第7話 助ける前に聞くこと
月曜日、菜月の机に赤い付箋が増えていた。
顧客から戻ってきた修正指示だった。文字を大きく、余白を広く、写真は変えず、全体は一ページに。
朔にも見覚えのある、同時には満たせない注文だった。
「それ、俺がやろうか」
声をかけると、菜月は画面を隠すように腕を動かした。
「大丈夫です」
「でも、今日中だろ」
「大丈夫です」
二回目は、少し硬かった。
朔は自席へ戻りかけ、足を止めた。
大丈夫と言われたとき、自分はいつも、それ以上を聞かないことを優しさだと思っていた。
今度は逆に、その言葉を信用しないことが優しさだと思いかけている。
「ごめん。全部代わるって意味じゃなくて、困ってるところあれば、一緒に見られる」
菜月はしばらく黙ってから、椅子を引いた。
「注文の優先順位、聞いていいんですかね」
「誰に?」
「滝沢さんです。全部やるのが仕事かと思って」
朔は修正指示を読んだ。
聞かずに何とかすることを、自分もずっと仕事だと思っていた。
「一緒に聞こうか」
「私から聞きます。どこを確認すればいいかだけ、見てもらえますか」
朔は隣にしゃがみ、矛盾する指示に印をつけた。
滝沢は五分ほど画面を見て、顧客へ電話をかけた。
結果、二ページに増やしてよいことになった。
菜月が息を吐いた。
「最初に聞けばよかった」
滝沢は「そういうときは早めに言って」と言い、次の打ち合わせへ向かった。
朔の胸に、じりっとしたものが残った。
自分は何度も、その一ページを夜までかかって作ってきた。
同じことを聞いてよかったのなら、今までの時間は何だったのか。
昼休み、菜月が礼を言いに来た。
「ありがとうございました」
「俺がやれば、もっと早かったと思うけど」
口にした途端、菜月の顔が曇った。
「あ、いや、そういう意味じゃ」
「自分でできるようになりたいので」
菜月はそう言って、紙コップを持ち直した。
「榎本さんに全部やってもらうと、次もまた聞くことになるから」
朔は言い直した。
「うん。余計なこと言った。ごめん」
菜月は少し迷ってから、うなずいた。
助けたのだから感じよく受け取ってほしい、という気持ちが、自分の中にあった。気づくのが遅かった。
*
その夜、店で説明札の最終確認をしていると、灯子が「受領の通知は送りました」と言った。
誰に、どこへ、とは聞かなかった。
聞きたいことがないわけではない。ただ、今日は別の話をしたかった。
「手伝ってほしいって言われてないのに、手伝うの、難しいですね」
「何かありましたか」
朔は会社の人の名前を出さず、昼の出来事を話した。
灯子は途中で解釈を挟まず、最後まで聞いた。
「俺、頼られるのが好きなんだと思います」
「好きであることは、悪くありません」
「断れないんじゃなくて、断ったら呼んでもらえなくなるのが嫌だったのかもしれない」
言うと、ひどくみっともなく感じた。
優しいから引き受けていた、という説明のほうが、ずっと楽だった。
灯子は机の脚に挟んだ紙を指した。
「その机、少しがたつきます。直せますか」
「見てみます」
しゃがむと、片脚のねじが緩んでいた。
朔は工具箱からドライバーを借りて締めた。
灯子は机を押し、礼を言った。
「ありがとうございます」
「これくらい」
「これくらいでも、私は助かりました」
朔はドライバーを返した。
「今、何か教えようとしました?」
「いいえ。単に、がたついて困っていました」
灯子が少し笑ったので、朔も笑った。
全部が意味のある出来事でなくてもよかった。
仕事が終わり、報酬の封筒を受け取った。
説明札は来週から使う。修正の仕事も、あと一回で終わる予定だった。
店に来る理由がなくなると思うと、朔は落ち着かなかった。
自分の瓶を戻すかどうかは、まだ決めていない。
誰が封筒を残したのかも分かっていない。
けれど、それを理由にいつまでもここで役に立とうとするのは、少し違う気がした。
「用事がなくても、来ていいですか」
聞いてから、子どものようだと思った。
「営業時間内なら。相談中はお待ちいただきます」
灯子は当たり前のこととして答えた。
帰宅すると、律から返信が来ていた。
『久しぶり。仕事中は返せないけど、メッセージなら』
朔はベッドに腰を下ろした。
質問を一度に送ってしまいたくなった。
あの店を知っているか。三年前、何があったか。俺のせいだったのか。
どれも、自分が早く安心するための質問に見えた。
『近いうち、会えないかな』
そこまで打って、前の文を見直した。
律は、メッセージなら、と言っていた。
朔は消した。
『ありがとう。長くなるかもしれないけど、急いで返事しなくていい』
続く文は、まだ書けなかった。
今度は相手が黙っているのではなく、自分が何を聞きたいのかを決められずにいた。




