エピソード29:夜の重さ
その日は、十二階層の広間で野営にした。
守護者を倒した場所だ。
床には爪の跡がまだ残っている。
砕けた石の欠片を、ユズは足で端に寄せた。
だが今は静かで、魔物の気配もない。
広さがあり、出入口を把握しやすい。
野営地として悪くなかった。
ユズが火を起こした。
火打ち石を二度打つと、乾いた草がすぐに燃えた。
最初の頃は何度やっても上手くいかなかったのに、今は手が覚えている。
シオンが食料を出した。
乾燥肉と固いパン。
それから干した果物を少し。
贅沢ではないが、体に入れるには十分だ。
石の床は硬く、冷えている。
荷袋を背もたれにして座り直すと、少しだけ楽になった。
火が安定すると、二人はしばらく無言だった。
無言が苦にならなくなったのは、いつからだろう。
最初の頃は、沈黙が続くと何か言わなければという気持ちになった。
今はそれがない。
ただ火を見ながら、それぞれが考えている。
それでいい、と思えるようになっていた。
「師匠」
「ん」
「無人島での修行は、どれくらいかかったんですか」
シオンは少し間を置いた。
「五十年ほどだ」
「五十年」
ユズは火を見たまま繰り返した。
自分の年齢の三倍以上だ。
いや、もっと。
想像がうまくつかない。
「最初から、一人でしたか」
「ああ」
「寂しくなかったですか」
シオンは答えるまでに、少し時間がかかった。
「慣れた」
寂しくなかった、とは言わなかった。
ユズはそこに気づいたが、続けて聞かなかった。
「何で島に行こうと思ったんですか」
「強くなりたかった」
「それだけですか」
「それだけで十分だった」
短い答えだった。
だがユズには、その言葉の裏に何かがある気がした。
聞いていいものか、少し迷った。
「……島を出ようと思ったのは、なぜですか」
シオンは火の向こうに目を向けた。
少しの間、黙っていた。
「やることが終わった、と思った」
「それで、私と会ったんですね」
「そうだ」
ユズは膝を抱えた。
「私と旅を続けているのは、なぜですか」
今度は間が短かった。
「お前が面白いから」
ユズは少し目を丸くした。
「面白い?」
「伸びる様子を見ていると、飽きない」
師匠らしい答えだ、とユズは思った。
褒めているのか、観察しているのか、どちらともとれる言い方。
だが悪い気はしなかった。
むしろ、これがシオンなりの言い方なのだと、最近はわかるようになってきた。
真っ直ぐに「良い」とは言わない。でも、見ている。ちゃんと見ている。
「師匠は、島にいた頃——誰かのことを考えていましたか」
シオンの目が、少し動いた。
「なぜそれを聞く」
「なんとなく」
本当は、なんとなくではなかった。
ダンジョンの中で何日も過ごしていると、相手のことが少しずつわかってくる。
戦い方だけでなく、間の置き方、視線の向け方、黙る時のかたち。
シオンは、人と長くいることに慣れていない。
それは最初から感じていた。
距離の取り方が、どこか丁寧すぎる。
だがそれを不便そうにしていない。
むしろ、大事にしているように見える。
一つひとつの夜を、確かめるように過ごしている。
「……いた」
シオンが言った。
ユズは顔を上げた。
「師匠以外に誰かいたんですか」
「昔の話だ」
それ以上は言わなかった。
ユズも、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない、というわけではない。
ただ、今夜はここまででいい、と思った。
少しずつ、少しずつ知っていけばいい。
急ぐことはない。
火が少し小さくなった。
薪を一本足す。
炎が揺れて、また安定した。
「師匠」
「ん」
「私、Aランクになれますか」
シオンはユズを一度見た。
「なれる」
迷いのない返事だった。
「根拠はありますか」
「お前が、自分で修正できるようになっているからだ。教えなくても気づく。それが一番の根拠だ」
ユズは少しの間、その言葉を黙って受け取った。
褒め言葉には聞こえない言い方だった。
だが確かに、根拠があった。
感情ではなく、見てきた事実として言っている。
だからこそ、重かった。
「……ありがとうございます」
「礼はAランクになってから言え」
「はい」
ユズは小さく笑った。
シオンは気づいていないふりをしていたが、口元が少し緩んでいるのをユズは見ていた。
また沈黙になった。
今度はユズから埋めようとしなかった。
火を見ながら、ダンジョンのことを考えた。
扉のこと。鍵のこと。
壁に刻まれた文字と、摩耗した鑿。
七つの部屋を一つひとつ思い返す。
あれだけの痕跡を残した人物が、今も深層にいる。
研究を続けている。
そして扉の向こうに、まだいるかもしれない誰かのことを。
怖い。
でも進む。
それだけのことだ。
そう思えるようになったのも、いつからだろう。
最初にダンジョンへ入った時は、足が竦む感覚があった。
今もゼロではない。
だが、体が先に動くようになっていた。
隣でシオンが目を閉じた。
眠っているのか、ただ休んでいるのかわからない。
だがその存在が、今夜も確かにそこにある。
こういう夜が、増えてきた。
一人じゃない夜が。
それが当たり前になってきたことを、ユズは静かに、ありがたいと思っていた。
火がゆっくりと、小さくなっていった。




