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ロハンネによるネルゼラの治療は、とにかく褒めそやすことだった。
やはり血は争えないのか、ロハンネからでる賛美の数々は父に劣らず、歯が浮くようなものばかりで、きまりが悪くなったネルゼラが直立不動のまま動かなくなったりした。
花の芽が成長する早さよりもゆっくりと、ネルゼラの枯れた時間が育ち始めた。
ロハンネは食事の時間になると、ネルゼラの部屋の扉を叩き、一緒にとるようにしていた。人の手ではなく、ロハンネの魔法で作られた料理は、味の濃さに差はあれど、悪くない出来だった。「私が作った、魔法で。天才だから」と、高らかに告げてから料理を運ぶロハンネに、ネルゼラは食器を投げ飛ばしてきそうなほど嫌な顔をしていたが、ロハンネが食べ始めてから彼の身に何も起こらないことを確認すると、ようやく自分の食事に手をつけるのである。
ロハンネには、ネルゼラがいつ自分の心を読んでいるのか分からない。しかし、いつ読みとってもらっても問題なかった。
「お前は俺にたいして心配とかしないわけ」
「心配? 何を? この私が傍に居るのに」
「あ、そう」
その会話をきっかけに、ネルゼラはロハンネのことを強く拒まなくなったのである。
語彙力を駆使した褒め言葉よりも、なんてことのない会話が彼の琴線に触れたらしい。
食事に改善がみえたら、次は睡眠だ。
ロハンネは夕食を食べ終えても、ネルゼラの部屋に留まるようになった。
湯浴びを終えたネルゼラは、鐘の音を十二回鳴らす振り子時計と、扱えもしない剣術の本を読み耽るロハンネを見比べてから、呆れた声で「ねぇ、」と呼びかけた。
しかし、本の世界にいるロハンネには届いていないようで、伏せられた睫毛の影が動く気配はない。
「聞けよ」
気に食わなさにつられ、語尾が強くなる。
近づいて本をひったくってやると思ったネルゼラだったが、どういうわけか、動いたのは足ではなく口先だった。
「兄様」
瞬間、ばっ!とロハンネが顔をあげた。その驚く顔は幼子のように無防備で、虹の詩を唄う詩人よりも輝いていた。
ネルゼラが覗いてみた兄の心の中は、色とりどりの花が咲き乱れ、清澄の空と舞う花弁を撫ぜるように、柔らかな風が吹いていた。
ロハンネは栞を挟むのも忘れて読んでいた本を閉じると、テーブルに置きっぱなしにしたまま意味も無く立ち上がった。
自分の呼びかけひとつで、腑抜けた姿を晒す兄を前に、ネルゼラは満足そうにくつりと笑った。
しかし、何故笑われたのか分からないロハンネは、ほどよく揺蕩っていた眠気も何もかも、綺麗に吹き飛んでしまっていた。
「はじめてだ、はじめて君に、兄様と呼ばれたぞ」
「ふぅん。嬉しいの?」
「これから三徹できるくらいには」
「例えが意味わかんねえよ」
わかんねえか、と呟きながら、ロハンネの体が再びソファに沈んでいく。
「俺もう寝るんだけど」
「わかった、おやすみ」
「あんた、最近いつもそれじゃん。俺が寝たあと俺の部屋で何してんの」
「君の寝顔を眺めてる」
「きっつ!」
ぎゅっと顔を顰めたネルゼラは、そのまま寝台の中に潜り込んでしまった。顔すら見えない白い塊がもぞもぞ動き、やがてシーツを擦る音さえ聞こえなくなった。
月明かりと溶け合う静寂の中で、木製の振り子が時の波に揺れている。
ネルゼラが完全に寝入ると、ロハンネは自分の目頭を強く揉み込んだ。ロハンネの魔法には、明確な弱点がある。自分の意識が覚醒している時でしか魔法が発動しないのである。
つまり、眠っている間は魔法が解除されてしまうのだ。
ネルゼラにかけた喪失魔法も、邸宅全体にかけた生活魔法も、全てである。
限られた時間でしか睡眠をとっていないロハンネだが、魔塔の時と比べれば全然ましであった。しかし、永続的に可能なわけではないため、ロハンネが倒れる前に、なんとかネルゼラの悪夢をなくすことが目標だ。
人の気配に五月蝿いネルゼラは、最初ロハンネがいることで気が散ると文句を言っていたが、ロハンネと会話しながら寝落ちるというのが存外悪くなかったようで、出て行けと枕を投げられるようなことにはならなかった。
時折、何故そこで黙るのだとか、急に赤面してひとりでそわそわしていたりするのだが、あれはロハンネの感情を読み取ってるが故の反応と思われた。本人は無意識かもしれないが、自分が望むタイミングで、相手の心内を読めるようになってきている。勝手に読み取ってしまった時は、尾を踏まれた犬みたいな顔をするので大変分かりやすい。
近々、一緒に街へ出かけてみるのもいいかもしれない。
聞けば、もう何年も行っていないと言うではないか。長時間はまだ難しいだろうが、喫茶店で珈琲を一杯飲むくらいの時間であれば、慣らしにはちょうどいいだろう。
ロハンネが誘えば、嫌そうにしつつもきっとついてきてくれるに違いない。彼はそういう、内心と裏腹な態度をする時があるのだ。多分。きっと。
それなりに段階を踏んだ治療の計画を立てていたロハンネだが、街にでかけることも叶わないばかりか、その計画自体が大きく狂うことになってしまった。
魔塔から緊急指令がだされ、一時的に戻らなくてはいけなくなってしまったのである。
荒れ地に棲む火竜がその生息地を広げ、縄張りが近隣区にまで迫っており、このままでは我が国が襲われるのではないかと危ぶまれる、緊迫した状況になっているらしい。
火竜の凶暴性は高く、災害レベルでも高位置にいる魔物である。大規模な被害がでてしまう前に、ロハンネを含めた魔法使い達にも討伐命令が下されたのだ。
両親にはこの世の終わりのような顔をされたが、ネルゼラからは「さっさと行け」と言われた。実に彼らしい冷たさだった。
「遠征での討伐だから少し長くなる」
「へえ、二週間? 三週間?」
「半年」
「……」
黙り込むネルゼラに、ロハンネは喪失魔法とはまた別の、ひとつの魔法をかけた。
「んだよ」
「私がいなくても、食事の心配事が増えないように」
「いいって別に。そもそも、あんたの魔法が勝手に作ってくれてんじゃん」
ロハンネが自分の魔法の弱点について説明すると、ネルゼラから束の間表情が消えた。
「離れてても偉大なお兄様の生活リズムが分かるってこと? そりゃどーも」
「はは! 迷惑そうでなによりだ」
ロハンネの足元から旋風がのぼり、魔塔の紋章が浮かび上がる。
「行ってくる」
「は? もう?」
風を切るような音と共に、ロハンネは帰還魔法を発動させた。
□□□
火竜の住み処である熱帯土壌は、乾燥地帯を越えた先にある。
赤土から湯気が立ちこめ、至る所で湯柱があがっている。冷却魔法を纏っていなけれぱ、吸い込む空気の熱さで気道が焼け、肺が焦げた煙でいっぱいになっていただろう。
対火竜相手に選ばれた魔法使いと、第二騎士団が今回の討伐隊の主力構成員だった。魔法と物理、どちらでも攻守を可能にするためである。水の魔法使いと氷の魔法使いがいなければ、目的地に辿り着くことすら困難であった。
戦闘時には誰が前にでて誰が後ろに下がるか、明確に決まっており、前線に立つのがロハンネのいつもの役目だった。
道中に出くわした魔物との戦闘も、魔法使い達への指示は全てロハンネがとばしていた。
基本的に剣術がからっきしな魔法使いは、近接戦では圧倒的に不利になるため、そこは全て騎士団に任せ、自分達は遠距離からの攻撃や支援に集中することで、戦力のバランスをとっていた。持ちつ持たれつの関係である。
「副長!」
肩書きを呼ばれ、ロハンネはうしろを振り返った。
「今日はこの辺りで休息すると騎士団長が」
「分かった」
ロハンネが頷いたのを確認してから、部下達は魔法で結界を張り、岩石を寄せ集めて簡易な小屋をいくつも造りあげた。
ロハンネはなるべく戦闘に備えて魔力を温存しなければいけないため、こういった場面で手を出すことはなく、ヒュンヒュンと飛び交う岩石をぼうっと眺めながら、四肢の力を抜いていた。そんな彼の肩にずっしりとした重みがのる。
「眠いのか? 子守歌を歌ってやろうか」
「やめろおばあちゃん」
「おばあちゃん言うな青二才」
虎のように太く硬い筋肉に覆われた腕を、ロハンネの肩に回してきたのは、第二騎士団長であるマニレデだった。酒場にいる傭兵さながらな気安さである。白髪が目立ち始めている彼女だが、年齢を理由に引退するには勿体ない猛者で、大柄な体に見合った深い懐の持ち主でもあり、男女問わず若い騎士達から慕われていた。
彼女が訓練と評し、馬をおぶって魔塔の周りを走っているところに、ロハンネが出くわしたのが最初の出会いだった。
そんなマニレデが率いる第二騎士団は、魔物専門の討伐部隊で、魔法使いと共に戦場を巡ることが多く、互いに背中を預けられる間柄だった。
討伐において、ぬかりなど微塵もなかった。
防具も武器も、火竜専用のものを持ってきたのだ。
それが仇になるなんて、世の中は本当にどうかしていると、ロハンネは目の前の光景を瞬きもせずに見つめた。
この場にいる他の者達も同じで、足場の悪さも忘れて二、三歩後退し、揺れる瞳孔にはっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
暴食竜と呼ばれる黒竜が、火竜を喰っていたのである。
火竜が生息地を広げていたのは、黒竜から逃げるためだったのだ。
理性のない低俗な魔物でさえ、本能で逃げ出してしまうくらいのこの災いの種を、このまま放置するわけにもいかない。
火竜や黒竜にとっては造作もない距離に、人々が暮らす街があるのだから。
黒竜の体格は巨体だが、まだ最大ではなく、成体になりきっていないことが分かる。魔法も物理攻撃もはね除けるとされる鉄壁の鱗は、未熟ゆえの柔らかさが残っているため、傷をつけ肉を断つことが可能ではあった。理論上は。
実現させるためには、殺傷力の高い魔法が必要なのだが、この場で扱えるのはロハンネしかいなかった。
魔法は使用者の潜在意識に帰結するとされている。
攻撃魔法の適正が高いということは、自分が傷つけられることに恐れを抱かず、命を代償としたやりとりに躊躇がないということだ。
その傾向が強ければ強いほど、魔法の殺傷力も上がっていく。つまり、ロハンネは、気狂いと呼ばれても可笑しくない、戦闘狂の素質を持っているのだ。
こんな酔狂な人間でもなければ、黒竜との戦闘で、先陣に立つことなど出来ないだろう。
「待てロハンネ!」
マニレデが血相を変えて呼び止める。彼が今しようとしていることを察したからだ。
「相手は待ってくれないぞ」
ロハンネの言う通り、黒竜の目は既にこちらを向いていて、尾を振り上げながら狙いを定めていた。
「援護を頼む」
「ロハンネ!」
マニレデの焦燥を煽るかのように、けたたましい咆哮が轟いた。
帰還という知らせが届いたのは、ロハンネから言われた期日よりも早かった。
一体何を告げられたのか、愕然とする両親を横目に、ネルゼラは今までずっと引きこもっていたのが嘘のように、脱兎の如く駆けだした。
ロハンネが魔物討伐に向かってから最初の数日以外、この邸宅に施された彼の魔法が消えることはなかった。
それはつまり、寝る間もない状況に置かれているということだ。
「俺も連れてけ!」
「ぐぇっ、え? えぇぇえ?!」
知らせを持ってきた魔法使いのローブを引っ掴んだネルゼラは、そのまま自主的に巻き込まれる形で、魔法使いと共に魔塔へ帰還してしまった。
「ちょっと君?! なにしてん…」
「邪魔!」
「痛い! 酷い!」
喚く魔法使いを押しのけて、ネルゼラは怪我人がひしめき合っている方へ足を向ける。土と血の臭いが鼻を掠めた。
手当を受けている人間の中に兄の姿はない。
芽吹いた不安はギチギチと心臓をきつく締め付け、二度とあじわいたくない類の痛みが、鼓動と共に全身へ広がっていく。
場違いな軽装のネルゼラは明らかに浮いていて、誰の目から見ても部外者だと分かるほどだった。比較的軽症の騎士がネルゼラの腕を掴む。あっという間に床に押さえつけられてしまった。
「貴様、どこから入ってきた!」
これ以上ないほど、ネルゼラは腹の底から声を上げた。
「兄様はどこだ!!」
「あに…?」
「 ロハンネはどこにいる、俺の兄様はどこにいんだよ!!」
押さえつけられた体勢から力づくで起きようとして、体から嫌な音が鳴る。血走った目はただひたすらにひとりを探していた。眉間に皺を寄せたまま黙っていた騎士が口を開こうとした時、ちょうど二人の前で空間がぐにゃりと歪んだ。魔法使いの誰かが帰還魔法を発動させたのだ。
肺をねぶる熱風、焦土の臭い、切り裂かれた甲冑。
血を流す女性と、彼女を支える魔法使い。その向こう、歪んだ空間の隙間から、黒い竜とそれに対峙する人影が見えた。
血の気が引くよりもはやく、ネルゼラの肌が総毛立つ。
「兄様」
ロハンネが戦っていた。
空間は直ぐに閉じられ、歪みが元通りになる。
「なんだこの坊ちゃんは」
「ロハンネ副長の弟らしく…」
今にも過呼吸を起こしてしまいそうなネルゼラに、マニレデは深く溜め息を吐いた。
「あいつの身内は揃いも揃って、魔塔に押し入るのがそんなに好きか」
いつを思いだしているのか、若干遠い目をしながら指示を飛ばしたマニレデは、自らの甲冑を脱ぎ捨てると、部下に新しい物を持ってくるよう命じた。
ロハンネが黒竜を食い止めているうちに、各所各地へ連絡し、戦力を整え、今度こそ討伐しなければならない。一週間、いや、三日…もっとはやく。
それまで、ロハンネがもつだろうか。
マニレデの険しい顔が、状況の厳しさを物語っていた。ネルゼラは一度、ぎちっと歯を噛みしめてからマニレデに向かって口を開いた。
「俺がやる」
何言ってんだこいつ。
マニレデが胡散臭そうに目を細める。彼女の思っていることが、ネルゼラには手に取るように分かった。
相手の『心』の中を読むことと、『頭』の中を読むこと。場所は違えど要領は同じだ。やれなくても、やらねばならない。戦場に立てないネルゼラが、ロハンネのために出来ることを、ひとつ残さず拾い上げるのだ。
「お前の記憶ごと、俺が全部伝えてやる」
「魔法か」
素早くネルゼラの力を把握したマニレデは、一拍置いてからつけ足した。
「今を繋げながらは出来るか?」
□□□
あつい。ねむい。つかれた。
ロハンネの頭の中はほぼこの三つに支配されていた。
朝がきて。夜になって、また朝がきて。今は戦い始めてから何日目の夜だろう。
至る所に浮かんだ光球が黒竜を照らしてくれるお陰で、ロハンネは相手の攻撃を見誤ることなく相殺できていた。魔力や体力を含め、どちらが先に力尽きるのが先か、もはや我慢比べのようになっていた。
最後まで残っていたマニレデは何と言っていたか。また来るだったか。なら、それまで頑張らなければ。いや既に死ぬほど頑張っているのだが。
気を失わないよう自問自答を繰り返しながら、黒竜の攻撃を手数の多さで凌いでいく。
光の超圧縮魔法。ロハンネが最も得意な攻撃魔法である。
絶え間なく降り注ぐ光の流星群は、黒竜の鱗を貫き、肉を抉り、既に片翼を使い物にならなくさせていた。
とは言っても、ロハンネとて左腕が千切れかけているし、胴体の肉も些か多めにもっていかれた。自分の血を操って無理矢理循環させているため、失血で死ぬことはないが、気を失いでもしたら間違いなくあの世逝きである。
「ロハンネ!」
マニレデの声が聞こえた。空耳だろうか。
「兄様!」
ネルゼラの声が聞こえた。絶対に空耳だ。
しかし突然、黒竜の動きがまるで氷付けにされたかのように硬直し、次いで眼球がぐりんと上にひっくり返った。
すかさず黒竜との距離をほぼぜろまで詰めたロハンネは、無防備に晒された急所へ光の礫を猛擊させ、致命傷となる大きな風穴をあけさせた。
巨体が重力にそって崩れ落ち、飛び散った鱗がロハンネの頬を切った。それでも竜はまだ死なず、荒い息と血を吐きながら立ち上がろうとしている。
とどめを刺さなければならないのに、限界を迎えたロハンネの体は、受け身すらとれずに地面に倒れ伏してしまった。
一度閉じた瞼もあげられない。
「副長っ!」
霞む意識の中で、見知った部下の声が届く。ほんの少し現実に引き戻される。
剣の音。魔法の音。戦いの音が聞こえてくる。
そうか。間に合ったのか。
循環させていた血がだばだばと流れ出ていくのを感じる。構築の魔法使いが何事かを叫んでいるが、ロハンネはもう、言葉を言葉として理解できないほど弱りきっていた。
「どちくしょうが!! ふざけんな…っ! ロハンネ!!」
頭を掻き毟っているかのようなネルゼラの悩乱に、ロハンネの目がかっと開く。驚きのあまり引き攣った悲鳴を上げる面々を見渡してから、手っ取り早い所にいた誰かを掴み、最後の力をふり絞って叫んだ。
「なんでネルゼラがここにいるんだ危ないだろうが死ぬ気で守れ!!!」
黒竜に精神魔法で攻撃したせいで、鼻血をだしていたネルゼラが、溢れ落ちそうなくらい瞳を真ん丸に見開いた。




