第9話 未完成の帰り道
律から返事が来るまでの三日間、朔は何度も昔のファイルを開いた。
外付けの記憶装置に、学生のころの課題が残っていた。色の派手なポスター、途中でやめたロゴ、名前だけ変えて増えた最終版。
その中に『帰り道』というフォルダがあった。
律と作る予定だった、小さな冊子だ。
町のどこにでもある曲がり角を、律が絵にする。
その場所で暮らす人の短い話を、朔が聞いて文章にする。
二十四ページ。中綴じ。五十部。
赤字を出さないよう、二人で電卓を叩いた記憶があった。
最初の見開きには、駅前のパン屋が描かれていた。
店の窓に夕方の光が当たっている。
朔が書いた文章は、たった三行だった。
『閉店前の店には、明日の分の匂いがする。家へ帰る人と、これから生地をこねる人が、同じ道ですれ違う。』
今なら、もっと具体的に書くだろう。
けれど律はその文を読んで、「俺の絵に文章がついた」と喜んでいた。
後半のページは空白だった。
朔の就職活動が長引き、律の家庭の事情もあり、話は立ち消えになった。
家庭の事情。
自分がその四文字でまとめているものの中身を、朔はほとんど知らなかった。
フォルダには、失敗した表紙案も残っていた。
律の絵を大きく載せたものと、題名だけのもの。
朔は当時、余白があると未完成に見えて、どこへでも説明を足そうとしていた。
律は余白を残したがった。
その違いで、何度か言い合いをした。
画像の一つに、律の手書きのコメントがあった。
『ここは、読んだ人が帰る道を思い出す場所にしたい』
朔は机の上で、古い見開きを広げるように両手を動かした。
作品について意見が違っても、当時の自分たちは、それを関係の終わりとは思わなかった。
夜中まで言い合い、翌朝には別の案を持ち寄った。
その記憶まで、助けを求められなかった話の下へ全部沈める必要はないはずだった。
もう一つ、音声ファイルがあった。
パン屋で許可を得て録った短い取材だった。
再生すると、自分の声が今より少し高かった。
『何時に帰るんですか』
『日によるよ。片づいたら』
そのあと、律の笑い声。
朔がパンを買いすぎたらしく、これだけ持ってどこを取材するつもりだとからかわれていた。
楽しかった。
今聞いても、そのことは分かった。
ファイルを閉じると、部屋が急に静かになった。
楽しかった日を覚えているからこそ、あのあと何があったかを知るのが怖い。
過去を全部駄目にされる気がしていた。
しかし、律から何かを聞けば、その前の笑い声まで消えるわけではない。
朔は取材のデータを別の場所へ複製した。
懐かしいものとして保管するためだった。
今度会ったときに、それを証拠のように出して、昔はよかったと言うためではなかった。
古い会話を遡る。
『父親、また入院した』
『大変だな。大丈夫?』
『まあ、慣れた』
『律はしっかりしてるからな』
その先に、二か月後のやり取りがあった。
『来週、少し来られる?』
『面接の結果待ち。冊子、締切延ばそう』
『そっか』
『律なら一人でも先に進められるだろ。原稿、落ち着いたら送る』
『分かった』
そのころの自分が本当に忙しかったことは覚えている。
採用の返事を待つ時間、親へ送る報告、朝までのアルバイト。
律の言葉を、制作の相談だと思った理由も分かる。
いつもそういう話をしていたから。
けれど、何を手伝ってほしいのかは、一度も聞いていなかった。
日付を確認する。
本音買取所に残されていた記録の、十二日前だった。
*
木曜日の夜、律から返信が来た。
『その店は知ってる』
朔は画面を見たまま、息を止めた。
少し間を置き、次の文が届いた。
『封筒のことも分かる。今週末、三十分なら話せる』
やっぱり、とも、まさか、とも思えなかった。
名前が決まる前は、誰かさえ分かれば先へ進めると思っていた。
分かったら、その人が三年前のままではないことが、急に現実になった。
『ありがとう。どこがいい?』
律は駅から二つ離れた喫茶店を指定した。
『日曜の十一時。仕事前だから、延びるのは難しい』
『分かった』
朔は三十分という時間を予定表に入れた。
その枠の後ろへ、勝手に空白を足さなかった。
翌日、灯子に会うと、朔は律から返事があったことを伝えた。
「お会いになるんですね」
「はい」
「封筒を残した方が、現在どうしているかは、記録にはありません。昔の文だけで決めつけないように」
朔はうなずいた。
灯子が自分に何か教えてくれるたび、それを守れば失敗しない気がした。
今度の面会にも、正解の台本が欲しかった。
「最初に何て言えばいいですか」
灯子は、すぐには答えなかった。
「榎本さんは、何を言いたいですか」
「気づかなくて、ごめんって」
「そう言いたいなら、それを」
「それだけじゃ」
「それだけで済ませたいのか、そこから聞きたいのかは、相手にも伝わると思います」
朔は膝の上の手を見た。
済ませたかったのかもしれない。
罪悪感を終わらせるために、謝罪という形を探していたのかもしれない。
店を出る直前、灯子が一枚の紙を渡した。
朔が作った説明札の印刷見本だった。
角が少しずれていたが、文字は読みやすかった。
「これで使わせていただきます。お仕事は、いったん終了です」
報酬の封筒も渡された。
朔は受け取り、何か追加の仕事はないかと聞きそうになった。
代わりに、礼を言った。
「ありがとうございました」
灯子も礼を言った。
互いに必要なことを頼み、終わった。それで関係まで消えるわけではないと、まだ自分に言い聞かせる必要があった。
日曜日までに、朔は『帰り道』の最初の見開きを一枚だけ印刷した。
懐かしんでもらうためではなかった。
自分が何を覚えていて、何を忘れていたのかを、確かめるためだった。
印刷した紙は、鞄へ入れず机に置いた。
律が今も描いているかどうかも、まだ知らない。
見せる前に、聞くことがある。




