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三人での夕食後、ロハンネは両親にたずねた。
「ネルゼラは何故ああなったのですか」
ロハンネの中のネルゼラは、幼児の頃で時が止まっている。よてよてと覚束ない歩みでロハンネの足にしがみつき、抱っこをせがんできた可愛い弟。
「僕達もよく分からなくて…」
「元気なのはいいことだと最初は思っていたのですが、ちょっと元気がよすぎるようになってしまって」
父と母は顔を見合わせて、萎れた花のように眉尻を下げた。
こんな穏やかな両親から生まれた子が、あんな苛烈に成長するなんて、誰にも想像できなかった。どれだけ猫可愛がりしたのだろうか。それこそ、邸宅を砂糖で埋め尽くしても足りないかも知れない。
いくらくそガキとはいえ、ロハンネにとっても、ネルゼラは大切な弟だ。牢獄行きになるようなことをやらかす前に、なんとかしなければ。一家滅亡より、一人で自滅していきかねない危うさがある。
「日中の過ごし方は?」
「ええっと、お勉強と武術の稽古をしています」
「…」
「…」
「…」
普通だ。
首を傾げながら、ロハンネは「夜は?」と口を動かした。
「部屋で本を読んでいます」
普通だ。
「他者が関わらなければ大人しいのですか?」
「そうなんだよ。彼ね、とっても人嫌いなんだ」
「きっかけは? 心当たりありますか?」
「ないから困ってるんだ。僕達のことなんて、もう完全無視だよ。暴力とかはないけど、口もきいてくれないんだ。家出しないよう監視を付けたから、もっと嫌われちゃってね…」
それはそうだろうという言葉は飲み込んだ。そんなの、ロハンネだって嫌だ。
「私が気にかけるようにするので、まずは監視を外して下さい」
「分かった!」
父が明るい声で頷いた。母も胸を撫で下ろしている。まだ何も解決していないのに、これで安心だと態度で示され、ロハンネは頬を引き攣らせた。
母に案内された部屋は、明るいブラウンと淡い青色の家具で統一されていて、開放的な空間になっていた。
サイドテーブルに置かれたベルを鳴らすと、懐かしい顔の執事が来た。ロハンネの記憶より皺が増え、白髪も生えているが、一本の木のようにスラリと伸びている背筋は変わらない。
「久しぶりだな、ボルドー」
「…お元気そうでなによりでございます。坊ちゃま」
「坊ちゃまはやめろ」
気恥ずかしくて小さく笑うと、ボルドーの目元が和らいだ。
「温かいレモネードを頼む」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
言葉通り、着替えが終わらぬうちにボルドーは戻ってきた。ひとくち飲んで、染みわたる檸檬の酸味と蜂蜜の甘さに肩の力が抜ける。
「ボルドー」
「はい」
「ネルゼラの部屋は何処だ」
寝具で寛ぐ前に、しなければいけないことがあった。
ネルゼラの部屋は、食堂や両親の部屋から離れた西側にあった。ノックをしておきながら、返事を待たずして中に入ったロハンネだったが、突風のような勢いで壁に叩きつけられた。
ぐっと息が詰まったところに、乱暴な力で胸倉を掴まれる。予想していたとはいえ、なかなかな歓迎だとロハンネはうっそりと口角をつり上げ、敵意剥き出しのネルゼラと目を合わせた。
「昼間の意趣返しか? 随分根に持っていたんだな」
「今すぐ窓から放り投げてやろうか」
ロハンネの右手が、胸元を掴む腕を弾くためではなく、ネルゼラの目の下を撫でるために伸ばされた。
「化粧で隠していただろう、すごい隈だぞ」
「さわんなカス」
パシッと強く叩かれた手が乾いた音を立てる。赤く腫れ、じんじんとした痺れるような痛みが、指先にまで広がった。
おやおやと言いたげに片眉を跳ねさせたロハンネの頭上に、淡く緑色に光る古代文字が浮かび上がった。四つのスペルはふわふわと連なり、ロハンネの右手に収束されていく。光が完全に消えてしまう前に、ロハンネは赤みが引いた手を素早く動かして、ネルゼラの額を指で弾いた。ぽん!と可愛らしい音を立てて光が散る。
「いっ」
「おやすみ」
牙を抜かれた猛獣のように唖然とするネルゼラに、してやったりと悪戯っぽく笑ったロハンネは、我に返った弟から拳がとんでくる前に、さっさと部屋をあとにした。
次の日、朝食を終えたロハンネが、自分の部屋で紅茶を飲んでいると、よれたシャツを着たままのネルゼラがやって来た。
ダンッ!と両手をテーブルにつき、ソーサーが落ちそうになるのもお構いなしに、鬼気迫る顔でロハンネに詰め寄ってくる。
「俺に何をした」
「いいことをした。よく眠れただろう?」
ふざけんなと吐き捨てたネルゼラは、腕を組んで仁王立ちし、口元に笑みをのせているロハンネを睥睨した。
「ずっと居なかったくせに今更兄貴面か? 反吐がでる」
そこをつつかれるとロハンネは何も言えない。食事がとれなくなるほど両親に胸やけをしたのは事実だが、ネルゼラを置いて家出したのもまた事実だからだ。
「すまない」
「ぁあ゛?」
ますます機嫌が悪くなってしまった。だが、猫が毛を逆立てているようで微笑ましくもある。可愛いなどと口にしてしまえばどうなるか、目に見えているので心の中だけに留めていると、急にネルゼラがぎくりと肩を揺らし、まるで亡霊でも見たかのような顔でロハンネを凝視した。
一応ロハンネは後ろを振り返ってみた。何もいない。
未だ動かず喋らずのネルゼラに、紅茶が入ったカップを捧げてみる。
「君も飲むか?」
「いらねえ」
これみよがしに舌打ちをし、去って行くネルゼラの背を見送りながら、ロハンネは暫くの間考え込んでいた。
それから一週間もしないうちに、心なしかネルゼラの目の隈が薄くなった。ロハンネがネルゼラの部屋の扉に再び手をかけたのは、それから更に三日が経った頃だった。
「…最近、よく眠れる。お前の仕業か」
ほぼ断定しているような言い方に、ロハンネはあっさり頷いた。
「あぁ、私だ」
その堂々さにネルゼラが拗ねたような顔になった。
今一歩距離を測りあぐねているネルゼラと違い、ロハンネはやっと会話らしい会話ができたなと、内心で小躍りしていた。
ネルゼラが投げやりに目を逸らしてしまったため、ロハンネは視線だけでぐるりと部屋を一周する。棚の奥に押し込められている薬瓶を見つけたが、それに気づいたネルゼラに、見るなと言葉ではね除けられてしまった。
「君は薬師でも目指しているのか?」
「ほざけ」
威勢のいい噛みつきに、ロハンネは声を上げて笑った。
しかし直ぐに笑いを潜めると、少し声音を落としてネルゼラに告げる。
「あれは解毒剤だ。さては君、食事のたびに飲んでいるな」
苛立ちに任せて床を蹴るような音と共に、ロハンネの体がソファの背もたれに叩きつけられた。そのまま動かぬよう体重をのせた腕で押さえつけたネルゼラは、空いたもう片方の手でロハンネの顎を掴むと、骨が軋むのもお構いなしに力をこめた。不自然なほど瞳が見開き、瞳孔も広がっている。
比喩ではなく飛びかかってきたネルゼラに押さえつけられ、身の自由を奪われたロハンネは、暴れ馬を宥める騎士が如く、微塵の害も感じさせない穏やかな声で弟の名を呼んだ。
「ネルゼラ」
「……」
「ネルゼラ」
何度か繰り返していると、ネルゼラの体から徐々に力が抜けていく。ロハンネを押さえつけていた腕と手がだらんと垂れ下がり、萎んでしまった朝顔のように深く俯いてしまった。少しつついただけでこのまま床に倒れてしまいそうである。
「そんなに不貞腐れる必要がどこにある」
「ぅわっ!」
ロハンネが体を半回転させると、二人の立ち位置が入れ替わった。ソファに座らせられたネルゼラが目を白黒させる。
そんな彼の足元にしゃがみ込み、不適な笑みを浮かべたロハンネが一言一句はっきりと告げた。
「安心しろ、私がどうにかしてやる」
「…偉そうにすんな蹴るぞ」
「如何様にも」
本当に顎を蹴り上げようとしてきた。
「むかつく」
「私はこの上なく可愛いと思ってい」
「知らねえよ」
「知っているはずだ」
ロハンネの言葉を遮って吠えたネルゼラだったが、触れて欲しくない核心をぐっぷりとつかれ、二の句が継げなくなってしまった。
これまでとは一転し、笑みを消したロハンネは、口を挟むのが憚れるほどの迫力に満ちていた。まごうことなき従わせる者の風格であった。
「人の心が読めるのだろう?」
「は、」
「いや、もっと曖昧で、正か負かの二分した感情が分かるといったところか」
ロハンネが視線を落とす。ネルゼラのつま先が視界にはいった。
「あとは君が見ている夢。毎晩、殺される夢でも見ているんじゃないか?」
顔色を真っ青にしながら、これでもかと目を見開いたネルゼラがロハンネを凝視する。
「精神魔法だ。君は自分で自分を精神魔法で攻撃している状態なんだ」
ロハンネが再び視線をあげ、ネルゼラの顔を見た。耳をそばだてているわけでもないのに、彼の心臓の音がこちらにまで聞こえてきそうだった。
「それ、本気で言ってんの」
絞りだされたネルゼラの声は、泣く寸前のように震えていた。
「それとは?」
「全部」
「もちろん」
「どうやって気づいたんだ」
「君のことだけを考えて、君のことだけを見ていたらなんとなく」
「…だる」
ロハンネは笑った。文句の言い方が自分にそっくりだったからだ。
「…俺は、異常者じゃないんだな? とち狂ってるわけでも、なんでもないんだな?」
「ああ」
ロハンネははっきりと首を縦に振った。その肯定が、ネルゼラにとってどれほどの救いになったことか、彼は知るよしもないだろう。
一定の核心を得てから告げたロハンネとて、精神魔法の魔法使いを見るのは初めてだった。最後に確認された精神魔法使いは八十年前で、魔塔の書籍を読み漁ってなければロハンネも検討がつかなかったかもしれない。
ネルゼラの場合、一番の問題は自分で自分を攻撃していることだ。毎夜殺される夢をみるのも、起因はおそらくそこだろう。解決するには、自己防衛すらできなくなった弱々しい自尊心をどうにかしなければならない。自己を肯定する力が弱い魔法使いは、制御出来ない力に呑み込まれて自滅するのである。全ての魔法に準ずる法則で、実際、そうやって命を落とす魔法使いは少なくない。
ネルゼラの頬にしおらしく垂れている横髪を耳にかけてから、ロハンネは不遜に告げた。
「恐れも不安も抱かなくていい。君を脅かすものは私が片付けよう」
ネルゼラはきつく目を閉じたまま、くそったれと悪態ついた。
攻撃は最大の防御というが、それは魔法にもあてはめられる。ネルゼラが悪夢をみなくなったのたは、ロハンネが喪失魔法を彼にかけているからだ。これは一時的な処置であって、根本的な解決には至らない。
魔法をコントロールできるようになれば、相手の感情が勝手に雪崩れ込んでくることがなくなるうえ、より詳細な感情を読み取れるようにもなるだろう。
今のネルゼラは、自分に向けられる「負」の感情の区別がつかず、一色に染まりきってしまっている。例えとして、親が向けてくる「憂慮」と、暗殺者が向けてくる「殺意」が同じなのである。
ぽつぽつと本人が教えてくれたが、水と油を胃の中に無理矢理流し込まれるかのような不快感に襲われるらしい。
そんなものを至る所から毎日毎日浴びせられ、殺される夢まで見続けたら。
あの、父と母すら信じられなくなるほど、追い詰められてしまっていたのだ。「正」に絡み付く「負」のせいで、好意の裏に悪意があるのではないかと、常に気を張り、常に疑い、心が疲弊しきってしまったのだ。
「よく今まで自我を保てたな。偉いぞ」
「やめろ、虫唾が走る」
「君は本当に頑張っている。流石私の弟」
「だから! 黙れ!」
「可愛い」
「どこがだよ!」
「私がどう思っているのか、大体は伝わっているのだろう? 気が悪くなったりしていないか?」
「…濃い桃水を飲んでる感じ。胸焼けしそう」
「んん?」
自分から聞いておいてなんだが、よく分からない。まあ、いいか。




