第15話 八ページの約束
冊子は八ページにすることになった。
銭湯のタイルと、閉店後のパン屋の窓。
絵を二点、文章を二本。
表紙と奥付を加えても、白い余白を残せる長さだった。
朔と律は、駅前の貸し会議室を一時間だけ借りた。
喫茶店で紙を広げるのは気が引けるし、どちらかの家だと終わりが曖昧になる。
部屋には長机が二つと、少し乾いたホワイトボードがあった。
朔は持参した紙を並べた。
「部数は二十でどう?」
「まず十でもいい」
「そうか」
朔はメモの二十を消し、十と書いた。
律は予算の上限を決めたいと言った。
印刷と紙代を合わせ、二人で出せる金額を確認する。製本所の機械は勝手に使えないので、少部数を受ける店へ頼む。
売るかどうかも、まだ決めない。
銭湯の夫婦とパン屋には、載せる内容と絵を事前に見せる。
同意を得られないものは使わない。
確認することは多かった。
昔なら面倒だと飛ばしていた話が、今は冊子の輪郭を作っていた。
「タイトル、帰り道でいい?」
朔が聞くと、律は少し考えた。
「同じでもいいけど、前の続きみたいにするのは嫌だ」
「じゃあ、一号とかつけないでおく」
「うん」
表紙に小さく『帰り道』と書いた。
その下には二人の名前ではなく、まず絵の位置を四角で示した。
名前はあとで決めればよかった。
会議室を出ると、律は仕事へ向かった。
朔はその場でメモを清書した。
決まったことが少ないのに、妙に嬉しかった。
昔の二十四ページの計画より、八ページのほうが、今の二人に似合っていた。
*
問題は、その二日後に来た。
千帆が見つけてくれた商店街の即売会で、キャンセルが一枠出たという。
前に律が設営を手伝っていた、小さなイベントだった。
出展料は安く、長机の半分を借りられる。
申し込みの締め切りは、その日の夜だった。
告知には、昨年の会場の写真が載っていた。
机の上に並ぶ小さな本と、それを手に取る人たち。
朔は画像を拡大した。
知らない誰かが、自分たちの本を読んでいるところを想像した。
その人がページを戻し、もう一度絵を見る。
いいですね、と言う。
律が横で笑う。
そこまで、都合よく思い浮かんだ。
仕事では、人の名前で出る紙を毎日作っている。
担当として役に立っても、自分が何を好きで作ったかは、外へ出ない。
今回は、自分の名前が入る。
そのことを嬉しく思ってはいけない気がして、朔はずっと、律と関係を直すために作るのだと説明していた。
本当は、読んでもらいたかった。
自分の文章を、知り合い以外にも手に取ってほしかった。
悪い願いではないはずだった。
けれど、その願いを律へ言うのは、まだ怖かった。
売れなければどうするのか。
面白くないと言われたら。
そもそも律は、人へ見せることを今したいのか。
そこを話す前に、会場の枠だけを取れば、現実のほうが先に動いてくれる。
そう思ったことを、朔はそのときは認めなかった。
締め切りという外側の理由があれば、自分の望みを説明しなくても済む。
急ぐ必要があるのだから仕方ない。
そう考えると、迷いは手続きの問題に変わった。
申し込み画面には、活動歴を書く欄があった。
朔は『初めての冊子です』と入れた。
たったそれだけで、何かが始まった気がした。
律へ相談する前に、その気持ちを味わってしまったことが、後から最も言いにくい部分になった。
朔は告知を律へ転送した。
『これ、出てみない?』
既読はつかなかった。
律は勤務中だろうと思った。
主催者に問い合わせると、枠が少ないので確約はできないが、今なら申し込めるという返事が来た。
朔は予定表を開いた。
六週間後の日曜日。自分は休みだった。
先に場所だけ確保しておけばいい。
律が来られなくても、自分が店番をすればよい。
出展料も自分が払えば、相手に損はない。
そう考えると、申し込みは親切な段取りに見えた。
出展名の欄に『帰り道』と入れた。
内容は、町の風景を描いた小冊子。
部数は、十では少なすぎる気がして三十と書いた。
すぐに作る必要はない。申し込みの目安だ。
送信したあと、胸が弾んだ。
この機会を逃さなければ、二人で何かを完成させられる。
夜、律から返信が来た。
『その日は父親の面会。出展はまだ早いと思う』
朔は、申し込み済みであることを伝えた。
『場所だけ取った。店番は俺でいいし、費用も出すから』
しばらくして、律から電話がかかってきた。
「何で先に申し込んだ?」
「締め切りだったから」
「返事、待てなかった?」
「埋まったらもったいないと思って」
言いながら、朔は自分の声が言い訳になっていくのを感じた。
「でも、お前に無理して来てくれって話じゃなくて」
「俺の絵を売るかどうかも、決まってない」
「売らなくても、置くだけなら」
「そういう話じゃない」
律の声は低かった。
電話越しでも、怒っていると分かった。
朔は台所の椅子に座った。
「三十部も勝手に?」
「申し込み欄の数字で、絶対じゃない」
「十部からって話したよな」
「分かってる。変更できる」
「じゃあ、何で変えたんだよ」
朔には、うまく答えられなかった。
少ないより多いほうが喜ばれる。
決めないより決めたほうが前に進む。
そういう考えを、自分はまだ手放していなかった。
「俺、今の生活の中でできる範囲を決めたかった」
律が言った。
「また、期待に合わせて増やすのは嫌なんだ」
「分かった。取り消す」
「まず、相手に確認して。できるかどうかも分からないのに、すぐ約束しないで」
朔は目を閉じた。
謝るために、新しい約束をまた無造作に置いていた。
電話が切れたあと、朔は主催者へ連絡した。
共同制作者の確認前に申し込んだこと、作品の使用許可が未確定なことを説明し、辞退を申し出た。
返事は翌朝だった。
枠は次の希望者へ回す。事務手数料だけ差し引く。
主催者の文章は丁寧だったが、確認後に申し込むよう一文が添えられていた。
朔はそれを消さず、律へ共有した。
『取消しできた。先に決めてごめん。差額は俺が払う』
送信すると、短く返ってきた。
『確認した。制作はいったん止めたい』
朔はスマートフォンを持ったまま、動けなくなった。
せっかく、と思ってしまった。
せっかくまた話せるようになったのに。
せっかく作ろうと言ってもらえたのに。
その言葉の主語が、自分ばかりであることも分かっていた。
机の上に、八ページの見本があった。
部数十、と書いた自分の文字。
あの日は本当に、その数字を大切にするつもりだった。
間違いに気づいたあとも、次の場面で同じ間違いをする。
自分がそんなに簡単には変わらないことが、朔は初めて怖くなった。




