第5話 三年前の宛名
免許証の写真は、今より少しだけ髪が長かった。
灯子は氏名と生年月日を確かめると、すぐに返した。
「お預かりしている記録に、一致しています」
仕事の書類に署名したあと、朔は白い封筒を渡された。
榎本朔様。
その五文字は印刷されていた。差出人の欄はなかった。
「これは、何ですか」
「お客様から預かった、閲覧の許可がある記録です。同姓同名の方に渡さないよう、生年月日も残してありました」
「誰が」
「お名前はお伝えしない、という条件です」
灯子は台帳を閉じたままだった。
「受け取らないこともできます」
朔は封筒の端を指で挟んだ。
紙は少し黄ばんでいた。封をした糊のところだけが固い。
「いつから、ここに?」
「三年前です」
朔は二十一歳だったころを思い返した。
専門学校を出て、アルバイトをつなぎながら仕事を探していた。千帆はまだ実家にいた。いくつかの名前が浮かんでは消えた。
「どうして俺が来るって分かったんです」
「分かっていません。おいでになったら、という依頼でした。店から探したり、連絡したりすることはありません」
「じゃあ、来なかったら」
「お渡ししないままでした」
灯子は、都合のいい答えを用意していなかった。
朔は封を切った。
中にあったのは、薄い紙が一枚。
上の部分に、受付番号と年月日が印刷されていた。
その下に、手書きの一文。
『あの人にだけは、助けてと言いたかった。』
さらに下に、小さく宛先があった。
『あの人――榎本朔』
朔はしばらく、文字を読めなくなった。
人の本音を売る店があることを、ひと月前の自分は知らなかった。
それなのに三年前、自分の名前をここに残した人がいる。
自分に、助けてほしかった人が。
「これが、瓶の中の」
「売却前に、ご本人が別紙へ書き写されたものです。売った本音そのものを、お渡しすることはできません」
「読んでも、その人の気持ちが入ってくるわけじゃない」
「はい。これは普通の紙です」
普通の紙。
朔は、もう一度文を読んだ。短い言葉が、指に重かった。
封筒には、もう一行、鉛筆で書かれていた。
『返事は、いりません。』
筆圧が弱く、光の角度でやっと読めた。
「返事がいらないなら、何で残したんですか」
「そこは、ご本人にしか分かりません」
「あなたは知ってるんですよね。誰か」
灯子は黙ってうなずいた。
「教えてください」
「許可を受けていません」
「俺の名前が書いてあるんですよ」
自分の声が店の奥へ響いた。
灯子は封筒を取り返さず、朔の前に水を置いた。
「榎本さんの名前があることと、書いた方の情報をすべてお渡ししていいことは、別です」
朔は椅子の背に体を戻した。
灯子が正しいかどうかを考えるより先に、知っているのに言わない人が目の前にいることへ腹が立った。
紙をもらう前にはなかった、まったく新しい怒りだった。
「ご本人に、俺が受け取ったと伝えることは?」
「受領の通知をしてよいという同意はあります。連絡がつくかは分かりませんが」
「お願いします」
灯子はそこで初めて、台帳を開いた。朔の側からは見えない角度だった。
*
灯子が受領通知を用意する間、朔は記録の日付を指でなぞった。
店へ来ることを予想していたわけではない。
それなら、何のために生年月日まで残したのだろう。
自分がいつかこの場所へ来るほど困ると、相手は考えていたのか。
あるいは、来なければ届かないやり方を、わざと選んだのか。
「これを渡す仕組みは、普通にあるんですか」
朔は聞いた。
「ご希望があれば、条件を確認してお預かりします。ただし、受け取る方を探すことはしません。連絡を断られた相手へ、店を使って届けることもできません」
「誰かに読ませたい人は、多いんですか」
「多くはありません。誰にも読まれないほうがよいという方もいます」
灯子は、相手が分からないのがつらければ封筒を一時的に店へ戻すこともできると言った。
朔は首を横に振った。
知ってしまった以上、紙だけ預けても忘れられない。
それに、返事はいらないと書いた人が、自分をどれほど知っていたのか、もう確かめたくなっていた。
紙を光に透かすと、少しだけ筆圧の跡が見えた。
書き直した形跡はない。
勢いよく書いたのか、何度も考えてから書いたのか。
朔には判断できなかった。
手紙を持っていれば、相手の心まで読めるような気がしていたことに気づいた。
自分が知っているのは、この文字だけだ。
その前に何があり、そのあとにどう変わったかは、まだ何も知らなかった。
灯子が机へ戻った。
「受け取られたことだけお知らせします。お返事を求める内容にはしません」
「お願いします」
朔は封筒を閉じた。
見えなくなった一文を、頭の中では繰り返し読んでいた。
その日は作業にならなかった。
灯子にそう言うと、仕事は次回に回った。休んだ時間の給料は出ない。それだけだった。
朔は封筒を鞄に入れ、駅前のベンチに座った。
三年前のその日付を、写真の一覧で探す。
商店街のアーケード。食べかけのカレー。学校の友人と撮った、ピントの合わない集合写真。
その端で、細身の青年が片手を上げていた。
朝倉律。
同じ専門学校で、イラストを学んでいた。
卒業後、小さな冊子を二人で作ろうと言っていた相手だった。
連絡先は残っている。
最後の会話は、二年半前。
『久しぶり。展示とかしてる?』
『最近はしてない』
『また何かやろう』
『うん』
それきりだった。
朔は律の名前を見つめた。
あいつは、いつも一人で決められる人だった。絵も上手かった。朔が困ったときには、空いている机を半分貸してくれた。
助けを求める側ではなく、助けてくれる側。
そう分類してから、一度も考え直していなかった。
別の写真を開くと、千帆が制服姿で笑っていた。
実家の台所だった。母から頼まれた用事を、千帆が代わりにやってくれていた時期でもある。
妹かもしれない。
前のアルバイト先の人かもしれない。
誰にだって、見落としたことがありそうだった。
画面を閉じたあと、朔は封筒をもう一度出した。
返事はいりません。
その一行が、宛名よりも遠く感じられた。
誰なのか分かったら、謝ればいい。
会って話せば、元に戻れる。
そう考えたところで、店で言われた言葉を思い出した。
戻るのは、売ったときの気持ちだけ。
相手との関係が直るわけではない。
あの人はもう、自分に助けてほしいとは思っていないのかもしれなかった。
朔は、誰もいない隣の席に封筒を置くことができず、鞄のいちばん奥へしまった。




