第13話 新しい番号
律から、写真が一枚届いた。
父親の退院のときのものではなかった。
町の古い銭湯の煙突が、夕空に細く伸びていた。
『これ、帰り道の候補にしてた場所、覚えてる?』
朔は椅子から背を起こした。
『覚えてる。裏の道が曲がってるところ』
『そう。解体が決まったんだって』
その先はなかった。
朔はすぐに、見に行こうと打った。
送信する前に一度読み返した。
律は情報を送っただけかもしれない。
それでも、自分が一緒に行きたいなら、聞くことまではしてよかった。
『残ってるうちに見に行きたい。もし都合合えば、一緒にどう?』
返事は翌昼だった。
『再来週の土曜、四時から一時間なら』
朔は予定表に入れた。
いつの間にか、律と会う約束が二つ目になっていた。
*
銭湯は、もう営業していなかった。
曇ったガラス戸に閉店のお知らせが貼られ、暖簾をかける棒だけが残っていた。
律は小さなスケッチ帳を持ってきた。
「描いてもいい?」
「もちろん」
朔は少し離れて立った。
昔なら、肩越しに覗き込み、あれも入れたらと口を出していただろう。
今日は、律が何を見ているかを先に見た。
煙突より、靴箱の端や、入口のタイルに時間をかけている。
「仕事、製本って言ってたよな」
「うん。断裁したり、折ったり、針金で留めたり」
「手、切らない?」
「最初はよく。今も油断すると」
律は左手の小さな絆創膏を見せた。
朔も、今の印刷会社のことを話した。
互いに紙を扱っているのに、使う機械も時間の流れも違っていた。
律は朝が早く、朔は夜が遅かった。
律が線を引いている間、朔は道の向こうの駄菓子屋を見た。
学生のころは看板があったはずだが、今は窓に別の店の案内が貼られている。
「ここ、変わったな」
声をかけると、律は少し顔を上げた。
「二年前に閉めた」
「知ってたんだ」
「この辺、仕事で通るから」
自分にとって止まっていた町が、律の生活の中では変わり続けていた。
懐かしさを二人で同じだけ持っていると思っていたことに、朔は気づいた。
通りの端から、小学生くらいの子が自転車を押してきた。
銭湯の絵を覗き、何をしているのかと律に聞いた。
「なくなる前に、描いてる」
「写真じゃ駄目なの?」
「写真でもいいけど、今日は描きたいから」
子どもは納得したのかしていないのか分からない顔で、線の増えるところを見た。
律は得意そうに説明せず、鉛筆を動かした。
少しして、子どもは手を振って去った。
「昔から、そういう答え方するよな」
朔が言った。
「どういう」
「ちゃんとした理由をつけないところ」
「あるけど、今はそれだけでいいかなって」
律は鉛筆を削った。
削りかすを小さな袋に入れる動作が、慣れていた。
朔は自分も取材のメモを持ってくればよかったと思ったが、今日はただ見るために来たのだと思い直した。
作品を持ち帰れなくても、一時間を無駄にしたことにはならない。
銭湯の脇から、老夫婦が出てきた。
建物の持ち主だった。
律が絵を描いてよいか改めて尋ねると、二人は並んでスケッチ帳を見た。
「煙突じゃなくて、そこ?」
妻がタイルを指した。
「毎日踏んでたところなので」
律が答えた。
夫は少し笑い、そこは一度張り替えたのだと言った。
その年の雪で客が転び、滑りにくいものに変えた。色が揃わなかったので、端だけ違う。
朔は話を聞きながら、覚えておこうとした。
スマートフォンを出しかけ、許可を聞いてからメモを取った。
帰り際、妻が二人に缶のお茶をくれた。
「残してくれるなら、嬉しいわ」
律は、その場で冊子を作るとは約束しなかった。
「今日は、自分の記録に描いています」
「そうなの。見せてもらえてよかった」
妻は笑った。
朔は、その返事にもほっとした。
喜ばれたら、その期待を全部引き受けなければならないわけではなかった。
五時前、律が時計を見た。
「そろそろ」
「うん」
朔は少し迷い、自分の瓶を買い戻したことを伝えた。
律は缶を持ったまま、立ち止まった。
「そう」
「しんどかった。でも、自分で決めた」
「なら、よかった」
それ以上は聞かれなかった。
朔の中に、拍子抜けと寂しさが同時に生まれた。
もっと関心を持ってほしかった。自分が何かを乗り越えたと、認めてほしかった。
その期待を、律の返却の話につなげるのは違うと分かっていた。
「お前のことを、戻すためじゃないから」
言う必要のない補足だった。
律は朔を見た。
「うん。俺はまだ、戻すつもりない」
「分かってる」
本当に分かっているか、自信はなかった。
*
週明け、律からタイルの絵が送られてきた。
鉛筆の線の上に、薄い水彩が乗っていた。欠けた角まで丁寧に描かれている。
『文章、一段落だけ書いてみる? 公開とかは決めずに』
朔は画面を何度も読んだ。
昔の冊子を再開しよう、という誘いではなかった。
今の一枚に、今の文章をつけてみないかという話だった。
朔は銭湯で聞いたことを、二百字にまとめた。
送ると、律から修正の依頼が来た。
『最後の、思い出は消えないってところ、なくてもいい気がする』
朔はその一文を見た。
綺麗に締めようとして足した、取材にはなかった言葉だった。
消してみると、張り替えられたタイルだけが残った。
『確かに。こっちでどう?』
『いいと思う』
短い返信だった。
それだけで、朔はしばらく画面を閉じられなかった。
保存するとき、古いフォルダを上書きしかけた。
やめて、新しいフォルダを作った。
『帰り道_新稿』
古いフォルダは、その隣に残した。




