エピソード26:扉の向こうの静寂
翌朝、二人は十二階層の広間に戻った。
昨夜の戦闘の痕跡が、まだ残っていた。
床に刻まれた爪の跡。
砕けた石の欠片。
黒い染みがまだ薄く広がっている。
だが守護者の気配は、もうどこにもなかった。
広間の奥に、扉がある。
石造りの、重そうな扉だった。
継ぎ目に沿って魔力の導管が走っており、薄い光を帯びている。
扉そのものは無機質で、装飾も何もない。
ただ、扉枠の上部に文字が彫られていた。
「師匠」
ユズが低い声で言った。
シオンはすでに視線を向けていた。
彫られた文字は古代語ではなかった。
現代語だ。
それも、最近刻まれた形跡がある。
「第一実験区画」
ユズはその文字を読み上げた。
静かな声だったが、広間に響いた。
「……ここが、そうか」
シオンがつぶやく。
「六階層に『実験は続く』とありました。八階層に第三、九階層に第二。」
ユズは指折り確認するように言う。
「だとしたら、これが最初。始まりの場所ということですか」
「可能性は高い」
シオンは扉に近づき、表面に触れた。
手のひらで、そっと撫でる。
魔力の反応があった。
微かだが、確かに脈打つような感触が伝わってくる。
「仕掛けはないな。鍵もない。」
「……開けます」
ユズが双剣に手を添えながら言った。
抜いてはいない。だが、いつでも動けるように。
シオンが扉に両手をかけた。
重い音を立てて、扉が開く。
中は——暗くなかった。
天井の一定間隔ごとに、薄く発光する石が埋め込まれている。
それが廊下の奥まで続いていた。
廊下の幅は広い。
三人が横に並べるほどだ。
床は加工された石で、表面が滑らかだった。
壁には導管が走っている。
だがその太さと精度は、これまでとは違った。
「太い」
ユズが息をのんだ。
八階層以降で見てきた導管の、さらに倍はある。
しかも均等に、整然と配置されている。
急いで掘った痕跡がない。
「丁寧に作られています」
「ああ」
シオンは廊下に足を踏み入れた。
ユズも続く。
二人の足音が、静かな廊下に響いた。
廊下は真っ直ぐ伸びていた。
曲がり角も、分岐もない。
ただ一本の道が、奥に向かって続いている。
十数メートル進んだところで、ユズは足を止めた。
「……魔物の気配が、ない」
「気づいたか」
シオンが答える。
確かに、ここに入ってから何も感じない。
十二階層でさえ魔物の気配があった。
だがここは、静かすぎる。
「罠かもしれません」
「そうかもしれない。あるいは——」
シオンは言葉を切った。
ユズは視線を廊下の先に向けたまま、続きを待った。
「ここは、戦闘を想定していない場所かもしれない」
ユズは少し考えた。
研究区画、という言葉が頭に浮かぶ。
魔物を使って実験をする場所なら、魔物を配置する必要はない。
むしろ、管理された環境を維持する必要がある。
「……だから、守護者が外で待っていたんですね」
シオンが振り返り、ユズを見た。
「入り口を守らせていた。中には入れない。」
「そういうことだ」
静かな返事だった。
褒めるでも否定するでもなく、ただ肯定する声。
ユズは少しだけ息を吐いた。
廊下を進む。
やがて、左右に扉が現れ始めた。
石造りの、小さな扉だ。
一つひとつに番号が彫られている。
一番から順に、現時点では七番まで確認できた。
「開けますか」
「まず全体を確認する」
シオンは各扉の前で立ち止まり、耳を澄ませ、手のひらで触れた。
それを全ての扉に対して行った。
ユズは少し後ろで待ちながら、廊下全体に意識を広げていた。
気配はない。
音もない。
だが空気が、どこかに澱んでいる。
「三番だ」
シオンが言った。
「何かありましたか」
「魔力の反応がある。他とは違う」
ユズは三番の扉に近づいた。
改めて感じてみる。
確かに——扉の向こうから、何かが滲んでいる。
生き物の気配ではない。
物、あるいは痕跡のような、静かな魔力だ。
シオンが扉を開けた。
中は小さな部屋だった。
四方が石壁に囲まれ、奥に木製の机が一つ。
その上に、何かが置かれている。
ユズは扉口から中を見た。
机の上には、数冊の書物と、小さなガラス瓶が並んでいた。
瓶の中には黒い液体が入っており、かすかに光を帯びている。
「……誰かが、ここで働いていた」
ユズの声は、自然と低くなった。
机の椅子には、まだ痕跡があった。
長く座られた痕。
床の石に、靴の跡が残っている。
「最後に使われたのは、どれくらい前でしょう」
シオンは机に近づき、書物の表紙に触れた。
「半年から一年、といったところか」
「そんなに近い……」
ユズは喉の奥で呟いた。
書物の表紙には文字が書かれている。
だが読み慣れない形式で、すぐには意味が取れない。
「持っていくか」
シオンがユズに問う。
「はい。王城に持ち帰ります。ガーネット師か、専門の方に見ていただいた方がいい」
「そうだな」
シオンは書物を慎重に包み、荷袋に収めた。
ガラス瓶も、割れないよう布で包む。
ユズは部屋をもう一度見渡した。
この部屋で、誰かが長い時間を過ごした。
研究をして、記録をして、実験をした。
その痕跡が、今も残っている。
「師匠」
「ん」
「この人は、今もダンジョンのどこかにいるんでしょうか」
シオンは少し間を置いてから答えた。
「わからない。だが——」
廊下の奥を見る。
「この先にいると思って進む方がいい」
ユズは頷いた。
扉を静かに閉める。
廊下はまだ続いている。
先には何があるか、まだ見えない。
だが足は、前に向いていた。




