十九話「これが現実」
「ただいま」
「さち、おかえりー」
私が玄関までさちを迎えに行くと、意外そうに目を見張った。何でこんな早い時間にいるんだ、とでも言いたげに。
「何でこんな早い時間にいるんだ」
ほら、やっぱり。予想通りの言葉。心の中でよっしゃと呟いてから、私は早くさちに玄関から上がるように促し、家に上がったらぐいぐいと背中を押して居間まで連れてきて、座らせる。
風さんは、いつも通りのように晩ご飯を作っている。時折手が止まって肩を振るわせているのが、心苦しかった。
「で、何なんだ?」
「ねぇ、さちは力が弱くなっているんでしょう?」
私の言葉に、さちははっとなってすぐに目をそらした。目をそらしてから風さんのほうに視線をやり、こちらに背を向けて料理しながらも時折手を止めては肩を震わせる風さんを、さちは責めないと決めたようで私に視線を向ける。
「ああ、そうだ。朝からお前が寝るまで、姿を保っているのが難しくなった。だから正直……お前が働いてくれてよかったと思ってる。こればっかりは、キッカケを作ってくれたあの小僧に感謝だな」
珍しく、肩を揺すって笑うさちを私はまっすぐ見据える。私の真剣な表情に何かを感じ取ったのか、さちは笑うのをやめてまっすぐ私を見つめる。
大丈夫、怖くない。私は神様の供物に選ばれたんだから、村でも言われてたでしょ。神様の供物に選ばれることは光栄なことなんだって。怖がっちゃダメ。さちにこの震えが伝わったらダメ。
「何がしたい」
「私を食って」
まっすぐ、さちの目を見据えてハッキリと言った。さちが、戸惑うように視線を迷わせた。迷っているのだ、さちだって消えたくないはず。私を食って生きるか、食わずに消えるか。だったらここで押せば、きっとさちは私を食ってくれるだろう。
私は座ってるさちに近づき、正面からさちの両肩を押えてそのまま押し倒した。
「何を……!」
騒ぐさちを尻目に、私は折り畳み式のナイフを取り出す。さちの動きが、止まる。
「やめろ、リセ!」
さちの怒鳴り声が聞こえるけど、生憎怒鳴られ慣れてるんでね、ちょっとやそっとじゃ怯えたりしないよ。それに、怯えたらさちが消えちゃうんだから。ここが私の度胸の見せどころ。
ナイフを人差し指にあて、躊躇いなく横に引いた、小さな血の玉が、さちの頬に飛び散った。さちが、酸素をあえぐように口を閉口する。指からはドクドクと血が流れている。風さんが台所から駆け寄って、小さく悲鳴をあげたのが聞こえた。その目は、泣きはらしたように真っ赤だった。
……風さん、安心して。あなたの大事な主様はもうすぐ力を取り戻すから。だから、泣かないで。
「さぁ、食って」
私は唖然とした様子で口をわずかに開いているさちの口の中に、血まみれの人差し指を強引に突っ込んだ。さちの舌に触れて傷口がひどく痛むけど、かまってられない。さちの人間を食うと言う本能さえ刺激できれば、それだけで十分。
痛みに顔を顰めたりなんてしない。私は強いんだから。十歳まで、周りの人に助けられながらだけど一人で生きてきた強さ、なめないでよね。さぁ食え、私を食って力を取り戻して、さち。
「……いっ」
さちのねっとりとした舌が、人差し指絡みつく。思わず声をあげてしまったけど、さちは構わず血をなめとっている。よかった、ようやくこれでさちは……。ほっと安心したのもつかの間、さちは簡単に人差し指を離した。
「傷が……治ってる……!」
さちの口の中に突っ込んだ人差し指の傷が、跡も残らず綺麗に治っていた。
「だてに神様やってないぞ。お前の切り傷ぐらい、簡単に治せるわ」
そう言って笑うさちの体が、透け始めている。風さんがわっと声を出して泣く。さちはすまなそうな顔をして、風さんに近寄るよう言った。風さんが近寄ってくると、さちは私に押し倒された状態のまま風さんに声をかける。
「不甲斐ない主ですまない。お前まで巻き込むことに……」
「いいえ、いいえ。気にしないでください、主様。私は……リセちゃんを食ってまで、主様は生き永らえようとは思わないと思っておりました。不束者ですが、どうぞお供させてください」
「お前は一番いいところをかっさらって行くな」
ふっと小さく笑みをこぼすさちに、つられたように真っ赤な目で笑う風さん。
何で? どうして二人とも消えることを受け入れているの? 私は茫然とさちと風さんの体が薄くなって行くのを見ていた。はっと我に返って、さちに縋る。
「行かないでよ、さち、風さん! 何で……私のお父さんになってくれるって、言ったのに……! この数ヵ月間すごくすごく楽しかったのに!」
「ごめんな、リセ。ちっちのところにリセを頼むように文を書いたからそれを――」
「ヤだヤだ! さちが消えるなら私生きていたくない!」
思わず飛び出た言葉に、パン、と乾いた音が響いた。頬がじんじんと痛んで、熱い。叩かれたのだと理解するのに、時間がかかった。さちを見ると、怒っているのがわかる。
「バカなことを言うな。いいか、リセ。お前は今まで大変な思いをした、つらい思いをたくさんした。だからこそ、生きて幸せにならないといけないんだ」
「そうよ、リセちゃん。可愛いんだから、大きくなったらきっとモテモテよ」
さちの真剣な言葉にかぶせるように、風さんが鼻息荒く話す。その姿に、さちが呆れたように笑いながらため息をついた。
二人が、幽霊みたいに半透明になって。私の目からボロボロと涙があふれ出て視界が見えなくなってしまって、目をこすって涙をぬぐったときにはもう、さちと風さんの姿はどこにもなかった。主を失った悲しみか、今まで一度も言葉を発さなかった家と言う妖が「おおおおお!」と唸り声のような、泣き声のような雄叫びをあげた。
頭の中が、真っ白になった。私の足は自然と、外へ向う。
霞がかかったような頭で、ぼんやりと考える。
あれ、おかしいな。どうしてこんなに外が明るいんだろう。村の夜は真っ暗で、出歩く人なんていないはずなのに、たくさんの人や妖が歩いている。私は一体、どこへ向かっているんだろう。
目の前に、そこだけ空間が歪んでいるような場所があった。
『これは歪みって言ってね――』
そう話す綺麗な若い女性が頭をよぎったけど、誰だっただろうか。思い出せない。ぐずぐず考えている間に、忘れた。私の手は歪みに伸びていく。
『歪みはとっても危険なの。その先に待っているのは空の上かもしれないし海の中かもしれない』
それでもいいと、思った。もう、何もかもがどうでもいい。待っているのが死ならば、喜んで受け入れよう。
私の手が、歪みに触れた。




