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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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第6話 青いカップの向こう側

 千帆の新しい部屋は、駅から坂を七分ほど上ったところにあった。

 日曜日の夕方、朔は約束の十分前に着いた。スーパーの袋には苺が入っていた。何を買っていけばいいか迷って、昔、妹が好きだったものを選んだ。

「まだ洗い物してる。そこ座って」

 千帆はエプロンをつけたまま出迎えた。

 家具が入ると、引っ越しの日ほど声は響かなかった。床に小さな丸い机があり、その隣にクッションが二つ置かれていた。

「苺、ありがとう。あとで食べよ」

 千帆は袋を冷蔵庫へ入れた。

 昔と同じように喜んだかどうかを、朔は確かめようとしていた。

 人の反応を、答え合わせに使い始めている。


 夕食は鶏肉のトマト煮だった。

 千帆はスプーンで味を確かめ、少し塩を足した。

「辛いの平気だっけ」

「大丈夫」

「平気ってことね」

 妹は唐辛子を一本入れた。

 そのやり取りで、朔はようやく肩の力を抜いた。この言葉を口にすることすべてが悪いわけではない。辛いものは、実際に好きだった。


 食事の途中で、朔は三年前の話を持ち出した。

「俺、あのころ、あんまり実家に帰ってなかったよな」

「就活してたからね」

「困ってたこと、あった?」

 千帆のスプーンが止まった。

「急に何?」

「いや、聞いてなかったと思って」

「今さら?」

 声は強くなかった。それでも朔は答えに詰まった。

 千帆は水を飲んでから言った。

「お母さんの通院の付き添いとか、私も授業休めない日があった。言ったら来てくれたとは思うけど」

「何で言わなかったんだよ」

 言ってから、朔は口を閉じた。

 千帆の顔から、食事のときの柔らかさが消えた。


「お兄ちゃん、電話したら毎回、忙しいけど大丈夫って言うじゃん」

 千帆はスプーンを皿の端に置いた。

「今週何件応募したとか、バイト増やしたとか。それ聞いたあとで、私も困ってるって言うの、ちょっと難しかった」

「でも、言ってくれたら」

「言えなかった理由を聞いたんじゃないの?」

 朔は黙った。

 何で言わなかったのかという問いの形で、自分は知らなかったのだから仕方ない、と言おうとしていた。


「ごめん」

「うん」

 千帆はすぐに許すとも、怒っているとも言わなかった。

 鍋の中に残った鶏肉を、二つの皿へ分けた。


 封筒のことを聞くなら今だと思った。

 三年前、あの店に行ったか。

 けれど、その質問をした途端、今の話が誰の筆跡かを探るための聞き取りになる気がした。

 朔は鞄を開けなかった。


「今は、困ってることある?」

「カーテンレール、片方ぐらつく」

 予想していなかった返事だった。

 千帆は窓を指さした。

「自分でねじ締めたけど、よく分からなくて。管理会社に連絡する文、変じゃないか見てほしい」

 朔は立ち上がりかけた。

「直せるか見ようか」

「いや、勝手に触るとまずいかも。連絡の文でいい」

 朔は座り直した。

「分かった」

 千帆はスマートフォンを渡した。

 文章は分かりやすかった。部屋番号と写真を添えれば十分だった。

「これで伝わると思う」

「ありがとう」

 必要とされた量が、自分の想像より少なくても、失敗ではなかった。


     *


 管理会社への連絡を送ったあと、千帆は机の端に積んでいた冊子を片づけた。

 仕事に関係する講座の案内だった。

「勉強するの?」

「夜の講座。通勤が短くなったから、行けるかなって」

 朔は案内を一枚見せてもらった。

 資格の名前も、どういう仕事につながるかも、よく知らなかった。

 千帆は説明しながら、まだ申し込むか迷っていると言った。

「向いてなかったら、お金もったいないし」

「お前なら大丈夫だろ」

 いつもの言葉が出た。

 千帆は笑ったが、案内を持つ手は止まらなかった。


 朔は言い直した。

「何が不安?」

「授業についていけるか。あと、仕事終わりに毎週通えるか」

 説明が始まると、朔が想像していたより具体的だった。

 最初の一か月だけ見学できる。

 オンラインの振替はない。

 課題は家でも進められるが、提出が重なる週がある。

 千帆は既にいろいろ調べていた。

 兄に進路を決めてほしいのではなく、迷っている状態を誰かに話したかったのだ。


「通うなら、たまに夕飯だけ食べに来て。講座の前に一人で作るの面倒な日とか」

 朔が言うと、千帆は頷いた。

「それは助かる。でも、毎週作って待たないでね」

「分かった」

 二人で笑った。

 助ける申し出にも、勝手に毎週へ増やさない余地が必要だった。


 朔は、妹が何を勉強したいかを知らずにいたことを思った。

 困り事を探してばかりでは、そういう話を聞き逃す。

 誰かを知ることは、痛いところを探し当てることだけではない。

 千帆は講座の見本を開き、面白そうだった演習の話をした。

 朔は分からない単語を二つ聞き返した。

 それだけで、食事のあとの時間が少し長くなった。


 食後、青いカップにコーヒーが注がれた。

「それ、いつ買ったんだっけ」

 朔が聞くと、千帆は笑った。

「律さんがくれたやつだよ」

「律が?」

「覚えてないの。お兄ちゃんの部屋で、引っ越し祝いみたいなことしたとき」

 朔はカップを見た。底のほうに、白い線で小さな舟が描いてあった。

 赤いカップと二つ、包装されていた記憶が戻った。

「青を私が使って、気に入ったから持って帰っていいって」

 卒業したばかりの春だった。

 律は台所で紙皿を洗おうとして、紙だからと止められていた。

 朔はその場面を思い出し、少し笑った。


「最近、連絡してる?」

「俺は、全然」

「私も直接はしてないけど。この前、商店街の印刷イベントの写真に写ってた」

 千帆は告知の画像を探した。

 小さな本を並べる即売会。会場設営の写真の端に、律がいた。

 以前より髪が短く、紺色の作業着を着ている。

「まだ絵、描いてるんだ」

 朔が言うと、千帆は画面を見直した。

「出展者かどうかは分からないよ」

 そうだった。

 写真に写っていることと、昔と同じように生きていることは違う。


 帰り際、千帆が苺の残りを小さな容器に入れた。

「また、何もなくても来て」

「うん」

「手伝いがなくてもって意味ね」

 朔は容器を受け取った。

 助ける用事がなくても、自分を呼ぶ人がいる。

 そういうことを、ずっと忘れていたのかもしれなかった。


 駅までの坂を下りながら、律との会話を開いた。

 いきなり、あの手紙はお前か、と送ることはできなかった。

『久しぶり。少し話したいことがある。今、連絡しても大丈夫?』

 大丈夫、という文字を見て一度消しかけ、残した。

 今度は、自分が答えを決める言葉ではなかった。

 送信すると、夜の坂道が急に長くなった。

 返信は、その夜には来なかった。

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