第12話 三千円を返す日
瓶は、最初に見たときより小さく感じられた。
灯子は白い布をカウンターへ敷き、その上に置いた。朔は三千円と控えを並べた。
「今日は、買い戻したいです」
言い切ると、声が少し上ずった。
「戻るのは、売ったときの苦しさと、伝えたかった気持ちです。今の暮らしがよくなる保証はありません」
「分かっています」
「理由を、話せる範囲で」
朔は用意していた言葉を思い返した。
昨日の夜、ノートに何度も書いた。きれいに整えすぎると、本当の理由から離れる気がした。
「寂しかった自分を、いなかったことにしたくないんです」
言ってから、もう一つ足した。
「でも、楽なままでいたい気持ちもあります」
「両方あって、構いません」
灯子は控えの番号を読んだ。瓶の底と台帳を照合する。
返却の確認書には、他人の希望ではなく自分で決めたことと、返却後に同じ本音をその場ですぐ再売却することはできない旨が書かれていた。
気持ちが大きく揺れた状態で取引を重ねないためだという。
朔は一行ずつ読み、署名した。
「苦しくなったら、手を上げてください。途中で栓を戻せる間は止めます。全部戻ったあとは、ここで休んでいただけます」
灯子は窓を少し開けた。
近くの店で揚げ物をしている匂いがした。
何か特別な儀式が始まるのではない。外では夕食を買う人が歩いている。
栓が抜かれた。
黒い糸が、瓶の口から細く上がった。
紙から消えたときとは逆に、今度は朔の右手へ向かって流れた。指先に触れた瞬間、熱を出した夜の暗さが、目の奥へ広がった。
冷蔵庫の音。
台所までの短い距離。
水をこぼした床を、朝まで拭けなかったこと。
誰かの名前を出しては閉じた画面。
翌日、妹に平気だと答えたあと、通話が切れるのを待っていた時間。
記憶は、もともとあった。
戻ったのは、その中で自分がどれほど誰かを待っていたかだった。
喉が狭くなった。
朔はテーブルの縁を握った。
「……来てほしかった」
声が漏れた。
灯子は返事をしなかった。代わりに、椅子を少し近づけた。
「誰でもよかったわけじゃ、なかったんです」
千帆に、友人に、知っている声に来てほしかった。
迷惑をかけたくないと言いながら、何も言わずに気づいてくれることを待っていた。
その願いは恥ずかしく、なくす前より重かった。
気づくと、瓶は空になっていた。
朔は泣いていた。
声を出さずに済ませようとして、肩に力が入った。
灯子がティッシュを置いた。
「ここでは、急いで止めなくて大丈夫です」
その言葉に腹が立つくらい、涙は止まらなかった。
戻ってよかった、とはすぐには思えなかった。
*
四十分ほど経ってから、朔は水を飲んだ。
頭が痛かった。目の下も熱かった。
「思ってたより、しんどいですね」
「そうですね」
「いいことをした感じが、しない」
灯子はうなずいた。
決断を褒められなかったことが、今はありがたかった。
空の瓶は、店で洗って再び使うという。
朔は持ち帰りたいかと聞かれ、首を振った。
記念品にするには、まだ近すぎた。
代わりに、返却済みの印がついた控えを財布へしまった。
「帰れそうですか」
「もう少し、座っててもいいですか」
「はい」
それを頼むだけで、胸が詰まった。
灯子は奥で帳簿を書き始めた。
朔が落ち着くまで、ずっと顔を見ていることはしなかった。
誰かが同じ部屋で別のことをしている。その距離が、ちょうどよかった。
休んでいる間、店の扉が一度開いた。
予約を確かめに来た人が、灯子と短く話して帰った。
朔は泣いた顔を見られたくなくて、窓のほうを向いた。
その人は、こちらを覗き込まなかった。
自分が大きく変わったように感じている日にも、他の人は自分の用事をしに来る。
それが寂しいより、今は助かった。
机の上には、朔が作った説明札があった。
返却の条件をまとめた、自分の文字。
読めるように整えたときには、説明の意味が分かったつもりだった。
実際に気持ちが戻ったあとで読むと、短い文の中に書かれていないことが多かった。
どれくらい泣くのか。
戻した直後に、よかったと思えない自分をどう扱うのか。
そんなことまで全部説明札へ書けば、また誰も読めない紙になるだろう。
「返したあと、後悔する人がいるって言ってましたね」
「はい」
「今、ちょっと分かります」
灯子は頷いた。
「今日、買い戻したことを好きにならなくても構いません」
朔は顔を拭いた。
その言葉をもらっても、怖さが消えるわけではない。
それでも、今の自分の感想を訂正しなくてよくなった。
財布を開くと、三千円を入れていた場所が空いていた。
返す前には、支払いが済めば終わるような気がしていた。
けれど受け取ったものは、今日の夜にも、明日の朝にも残る。
持って帰って暮らすことを、自分で選んだ。
朔は返却済みの控えを、その空いた場所へ入れた。
灯子に水をもう一杯頼んだ。
今度は言う前に、これくらい自分でできるのにとは思わなかった。
立てるようになれば、自分で取りに行けばよい。
今日は、座ったまま頼んだ。
渡されたコップを両手で持つと、指先の震えが少し落ち着いていた。
店を出るころには、外は暗くなっていた。
朔は駅前で、千帆へ電話をかけた。
五回鳴って、つながった。
「どうしたの」
「今、五分くらい話せる?」
「五分なら。あとでお風呂入る」
朔は駅の柱の横へ立った。
通り過ぎる人が多く、少し場所を移した。
「熱出したとき、ほんとは来てほしかった」
電話の向こうが静かになった。
「うん」
「言わなかったのに、気づいてくれないかなって思ってた。お前が分からなかったせいじゃない」
千帆は、小さく息をついた。
「次は、買ってきてほしいもの送って」
「来られなかったら?」
「来られないって言う。配達頼むとか、一緒に考える」
朔はうなずいた。
電話だから見えないと気づき、声で返した。
「分かった」
五分になる前に、自分から切った。
もっと話したかった。今夜ずっと誰かの声を聞いていたかった。
それでも、千帆の風呂の時間を自分の寂しさで埋めなくてよかった。
家に着くと、部屋は昨日と同じだった。
洗濯物が椅子にかかり、台所には皿が一枚残っている。
朔は上着を脱ぎ、電気をつけた。
ひとりの部屋へ戻ってきた。
今日は、そのことを寂しいと思えた。
思えたからこそ、明日誰と話したいのかを、自分で選ばなければならなかった。




