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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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13/24

第13話 新しい番号

 律から、写真が一枚届いた。

 父親の退院のときのものではなかった。

 町の古い銭湯の煙突が、夕空に細く伸びていた。

『これ、帰り道の候補にしてた場所、覚えてる?』

 朔は椅子から背を起こした。

『覚えてる。裏の道が曲がってるところ』

『そう。解体が決まったんだって』

 その先はなかった。


 朔はすぐに、見に行こうと打った。

 送信する前に一度読み返した。

 律は情報を送っただけかもしれない。

 それでも、自分が一緒に行きたいなら、聞くことまではしてよかった。

『残ってるうちに見に行きたい。もし都合合えば、一緒にどう?』

 返事は翌昼だった。

『再来週の土曜、四時から一時間なら』

 朔は予定表に入れた。

 いつの間にか、律と会う約束が二つ目になっていた。


     *


 銭湯は、もう営業していなかった。

 曇ったガラス戸に閉店のお知らせが貼られ、暖簾をかける棒だけが残っていた。

 律は小さなスケッチ帳を持ってきた。

「描いてもいい?」

「もちろん」

 朔は少し離れて立った。

 昔なら、肩越しに覗き込み、あれも入れたらと口を出していただろう。

 今日は、律が何を見ているかを先に見た。

 煙突より、靴箱の端や、入口のタイルに時間をかけている。


「仕事、製本って言ってたよな」

「うん。断裁したり、折ったり、針金で留めたり」

「手、切らない?」

「最初はよく。今も油断すると」

 律は左手の小さな絆創膏を見せた。

 朔も、今の印刷会社のことを話した。

 互いに紙を扱っているのに、使う機械も時間の流れも違っていた。

 律は朝が早く、朔は夜が遅かった。


 律が線を引いている間、朔は道の向こうの駄菓子屋を見た。

 学生のころは看板があったはずだが、今は窓に別の店の案内が貼られている。

「ここ、変わったな」

 声をかけると、律は少し顔を上げた。

「二年前に閉めた」

「知ってたんだ」

「この辺、仕事で通るから」

 自分にとって止まっていた町が、律の生活の中では変わり続けていた。

 懐かしさを二人で同じだけ持っていると思っていたことに、朔は気づいた。


 通りの端から、小学生くらいの子が自転車を押してきた。

 銭湯の絵を覗き、何をしているのかと律に聞いた。

「なくなる前に、描いてる」

「写真じゃ駄目なの?」

「写真でもいいけど、今日は描きたいから」

 子どもは納得したのかしていないのか分からない顔で、線の増えるところを見た。

 律は得意そうに説明せず、鉛筆を動かした。

 少しして、子どもは手を振って去った。


「昔から、そういう答え方するよな」

 朔が言った。

「どういう」

「ちゃんとした理由をつけないところ」

「あるけど、今はそれだけでいいかなって」

 律は鉛筆を削った。

 削りかすを小さな袋に入れる動作が、慣れていた。

 朔は自分も取材のメモを持ってくればよかったと思ったが、今日はただ見るために来たのだと思い直した。

 作品を持ち帰れなくても、一時間を無駄にしたことにはならない。


 銭湯の脇から、老夫婦が出てきた。

 建物の持ち主だった。

 律が絵を描いてよいか改めて尋ねると、二人は並んでスケッチ帳を見た。

「煙突じゃなくて、そこ?」

 妻がタイルを指した。

「毎日踏んでたところなので」

 律が答えた。

 夫は少し笑い、そこは一度張り替えたのだと言った。

 その年の雪で客が転び、滑りにくいものに変えた。色が揃わなかったので、端だけ違う。

 朔は話を聞きながら、覚えておこうとした。

 スマートフォンを出しかけ、許可を聞いてからメモを取った。


 帰り際、妻が二人に缶のお茶をくれた。

「残してくれるなら、嬉しいわ」

 律は、その場で冊子を作るとは約束しなかった。

「今日は、自分の記録に描いています」

「そうなの。見せてもらえてよかった」

 妻は笑った。

 朔は、その返事にもほっとした。

 喜ばれたら、その期待を全部引き受けなければならないわけではなかった。


 五時前、律が時計を見た。

「そろそろ」

「うん」

 朔は少し迷い、自分の瓶を買い戻したことを伝えた。

 律は缶を持ったまま、立ち止まった。

「そう」

「しんどかった。でも、自分で決めた」

「なら、よかった」

 それ以上は聞かれなかった。

 朔の中に、拍子抜けと寂しさが同時に生まれた。

 もっと関心を持ってほしかった。自分が何かを乗り越えたと、認めてほしかった。

 その期待を、律の返却の話につなげるのは違うと分かっていた。


「お前のことを、戻すためじゃないから」

 言う必要のない補足だった。

 律は朔を見た。

「うん。俺はまだ、戻すつもりない」

「分かってる」

 本当に分かっているか、自信はなかった。


     *


 週明け、律からタイルの絵が送られてきた。

 鉛筆の線の上に、薄い水彩が乗っていた。欠けた角まで丁寧に描かれている。

『文章、一段落だけ書いてみる? 公開とかは決めずに』

 朔は画面を何度も読んだ。

 昔の冊子を再開しよう、という誘いではなかった。

 今の一枚に、今の文章をつけてみないかという話だった。


 朔は銭湯で聞いたことを、二百字にまとめた。

 送ると、律から修正の依頼が来た。

『最後の、思い出は消えないってところ、なくてもいい気がする』

 朔はその一文を見た。

 綺麗に締めようとして足した、取材にはなかった言葉だった。

 消してみると、張り替えられたタイルだけが残った。

『確かに。こっちでどう?』

『いいと思う』

 短い返信だった。

 それだけで、朔はしばらく画面を閉じられなかった。


 保存するとき、古いフォルダを上書きしかけた。

 やめて、新しいフォルダを作った。

『帰り道_新稿』

 古いフォルダは、その隣に残した。

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