第14話 律が選んだ朝
律は、父の部屋に入る前に、鞄から二つの物を取り出した。
洗い替えの靴下と、銭湯の絵。
職員に挨拶をすると、父は今日はよく眠れたと教えてもらった。窓際の椅子に座っているという。
廊下には昼食の匂いが残っていた。
律は面会の札を首にかけ、扉を軽く叩いた。
「来たか」
父はテレビの音量を下げた。
「靴下、ここ」
「まだある」
「替えがあるだけ。今すぐ履けって意味じゃないよ」
同じ会話を、月に一度はしていた。
父は頷き、膝の上のタオルをたたみ直した。
病気をしてから、言葉が出てくるまで少し時間がかかるようになった。昔はその沈黙を埋めようと先回りしていたが、今は待てる日が増えた。
絵を見せると、父は煙突より入口のタイルを見た。
「そこ、赤くなかったか」
「夕方だと、赤く見えるかも」
「いや、もっと」
父はそこで口を閉じた。
律は否定せず、絵を膝へ置いた。
記憶と今の色が違っていても、すぐにどちらかを直す必要はなかった。
「朔君とは」
不意に名前が出た。
律は顔を上げた。
「この前、会った」
「よかったな」
父はそれだけで嬉しそうだった。
昔、家に遊びに来た朔が、壊れた扇風機を分解して結局直せず、二人で部品を袋に入れて謝ったことを覚えているらしい。
父はしばらく、その話をした。
律は笑った。
朔のことを思い出して笑うことは、今でもできた。
三年前に売ったのは、友人に向けた全部の感情ではなかった。
あの時期に、あの人へ助けを求めたかった気持ち。
そこが抜けたあとも、楽しかった出来事は残った。だからこそ、売った直後は、どこが変わったのか説明できなかった。
朔から連絡が来なくても、もう画面を見張らなくなった。
朔が知らない人へ事情を話すとき、裏切っている気がしなくなった。
その小さな変化が、当時の律には救いだった。
父が眠そうにしたので、絵を棚へ置いて帰ることにした。
「次、土曜じゃなくて日曜に来る」
「仕事か」
「少し、用事」
「そうか」
理由を全部話さなくても、父は引き止めなかった。
律はそのことに、毎回少し安心していた。
*
製本所へ戻ると、機械の音が壁越しに聞こえた。
今日は午後だけの出勤だった。前日に頼まれ、予定を確かめてから引き受けた。
小さな工場には、紙の束を運ぶ台車が三台あり、そのうち一台の車輪がうるさい。
律は作業着に着替え、午前の担当から引き継ぎを受けた。
「朝倉、これ、先に折れる?」
主任が伝票を差し出した。
律は部数と納期を見た。
「今の分を止めるならできます。どっちを優先しますか」
「こっち。向こうには俺が連絡する」
「分かりました」
三年前なら、両方やるつもりで頷いただろう。
変わったのは魔法だけのおかげではなかった。失敗した日があり、怒られた日があり、聞いたら分けてもらえた日があった。
少しずつ、先に言うことを覚えた。
作業が途切れたとき、年上の同僚が台車を取りに来た。
父の入院中に、書類の問い合わせ先を一緒に整理してくれた人だった。
「最近、描いてる?」
台車へ紙を載せながら聞かれ、律は一枚だけと答えた。
「いいじゃん。前、机の隅にいろいろ描いてたよな」
「捨てました」
「もったいない」
「失敗したやつなので」
同僚は、失敗なら仕方ないか、と笑った。
律は少し意外に思った。
励まされたら、続けなければいけない。
才能があると言われたら、それらしいものを見せなければいけない。
そう構えていたのに、話はあっさり終わった。
同僚が車輪のうるさい台車を押していく。
律は後ろから声をかけた。
「前のこと、ありがとうございました」
「どれ」
「父の手続き。電話する先、まとめてもらったやつ」
「ああ。随分前だな」
「ちゃんと言ってなかった気がして」
「言ってたよ」
同僚は台車を止め、思い出すように笑った。
「二回くらい」
律も笑った。
助けてもらった日のことを、自分の中で何度もやり直していたのかもしれない。
相手には、その日の仕事と同じように終わっている出来事もあった。
「今度こっちが忙しいとき、折りの順番だけ相談させて」
「分かりました。できる範囲で」
「それでいい」
同僚は作業場へ戻った。
恩を全部返しきるまで、その人の頼みを断れないわけではない。
律はそのことも、時間をかけて覚えてきた。
朔との関係だけが、自分を変えたのではなかった。
休憩室でスマートフォンを開くと、朔から新しい文章が届いていた。
タイルを張り替えた年の話が、短くまとまっている。
余計な結論を削ったあとの文章は、絵の邪魔をしなかった。
律は「これで合わせてみる」と返した。
朔とまた作業をするのは、思っていたより楽しかった。
それを認めるのは、少し怖かった。
楽しいと思ったら、昔に戻らなくてはいけない気がした。
親友という言葉を使わなければならない気がした。
けれど、一枚の絵へ文章をつけてもらうことは、それ以上の契約ではない。
机の上で、自分用の試し刷りを折った。
ほんの四ページ。表にタイル、内側に文章、裏に日付。
白い余白が広かった。
足りない部分を急いで埋めたくなる癖は、自分にもまだ残っている。
休憩が終わる直前、灯子から事務的な連絡が届いた。
封筒を朔へ渡したことの確認と、残してある連絡先に変更がないかという照会だった。
律は、変更なしとだけ返した。
買い戻しの案内はなかった。
店が自分を急かさないことを、ありがたいと思った。
*
夜、律は古いノートを開いた。
三年前、転院の候補や必要な書類を、ばらばらに書いたものだった。
余白には買うべき洗剤、払う期限、仕事のシフトが混ざっていた。
あのころ、自分は確かに困っていた。
それは気持ちを売ったあとも、消えない事実だった。
ページの端に、朔の名前があった。
『来週、聞く』
その下には何も書かれていなかった。
助けてほしいと言いたかった痛みは戻ってこなかったが、その文字を書いた自分を、今なら少し理解できる。
自分も、朔の困り事を聞くことで、必要とされていると確かめていた。
支える側にいれば、ここにいてよい気がした。
だから、こちらから役割を変えるのが怖かった。
朔が全部悪かった、と言えば、いくらか楽になるのかもしれない。
しかしそれでは、あのころの自分が何を選び、何を言わずにいたかまで、なくなってしまう。
律はノートを閉じた。
朔に返していない質問が一つあった。
今も絵を描いているか。
たまに、と答えたが、本当はここ半年、ほとんど描いていなかった。描きたいものがないのではなく、描き始めると仕事と生活の隙間に全部入り込んでしまうのが怖かった。
銭湯へ出かけた一時間は、久しぶりに時間を区切って描けた日だった。
朔が五時に終わる約束を守ったことも、助かった。
律はスマートフォンを取り、短く送った。
『この前、時間どおりに切り上げてくれて助かった』
少し迷ってから、次の文を足した。
『また一枚、作るならやってみたい。少ないページで』
送ったあと、机の灯りを消した。
あの本音を買い戻すかどうかとは、別の選択だった。
誰かと次の一枚を作りたい気持ちは、今、ここにあった。




