エピソード 15 : 六層の探索
六階層から戻る道は、来た時と同じはずだった。
だが、ユズには少し違って見えた。
壁に残る黒い染み。
通路に漂う、かすかな焦げた匂い。
床を伝ってくる、低く持続する振動。
六階層の奥に置かれていた、あの砕けたコアの破片。
台座に刻まれた道具の傷跡。
壁に刻まれた文字——『実験は続く』。
誰かが、ここで何かをしている。
その感触が、足裏から上ってくるような気がした。
「師匠」
「わかってる」
シオンは歩みを止めず、短く答えた。
言葉の意味を問わなかった。
こういうとき、師匠はいつも先に気づいている。
ユズも黙って続く。
五階層を抜けた。
古代語の刻まれた壁が、すぐ隣を流れていく。
『深きものに触れるな』。
誰が、いつ、刻んだのか。
千年以上前の言葉が、今も正しく機能しているとしたら——それは、この場所の危うさが千年前から変わっていないということだ。
ユズは静かに息を吐いた。
四階層へ差し掛かったとき、通路の奥から足音が響いてきた。
一歩。
また一歩。
重い、引きずるような音だった。
「異常個体か」
シオンが呟く。
姿が見えた瞬間、ユズは息を呑んだ。
トロールだった。
ただし、普通のトロールではない。
全身に黒い紋様が走り、両目が深紅に光っている。
皮膚の下で何かが蠢くように、紋様が脈打っていた。
体高は三メートルを超えている。
「やってみるか」
シオンが静かに言った。
「……はい」
ユズは双剣を引き抜く。
魔力を足裏に集める。
身体強化。
さらに、剣に風を纏わせる。
昨日試した戦術を、もう一度。
足元を崩してから踏み込む。
トロールが右腕を振り上げた。
重く、速い。
ユズは横へ跳んだ。
着地と同時に風魔法を床へ向けて放つ。
砂埃と小石が舞い上がり、トロールの視界を乱す。
一瞬の隙。
踏み込む。
喉元へ、右の短剣を真っ直ぐ。
刃が沈んだ。
だが、浅い。
皮膚が、硬い。
「くっ」
弾かれるように距離を取る。
「首の側面だ。正面は骨が厚い」
シオンの声が飛んでくる。
ユズはすぐに組み立て直した。
もう一度、風魔法で足元へ。
今度はトロールの踏み込む先を狙う。
地面が崩れ、巨体が一瞬傾いた。
その隙に回り込む。
首の右側面、耳の下。
左の短剣を叩き込む。
深く、入った。
トロールが吼えた。
だが膝をつかない。
「退け」
低い声だった。
ユズは瞬時に跳び下がる。
シオンが一歩前に出た。
右手が黒月の柄にかかる。
重力魔法が空間に広がる。
トロールの動きが、止まった。
ゆっくりと、引き抜く。
一閃。
音はほとんどなかった。
巨体が、音を立てて倒れる。
ユズは呼吸を整えながら、自分の右手を見た。
痺れている。
弾かれた衝撃が、まだ残っていた。
「首の正面に当てた」
「はい」
「わかってたか」
「……当てる前から、なんとなく」
「なら次は当てるな」
それだけだった。
シオンは黒月を鞘に納め、歩き出す。
ユズはもう一度、倒れたトロールを見た。
紋様はもう光っていない。
ただの、大きな骸だった。
「師匠」
「なんだ」
「最初の踏み込みは、悪くなかったと思います」
少しだけ、間があった。
「悪くなかった」
それがシオンの答えだった。
ユズは小さく笑い、足を速めた。
三階層の野営跡を通り過ぎるとき、シオンが一瞬足を止めた。
灰になった焚き火の跡。
何も言わず、また歩き出す。
ユズはその背中を見ながら思った。
師匠は、たぶんここを覚えている。
理由はわからない。
でも、そんな気がした。
一階層を抜けると、夕暮れの光が差し込んでいた。
外の空気が、肺に広がる。
「今日はここまでだな」
「はい。また明日、入りますか」
「そうなる」
シオンが許可証を懐に戻しながら答える。
ユズは双剣を鞘に納めた。
疲労はある。
右手の痺れも、まだ残っている。
だが、足は軽かった。
一歩、前に進んだ感覚があった。
夕陽が森の梢を赤く染めている。
二人は並んで、王都への道を歩いた。
宿に戻ると、ユズはすぐに双剣の手入れを始めた。
刃に傷はない。
魔力伝導の溝も詰まっていない。
グルンデルの剣はいい剣だ、と改めて思う。
左手の感触を確かめる。
弾かれた時の衝撃は、刃の角度が少し甘かったせいだ。
次は、もう少し斜めに入れる。
向かいの椅子でシオンが目を閉じている。
「師匠、今日みたいな異常個体が、七階層以降はもっと増えますよね」
「増える」
「……わかりました」
「怖いか」
片目が開いた。
「少し、あります」
「そうか」
「師匠は、ないんですか」
「慣れた」
それだけだった。
ユズは剣を磨く手を動かしながら、その言葉を飲み込んだ。
慣れた、という言葉の中に、五十年分の何かがある。
それがどんな重さか、ユズにはまだわからない。
でも、いつかはわかる気がした。
窓の外で、夜が深くなっていく。
明日もダンジョンに入る。
七階層へ。
まだ見ぬ闇の中へ。
ユズは剣を磨き終え、静かに鞘に収めた。
隣から、シオンの静かな気配がする。
それだけで、不思議と眠れる気がした。
今日はいい日だった、とユズは思った。
失敗もした。
痺れも残っている。
それでも、前に進んだ。
双剣を枕元に置いて、ユズは目を閉じた。




