第10話 三十分の再会
律は、約束の七分前に店へ来た。
朔が入口に目を向けると、律は軽く手を上げた。写真で見た紺色の作業着ではなく、生成りのシャツを着ていた。左の袖口に、薄い青の染みがあった。
「早いな」
「そっちも」
二人とも笑ったが、それだけだった。
律はコーヒーを頼み、椅子の横に鞄を置いた。
昔は、いつも机の上に鉛筆や紙を広げていた。今日は何も出さない。
朔は時計を見た。
十一時まで、まだ四分ある。
時間前だから本題に入ってはいけないような気がして、水を飲んだ。
「封筒、持ってる?」
律のほうから言った。
朔は鞄から出し、テーブルへ置いた。
律は触れずに、宛名を見た。
「懐かしい紙だ」
「お前が書いたの?」
「うん」
短い返事だった。
それで、何週間も頭の中にあった問いが終わった。
終わったのに、楽にはならなかった。
「三年前、父さんが入院したころ?」
「退院のあと。前の病院じゃ続けて診られないって言われて、転院先を探してた」
「知らなかった」
「入院したことは言った」
「うん」
朔は謝ろうとしたが、律が続けた。
「責めるつもりで呼んだんじゃない。事実を、ちゃんと分けたい」
コーヒーが運ばれてきた。
律は店員に礼を言い、砂糖を入れなかった。以前は二袋入れていた。
朔の知らない変化が、目の前の小さな場所にあった。
「父さん、今は」
「施設にいる。週に一回会いに行く」
「そっか」
「当時は、手続きも何も分からなかった。役所の窓口で聞かれたこと、家へ帰ると半分忘れてた」
律はカップを持ったが、飲まずに戻した。
「朔に、来週来られるか聞いたの、覚えてる?」
「見返した。冊子のことだと思ってた」
「だろうなと思った」
その言い方には怒りがなかった。だから朔は、余計に続きを聞くのが怖かった。
「俺も、はっきり言わなかった。書類を一緒に読んでほしい、半日いてほしいって言えばよかった」
律は窓の外を見た。
「でも、お前が大変なのも知ってた。面接が駄目だった日、夜中に電話しただろ」
朔は覚えていた。
律はコンビニの前で、二時間話を聞いてくれた。
「ああいうこと、俺は頼めなかった。しっかりしてるとか、一人でもできるとか言われると、その通りにしないといけない気がして」
朔は口の中が乾くのを感じた。
褒めているつもりだった。
信頼を伝えているつもりだった。
自分の「大丈夫」が作っていた壁を、律の周りにも積んでいた。
律は、当時いちばん困った日のことを話した。
転院先の見学と、勤務先の面談が同じ日に重なった。
移動の間に書類へ記入しようとしたが、必要な数字が分からない。
父に電話しても話が噛み合わず、役所へかけ直すころには窓口が閉まっていた。
家に帰ると、洗濯機の中に朝の洗濯物が残っていた。
律はそれを見て、急に台所へ座り込んだという。
「大きい事件が起きたわけじゃないんだ。全部、一個ずつならできることだった」
律はスプーンを皿へ戻した。
「でも、次に何をするか決めるところから、全部自分だった」
朔はその言葉を聞いて、夜中の事務所を思い出した。
仕事の中身より、止めていいかを決めることに疲れる日がある。
ただ、同じだと言うことはできなかった。
自分の経験で埋めずに、律の続きを聞いた。
「その日、欲しかったのは何だった?」
「人。隣にいて、俺が同じところ読んでたら、そこさっきも読んだって言う人」
律は少し笑った。
「書類に詳しい人ならもっと助かったかもしれないけど、専門家を友達に求めてたわけじゃない」
朔は、自分には無理なことを頼まれると思って逃げた日を思い出した。
引き受けられないと決める前に、何なのかを聞けた。
全部できないなら、少しできることを伝えられた。
あとからなら、いくらでも言えた。
「その後、誰に頼んだの」
「職場の人が、手続きの問い合わせ先を一緒に整理してくれた。父さんの病院でも、相談できる人をつないでもらった」
「よかった」
「うん。よかった」
律はその言葉だけは、はっきり繰り返した。
朔が来なかったせいで、人生がそこで止まったのではない。
助かった日も、その先にはあった。
「気づかなくて、ごめん」
律はすぐには答えなかった。
「うん」
「俺が、あのとき」
「今、続きを言うなら、少し待って」
律は片手を上げた。
「何でもする、とかは、言わないでほしい」
朔は口を閉じた。
まさに、その言葉を言おうとしていた。
「店に行ったのは、そのあと。たまたま前を通った。気持ちを売ったら、朔に分かってほしいと思わなくなった」
「俺のこと、嫌いになった?」
「違う。でも、頼る候補から外れた」
それは嫌われるより静かな言葉だった。
朔はカップの取っ手を握り直した。
「そのあと、別の人に頼めた。父さんの担当の人とか、職場の人とか。全部一人でやらなくてもよくなった」
朔が知らない間に、律は自分のいない生活を作っていた。
その事実にほっとするより先に、寂しさが来た。
それが身勝手だと分かるので、何も言えなかった。
「何で手紙を残したんだ」
ようやく聞いた。
「売る前だったから」
律は封筒を見た。
「まだ、分かってほしかったんだと思う。でも、直接送って返事が来ないのは怖かった。だから、来るかどうかも分からない店に置いた」
「返事はいらないって」
「そう書けば、待たなくていい気がした」
律は少し笑った。
自分を笑うような顔だった。
「ずるい置き方だったよな。今のお前に、急に渡るなんて」
「そんなこと」
「俺のしたことも、何でも正しかったわけじゃないんだよ」
朔は、彼を傷つけられた人の役に閉じ込めようとしていたことに気づいた。
律にも、迷って選んだやり方があった。
時計は十一時二十三分だった。
朔には、聞きたいことがまだいくつもあった。
「買い戻すことは、考えた?」
律はカップを置いた。
「今は考えてない」
「でも、戻したら」
「朔」
名前を呼ぶ声が、初めて硬くなった。
「今日は、説明しに来た」
朔は頷いた。
律が何のためにここにいるかを、自分の都合で変えかけていた。
十一時二十九分に、律が立った。
会計は別々だった。朔が払うと言う前に、律は自分の伝票を取った。
「来てくれて、ありがとう」
店の外で朔が言うと、律は少し考えた。
「話せてよかったとは思う」
許したとも、また昔に戻ろうとも言わなかった。
「仕事、何してる?」
「小さい製本所。印刷のあとをやるほう」
「絵は」
「たまに」
信号が青になった。
律は片手を上げ、向こう側へ渡った。
朔は追いかけなかった。
たった三十分で聞いたことを、自分の望む形に直さずに持ち帰るには、それ以上の時間が必要だった。




