第11話 店主の返事
灯子は、薄い和紙を一枚ずつ重ねていた。
平日の午後に店を訪ねるのは初めてだった。入口の黒板は裏返され、代わりに『紙の修復 ご予約の方』という札が出ている。
朔は休暇を取った。律に会った翌日、出勤はしたが、画面の文字が頭に入らなかった。
灯子には事前に連絡し、昼休みの三十分だけ話せると言われていた。
「売らないほうがよかったんじゃないかって、思ってしまうんです」
律との面会を話し終えてから、朔は言った。
「誰が、ですか」
「律が」
言ってから、自分の答えに驚いた。
自分の本音のことより、律が買い戻さないことを気にしていた。
「戻してほしいのは、どうしてでしょう」
「また、頼ってほしいから」
声にすると、願いの形がはっきりした。
律に傷ついていてほしいわけではない。
けれど、自分を必要としないままで平気になってほしくもなかった。
朔は両手で顔を覆った。
「最低ですね」
「そう決めると、そこで考えるのが終わってしまいます」
灯子の言葉は慰めではなかった。
朔は顔から手を離した。
カウンターの奥に、角の欠けた写真立てがあった。
子どもが二人、川沿いに座っている。片方の子が、もう片方の靴ひもを結んでいた。
「妹さんですか」
「姉です。私が結んでもらっているほう」
灯子は写真立てを手前に向けた。
「昔、姉の結婚式に行きませんでした」
朔は顔を上げた。
「喧嘩をしていたんです。私は親の世話をしていて、姉が遠くへ行くことを、逃げるように感じていた。姉には姉の事情がありました」
灯子は和紙に落ちた小さな糸くずを払った。
「来てほしいと言われて、行かないと返した。あとから後悔して、謝りたいのに言えなくなりました」
「それを、売った?」
「はい。この店の、前の店主に」
朔は知らず、声を落とした。
灯子が最初から本音を扱える人だったわけではないのだ。
「そのあと、姉のほうから電話がありました。何度か会って、今は時々連絡しています」
「買い戻したんですか」
「まだです」
朔は、答えを予想できなかった。
「謝ってはいるんです。当時のことを覚えていますから。ただ、あのときの後悔を戻すかどうかは、ずっと別の問題として残っています」
「怖いんですか」
「怖いです」
灯子はあっさり認めた。
「戻さない自分が、店主でいてよいのかと思うこともあります」
朔は何か励まそうとして、やめた。
この人にも、こちらが解決しなくていい迷いがある。
「返却を勧めないのは、そのせいですか」
「それだけではありません。でも、私の経験が判断に混じることはあります。ですから手順を作って、読み返しています」
灯子は朔が作った説明札を指した。
自分の気持ちだけで決めないために、あの紙があった。
*
話している間に、作業室の電話が鳴った。
灯子は相手の名前を確認し、朔へ断ってから出た。
修復を依頼している客らしかった。
納期の話が続き、灯子の声が少し低くなった。
「それは、こちらの伝え方が足りませんでした。予定を確認して、本日中に折り返します」
電話を切ると、灯子は帳面の一か所へ線を引いた。
「失敗ですか」
朔が聞いてから、失礼だったと思った。
灯子は苦笑した。
「紙の状態を見てから日程を確定すると伝えたつもりでしたが、仮の日付を納期だと思われていたようです。確認の文を出していませんでした」
「直せそうですか」
「追加の傷みがあるので、今の日程では無理です」
灯子はカレンダーを見た。
朔は、今ここに自分がいるせいで時間を奪っているのではないかと思った。
席を立ちかけると、灯子が首を振った。
「ご予約の時間は、まだあります。そちらとこちらは別です」
言い方は落ち着いていたが、眉の間には小さな皺が残っていた。
この人も、仕事のやり取りを間違える。
いつも正しく相手の希望を読めるわけではない。
朔はそれを見て、少し安心し、少し心細くなった。
ここへ来れば、自分の代わりに全部見通す人がいると思っていた。
実際には、一緒に確かめる人がいるだけだった。
灯子は机の上の紙を一枚裏返した。
朔には、客の情報が見えないようにするためだと分かった。
そういう小さな動作も、彼女が毎回選んでいるものだった。
自然にできる完璧な人だからではない。
気づいたときに、直している。
朔は残りの時間を確かめ、いちばん聞きたいことを選んだ。
帰り際、朔はもう一つ聞いた。
「律と話して、つらかったんです。俺、苦しさを売ったのに」
「今回感じたものは、今回のものです」
「新しく、助けてほしいと思ったら?」
「それは、榎本さんが今感じた本音です。過去を売っても、この先の気持ちまで封じることはできません」
朔は、自分の胸に触れた。
律に必要とされたいという寂しさ。
千帆の食事を断ったと気づいたときの後悔。
自分が変わる余地は、なくなっていなかった。
「じゃあ、買い戻さなくても、やり直せますか」
「何をやり直すかによります」
灯子は曖昧に逃げたのではなかった。
「新しく約束をすることはできます。売った本音を、初めからなかったことにしないで引き受けたいなら、返却を選ぶこともできます。そのどちらも、ご本人が決めることです」
朔は時計を見た。
三十分が過ぎようとしていた。
灯子の机には、修復を待つ本が三冊あった。
「ありがとうございました。仕事、戻ってください」
言って立つと、灯子も頭を下げた。
朔は初めて、話を聞いてくれる人の時間にも終わりがあることを、寂しいだけでなくありがたいと思えた。
家に戻ると、熱を出した夜に使ったコップを棚から出した。
半分だけ水を入れ、床に座る。
あの夜と同じことをしても、あの気持ちは戻らなかった。
演じ直して取り戻せるものではないのだ。
財布の奥に、返却用の三千円が入っている。
朔はそれを出し、テーブルへ並べた。
律に頼られるために、自分を元へ戻すのではない。
千帆にいい兄だと思われるためでもない。
ひとりで水を飲んでいた自分を、仕方なかったと片づけないためなら。
まだ、怖かった。
怖いままでも選べるのかを、初めて考えた。




