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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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第8話 買い戻さない人

 男は、紙袋を両手で抱えて入ってきた。

 底が少し抜けそうな、古い百貨店の袋だった。

 朔は入口で靴を避けるために椅子を引いた。今日は客として来ていたので、灯子が確認すると、男は同席を気にしないと言った。

「話すことも、もうあまりありませんから」

 六十代くらいに見えた。額のところで髪が白く、コートのボタンを一つ掛け違えていた。


 袋から出てきたのは、小さな空き缶だった。

 中には、店の控えが入っていた。

「五年前のものです」

 灯子は番号を確かめ、引き出しを開けた。

 瓶の中身は、朔のものより薄く見えた。だから気持ちが弱いのだろうかと思いかけたが、何も分かるはずがなかった。

「返却をご希望ですか」

「それを、決めに来ました」

 男は缶を膝へ戻した。


 妻が亡くなった翌年、彼は来店したという。

 売ったのは、夕方になると二人分の食卓を用意してしまい、そのたびに帰ってこない人を待つ苦しさだった。

「皿が一枚だと、足りない気がしてね」

 男は自分の手を見ながら言った。

「二枚並べたら、今度は一枚余る。それが何か月も続いた」

 店に来たあと、一枚で食べられるようになった。

 妻を忘れたわけではない。好きだった料理も、よくなくしていた鍵の場所も覚えている。

 ただ、帰ってきてほしいと食卓へ向けて願う気持ちが、なくなった。


「娘が結婚するんです」

 男は缶から写真を出した。

 若い女性と、その隣の男性。二人とも普段着で、台所らしい場所に立っていた。

「先月、この人も連れて来てくれて。三人でご飯を食べた」

 男は写真を指で平らにした。

「終わってから、妻の席がなくても笑ったなと思ったんです」

 そこで初めて声が揺れた。

「それで、何か返さなくちゃいけない気がして」


 朔は、買い戻したほうがいいと思いかけた。

 失った気持ちを取り戻せば、その人を大切にしていた自分へ戻れる。

 けれど、目の前の男が妻を粗末にしているようには見えなかった。

 五年間、控えを缶に入れて持っていた。その手を見ていた。


「奥様を思い出したときに、どう感じたいですか」

 灯子が聞いた。

 男は長く考えた。

「今は、台所を使えるようになりました。あの人の鍋で、娘たちに煮物を作れた。それを、失くしたくない」

 小瓶を見つめる。

「でも、戻さないのは、薄情でしょうか」

 灯子は首を横に振った。

「こちらから、愛情の証明として返却をお勧めすることはありません」

 男は目を閉じた。

 店の時計が、一分進んだ。


「今日は、戻さずに帰ります」

 灯子は瓶を袋へ戻した。

 残念そうにも、安心したようにも見せなかった。

 男は写真をしまい、缶だけをもう一度開けて控えを確かめた。

「また迷ってもいいんですね」

「ええ」

 男は帰り際、掛け違えたボタンに気づき、笑って直した。

 朔は入口の椅子を引いた。


     *


 客が帰ったあと、朔は棚の引き出しを見た。

 そこにあるものは、全部取り戻すべき忘れ物ではなかった。

 なくして困っている人もいれば、預けたままで暮らしている人もいる。

 持ち主より先に、自分が結論を出すことはできない。


「戻さない人のほうが、多いんですか」

「人数で、榎本さんが決められますか」

「決められないです」

 自分でも可笑しくなって、朔は息を吐いた。

 数字があれば、正しいほうに並べると思っていた。


「お金は、どうして払うんですか」

 ずっと気になっていたことを聞いた。

 灯子はしばらく考え、レジの引き出しを閉めた。

「この店を引き継いだとき、持ち帰れるものを必ず渡すように教わりました。失くすだけの取引にしないため、と」

「売ったものは、誰かに売るんですか」

「いいえ。本音は、その方にしか戻せません。誰かが飲んでも移るようなものではありません」

「利益は?」

「昼間は紙の修復をしています。店の費用は、その収入と、前の店主が残した資金から。規模を広げるつもりはありません」

 普通の帳簿が、カウンターの下に見えた。

 不思議な店にも、毎月の家賃があるのだと思った。


「三千円って、俺の何を見て決めたんですか」

「今は原則として、一件につき三千円です。店で無理なくお渡しし、保管を続けられる額として決めています」

「本音の深さじゃない」

「測れませんから」

 朔は、自分が最初に安いと言ったことを思い出した。

 値段がつけば、苦しさの大きさを誰かに認めてもらえると思っていたのかもしれない。


 帰り道、律へ長いメッセージを書いた。

 不思議な店のことを説明し、自分宛ての記録を受け取ったことを伝えた。写真を送る前に迷い、文章だけにした。

『もし知っていたら、話せる範囲で教えてほしい。違ったら、変な話をしてごめん』

 送ってから、続きを足した。

『返事をしない選択もあると思ってる。でも俺は、知りたい』

 いい人らしく見せる一文だけでは、終わらせないことにした。

 自分は知りたかった。

 それが相手にとって負担になるかもしれないことも、もう知らないふりはできなかった。

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