海、湘南、常夏の白浜。小さな欲望。
夏といえば海。海といえばわかめであるが、乾燥わかめを戻す際、適切量を見誤ってしまうことは、人間として致し方のないことなのである。
「ねえ真綾ちゃん、インスタントのわかめラーメンってあるでしょ?」
「ん、あるね」
「私この前、それに乾燥わかめ一袋を足してお湯を入れたの」
「へぇ」
「どうなったと思う?」
「わかめが溢れてきた、とか」
「正解は、わかめの使いすぎでお母さんに怒られた、でした」
「もっと心配するとこあるだろ」
私と真綾ちゃんの、風情を感じさせる問答に、通りすがるパリピは必ず振り向く。
ただ、その雅なテイストとは裏腹に、夏の日差しは私達の肌を容赦なく照りつけた。額に玉のような汗が走る頃、真綾ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「ところで、その話は海水浴に来てまですることだったの?」
その言葉に、私は今置かれている危機的状況を思い出す。
ここは湘南。とりあえずイケてる女子は湘南に来るらしいから、来てしまった。なんとなく水着とサングラスを着用して、現在は砂浜闊歩の真っ只中である。
「真綾ちゃんは何のために海に来たの?」
「ナンパ待ち」
「えっ、わかめになるためじゃないの?」
「それは後にも先にも愛理だけだよ」
私がヒトとは異なる生命への変化を目標に、命懸けで海水に浸かっているというのに、この女はナンパ待ちなどと宣っている。品性も向上心も感ぜられぬ、下劣かつ過激な思想である。
「真綾ちゃんはまるでウサマ・ビンラディンだね」
「その例え方が一番過激だけどな」
穏健派らしからぬ会話を始めて早二分、早速二人組の男が声を掛けてきた。
「そこの姉ちゃん達、歳いくつ?」
「可愛いね。そろそろ十二時だし、昼飯一緒に食わない?」
このまま野放しにしていては、真綾ちゃんがホイホイと付いて行ってしまう。私は彼女の身を守るため、とっさに嘘を吐いた。
「年齢は七千二百グラムです」
「あんた歳だけで体重七キロも増えてんのかよ」
「ちなみに真綾ちゃんの年齢は六十五キログラムです」
「ゴリラにするな」
男達の顔が少し歪んだ。間違いなくクラゲに刺された顔である。私は谷間に挟んでおいたムヒを取り出そうとした。
「……あれ?」
「愛理、あんたなんで胸元まさぐってるの」
「胸に挟んだムヒがない」
「そもそも胸がないからな」
その刹那、私の拳は鋼となって、真綾ちゃんに襲いかかっていた。しかし、渾身の一撃は空を薙いだ。
そして私は、すべてを察した。私の腕が空振りした理由は、もうわかりきっていた。
「いつの間に、私の腕がなくなって……!」
「ちゃんとついてるよ」
「安いもんだ、腕の一本くらい……無事で良かった」
「そのくだり一人でやるの?」
海賊王もびっくりの淀みなき名シーン再現に、興奮した私は思わず生唾を飲み込んだ。さしずめ私は四皇といったところか。
「スペシャルサンクス、尾田栄一郎さんだね」
「版権侵害もいいとこだな」
「真綾ちゃんはドンキホーテかな」
「激安の殿堂みたいになっちゃったよ」
「安い女だもんね」
「鼻にクラゲ詰めるぞ」
はて、此奴は何を血迷っているのか。そもそもこの女ごときにクラゲが捕まるわけがない。貴様にクラゲが扱えるというのなら、私なら縞鯵だって従属させられるではないか。しかし、真綾ちゃんの目には迷いが見られない。毛ほども、である。
「さては真綾ちゃん、ポセイドン気取り?」
「よくわかんないけど、ポセイドンってさ――」
これは私が迂闊だった。彼女はマウントを取らねば躊躇せず自らの腹を切ってしまうほど、その口から薀蓄を垂れ流すきらいがある。その行為自体が愚かで浅ましいのだが、私は咎めない。なぜなら私の地位はまだまだ低く、彼女のそれを咎められるほど尊い存在となっていないからだ。
「――ってところがかっこよくね?」
「私はまだ天使見習いなのです」
「え、なんで狂信者ロール」
「この似非ブロンドババアが絶対悪なのです」
「あんたの台詞が一番害悪だよ」
他愛もない会話を一頻り交わした頃、私のお腹がサウンド・オブ・ミュージックした。
「お腹空いたからなんか食べよう」
「愛理は食べたいものとかある?」
「わかめだよ!」
「さも当然のように言わないで」
わかめに嫌悪感を抱いたのか、真綾ちゃんは顔を顰めた。だがそれがどうしたというのだ。私の中のわかめ養殖家が声高にそう叫んだ。
とりあえず私達は海の家に入り、空いていた二人用のテーブル席に座る。すると可愛らしい店員が注文を取りに来た。
「いらっしゃいませ……って、愛理ちゃんと真綾ちゃん?」
「お、沙菜じゃん。バイトなんて精が出るね」
「バイトじゃないよ。私の父が経営している海の家」
その店員は、私のクラスの学級委員長を務める菱月沙菜ちゃんだった。沙菜ちゃんのお家はカフェを経営していて、私達はそこで仲良くなったのだ。
「へー、お父さん、かなりのやり手なんだな。とりあえずビーフカレーで」
「私はわかめ、四キロくらいもらえると嬉しいな」
「ねーよ。一人で処理する量じゃねえよ」
「かしこまりました」
「だからなんであるんだよ」
真綾ちゃんは一体、ビーフカレーのビーフが何でできていると思っているのか。誰がどう見てもわかめであろうに。
「すなわち肉はわかめなんだよ」
「愛理あんた嘘しか言わねーな」
「もし全部本当だったらどうする?」
「死を選ぶね」
やはりこの女を生かしておくのは危険である。親しき友を捨て命を絶つとは。人を馬鹿にするにも程があると言えよう。さすれば彼女を背徳者とみなし、裁判と称して火炙りにかけるのが妥当である。
それから間もなくして、料理が運ばれてきた。香辛料の刺激的な匂いが食欲をそそるビーフカレーと、まるでそのすべてを舐め回されたような光沢を放つわかめ。どちらがより美味しそうかと言われれば、百人中百人が後者を選ぶであろう。
「いただきます」
真綾ちゃんは手を合わせ、カレーを一口含んだ。湯気が立ち上るほど熱そうであったが、しかし彼女は私の目の前で、大きく目を見開いた。
「え、めっちゃおいしいじゃん」
こうも目の前で美味そうに料理を食されると、私も食べずにはいられない。私は美しく淑やかな振る舞いで割り箸をへし折り、その箸でわかめを口へと運んだ。
私が一度歯を噛み合わせると、口の中でサクリと心地よい音がした。
「すごい!この歯応え、一口で四千回は噛んでいられるよ!」
「卑弥呼か」
「真綾ちゃんも食べる?」
「いやいいわ」
あろうことかわかめを拒絶する愚昧なギャル女を尻目に、私はわかめを食べ続けた。全ては私が転生するために。
そうして供物を貪っていると、海の家中に突如として悲鳴が轟いた。
「浮かれてんじゃねえ!金を出せ!」
入り口で男が叫んだ。どうやら強盗のようだ。右手にはナイフを持ち、顔は防寒マスクで覆われている。だが、以前に沙菜ちゃんの店でアレを見てしまっていたから、私は動揺することもなくわかめを食べる。
「愛理、あんたよくこの状況で食べられるよな」
「それは真綾ちゃんもだよ」
「まあな」
しばらくすると、厨房の奥からゆっくりと沙菜ちゃんが現れた。
「おいお前!さっさと金を出せ!殺すぞ!」
「……せえ」
「なに?」
「ごちゃごちゃうっせえっつってんだよ、耳もついてねえのかてめぇ」
その言葉を放った沙菜ちゃんは、もはや学級委員長に非ず。その形相は、楠降の女番長を思わせるものであった。有り体に言えば、まさに修羅の如し。
強盗は沙菜ちゃんの言葉に業を煮やし、ナイフの切っ先を彼女に向けた。すると、彼女は躊躇なく右手を上げた。すると奥から、ライフルを担いだ黒服の男が現れ、あっという間に強盗の頭蓋を撃ち抜いてみせた。
その場にいた客は、立ち上がり手を叩く。そして口々に「出たよー恒例行事」「今年も面白いねー」などと、賛辞を零した。
「沙菜ちゃん家の常連さんは慣れてるんだね」
「絶対闇業界の人達じゃん……」
「でもまあ、強盗見てたらわかめ食べたくなってきたよ」
私が特に怖気付くこともなくわかめを食べ始めると、真綾ちゃんは怪訝な表情を浮かべたまま、視線を私に向けた。
「愛理ってさ、わかめになんか恨みでもあんの……?」
「実は私、ちっちゃいときに夢を見たんだ」
「へー。どんな夢なの」
「何不自由なく暮らす私の部屋に、突如手足を生やしたわかめが十人くらい乗り込んできて、いきなり私を囲んで、周りをぐるぐると回り始めたんだ!」
「思いっきり悪夢じゃね?」
やはり真綾ちゃんを湘南に連れてくるべきではなかった。自分がモテていると勘違いして、やることは私を全人格否定するのみ。これを絶対悪と呼ばずして、何を絶対悪と呼ぶのだ。
「それに、わかめにはバストアップ効果もあるからね!」
「そういやそうだわ。ボロンとかいう栄養素だよな」
「……え?」
「……ごめん」
会心のボケは、さざ波の音に消えていった。




