性はノイズを招く。定義とは常に鋭利でなければならない。余分な『情緒』や『論理』を削ぎ落とした先にのみ、炉との完全同期が存在するのです」
教壇の傍ら、微動だにせず直立するギル。彼の左腕は調整槽を経て外見上は修復されていたが、その内側では依然として、12区で混入した不規則な波形が「正解」を侵食し続けている。
最前列。一人の少年が、微塵も瞬きをせずにその光景を網膜に焼き付けていた。
セイル・ヴァランシエル。十五歳にして二基の炉心を統べる、黒都が鋳造した最新の「天才」だ。
「先生、質問を」
セイルが手を挙げる。その動作に無駄はなく、まるで事前にプログラムされていたかのように滑らかだった。彼の紫の瞳はカウスの展開するコードを貪るように見つめ、その視線は背後のギルへと移った。
「あなたの論文、著書は全て拝見しました。どれも驚くほど効率的です。…特に、その彼の左腕。計算上の同期率が、公称値より0.03%低い。ですが、熱変換効率だけが異常に跳ね上がっている。…それは、不純物による過負荷を、あえて演算リソースに転換した結果ですか?」
講義室の温度が、一瞬で数度下がったような錯覚。他の学生たちがセイルの言葉に戦慄する中、カウスは口角をわずかに吊り上げた。
「おや、気づきましたか。」
「既存の生体術式では捨てられるはずの『ノイズ』を、破壊のエネルギーとして再定義している。…あなたは理想です、先生。負の変数すら、これほど美しく隷属させてしまう」
セイルの声には、崇拝という名の無機質な熱が宿っていた。彼は机の上の蒼い爪を軽く鳴らし、自身の端末に完璧な「正八面体」の術式を綴っていく。
「先生、次は俺で試してください。計算上、その『ノイズ』を俺に流し込めば、第八十七炉心の出力をさらに12%上乗せできる」
カウスは、セイルの瞳の奥に宿る「底なしの淵」を見つめた。それは、自分の皮一枚の下にも満たされているものだ。かつて、レイナはそう指摘した。
『あの子はまだ子供よ』
脳裏にレイナの警告が過ぎる。カウスはその不純物を即座に排除し、最も「正しい」教師の微笑みをセイルに向けた。
「いいでしょう。ですが、今の君の術式ではその重さに耐えられない。まずは、その『正八面体』さらに研ぎ澄まし、より鋭利な意志へと昇華させなさい」
「はい、先生」
セイルの返答は、黒都の心臓炉の駆動のように正しく整っていた。
黒都学院、第八定義室。
ここはカウスの「第一定義室」のような無響の静寂はない。実戦演習に伴う火花の臭いと、重結晶が砕ける乾いた音が壁に染み付いた、無機質な練兵場である。
機械片に廃霊を宿した群霊体が、前方の広い演習空間にうずくまっている。
「―起動」
講義台の銀髪の男、ダリウス・ベックバルトが爪先から銀の火花を散らせてコードを綴る。
白兵術式の巧者たる彼の綴る術式は、カウスのような幾何学の極致ではない。ひびの入った青灰の爪から放たれるのは、無理やり事象をねじ伏せるような、重く、鈍い銀の光だ。
機械片が透明な糸で吊られたように形を組み替え、歪な人型となってダリウスに襲いかかった。
廃霊の唸りと機械片の軋みが空気を逆撫でする。
ダリウスは襲い来る機械の拳を、最小限の動きでかわす。
「はじめに、即応防御」
群霊体が振り被る腕をダリウスは避けない。
「遮断壁」
展開されたのは、完璧な結晶壁ではない。部分的な防護壁だ。あえて薄く作られたその壁は衝突の瞬間に結晶を砕け散らせ、衝撃を「流す」
「完璧な防御壁でなくてもいい。現場で必要なのは『折れない』ことじゃない。『凌ぐ』ことだ」
ダリウスは一歩踏み込み、拳の座標に重結晶を固定する。体重を乗せた突きが群霊体の躯体を抉った。
「迫撃」
重結晶化した質量が、群霊体の胴体を物理的に押し込む。群霊体が金属音とともに後方に崩れ落ち、バチバチとノイズを散らしながら破損した箇所を排除する。群霊体は獣のような四つ足の形態にその構造を組み替えた。四肢を収縮させ、一瞬後の跳躍を溜めて胴が沈み込む。
ダリウスの指先、青灰の爪から演算の余剰熱が指向性火花として爆ぜた。
「銃火」
指先から放たれた銀の火花が、群霊体の膝関節にあたる「接合部」をピンポイントで焼く。飛び上がった群霊体は空中でバランスを崩し、ダリウスの目前に無防備に転がる。
「重結晶化」
銀の火花とともにコードが綴られる。廃霊は悲鳴のようなノイズを散らして機械片にしがみつくも、やがて銀の立方六面体となって沈黙した。
「ここまでで、何か質問は?前回講義の理論の不明点でもいい」
手は上がらない。
「…では、訓練に移る。4人1組で機械片群霊体1体を処理。始めろ」
ダリウスの合図と共に、第八定義室の各所で術式の火花が爆ぜる。
学生たちが必死に遮断壁を展開し、教科書通りの幾何学コードを綴る中、ダリウスは爪先でコードの波形を感じ取りながら、各班を見て回る。その銀の瞳は、学生たちの「指先」ではなく、その背後にある「覚悟」の薄さを値踏みしていた。
不意に、演習室の北側から全ての騒音をかき消すような、異質な「静寂」が広がった。
ダリウスが眉を寄せ、その発生源―セイル・ヴァランシエルの班へと歩みを向ける。
そこには、戦いさえ始まっていない光景があった。
セイルの班に割り当てられた群霊体は、襲いかかることも、吼えることもなく、床に「圧着」されている。まるで巨大なプレス機にかけられたように、機械片の隙間から廃霊のノイズが白い塵となって剥落し、再構築の自由さえ奪われていた。
「おい、セイル。…これは何の真似だ」
ダリウスの問いに、セイルは紫の瞳を向け、蒼い爪を軽く一振りした。空間に展開されているのは、極めて小規模だが、緻密極まる多段構築の術式。
「処理しました。対象の周囲1メートルにおける、局所的な『重力定数の書き換え』です」
セイルは事も無げに言う。その背後で同じ班の学生たちは、自分たちの出番がないことに安堵しつつも、セイルの術式が自身らにも及んだかのように、顔を強張らせていた。
「重力定数、だと?」
「はい。カウス先生の『第十四論文:事象における定義の質量転換』を応用しました。敵を物理的に破壊するより、敵が存在する空間の『定義』を書き換え、身動きを封じる方が、俺にとっては演算負荷が3%低く、より効率的です」
セイルの返答は淀みなく、その術式は学院の掲げる理想そのもの、完璧な「正八面体」の規律で動作している。
「…効率的、か。確かにそうだな。お前の演算能力なら、そんな大掛かりな書き換えも造作ないんだろうな」
ダリウスの視線は、セイルの美しい術式ではなく、その圧力に耐えかねてひび割れ、悲鳴を上げている「床」へと落とされる。
「だがな、セイル。現場にこんな頑丈な床はないぞ。…お前のその『正解』は、足場が崩れれば、そのまま自分を潰す重石に変わる」
「理解できません。足場が崩れるなら、その事象ごと固定すれば済む話です」
「…セイル」
ダリウスは低く、セイルの眼前に無造作に指を突き出した。
「いいか。お前がやったのは『戦闘』じゃない。ただの『虐殺』、あるいは『作業』だ。…術式はよく切れる刃物と一緒だ。素手で弄べば自分自身の手を切ることになる。」
ダリウスの言葉は、セイルの紫の瞳に一瞬の揺らぎさえ生じさせなかった。セイルにとって、ダリウスの指摘は「論理的根拠を欠いた、非合理な説諭」にしか聞こえていない。
「…やり直せ。次は『重力』は禁止だ。教えた通りにやれ」
ダリウスはセイルをひたと見据え、ゆっくりと講義台に戻っていった。




