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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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第3話 引き出しに触れない仕事

 土曜日の朝、千帆の部屋には、同じ大きさの段ボール箱が八つ並んでいた。

 朔が渡した青いマグカップを、千帆はすぐに箱へ入れず、台所に置いた。

「コーヒー飲む?」

「荷物になるだろ」

「飲んでから洗えばいいじゃん」

 妹は湯を沸かした。兄に似ず、必要なことを必要な順に言える人だった。少なくとも、朔にはそう見えていた。


 軽トラックは千帆の職場の先輩が貸してくれた。運転もその人が引き受け、新居まで二往復する予定だった。

 朔は大きい箱から持とうとした。

「それ、本。下の小さいやつにして」

「平気」

「持つ前に、重さ見てって」

 千帆に止められ、持ち手を放す。

 右手の赤みはほとんど引いていたが、力を入れると痛んだ。

「手、痛いの?」

「もう治りかけ」

「だったら軽いやつ。痛くないほうで持って」

 あっさり役割が変わった。朔が期待していたほど、誰も困らなかった。


 新居の廊下で、千帆が息をついた。

「やっと近くなる」

 以前の部屋から職場までは、一時間半かかった。

「しんどかったなら、早く引っ越せばよかったのに」

 朔が言うと、千帆は段ボールのテープに爪をかけたまま、少し黙った。

「まあ、いろいろあったから」

「家賃?」

「それも」

 朔は、それ以上聞かなかった。答えが短いときは、話したくないのだと思っていた。

 千帆はテープを一気に剥がした。

「お兄ちゃん、今日このあと何かある?」

「少し」

「仕事?」

「みたいなもの」

「そっか」

 その返事が少し平らだったことを、朔は新居の壁のせいにした。家具がなく、声が響く部屋だった。


     *


 本音買取所には、午後四時に行く約束をしていた。

 灯子はカウンターに原稿と電卓を並べた。

「説明札の整理と、読みやすい版下の作成。ここで作業していただき、今日は二時間。時給千二百円でどうでしょう」

「お金、いただけるんですか」

「仕事を頼んでいますので」

 代わりに瓶を返す、とは言われなかった。

 朔は、自分からその交換を持ちかけようとしていたことに気づいた。

「ただ、店の中にいる以上、守っていただくことがあります」

 灯子は三枚のカードを出した。

 引き出しは開けない。

 客の名前や話を外へ持ち出さない。

 相談には、求められるまで入らない。

「売るかどうかを勧めるのも、やめてください」

「止めるのも?」

「止めていい場面はあります。ただ、榎本さんが買い戻すか悩んでいることと、お客様が売るかどうかは別です」

 朔はカードを読み返し、うなずいた。


「お客様の話を聞いてしまったら、忘れることはできないですよね」

 朔はカードを返す前に尋ねた。

「そうですね。だから、聞く必要のないときは離れていただきます。こちらが説明を忘れていたら、指摘してください」

「俺が?」

「私も忘れます」

 灯子は契約の紙に、相談時の作業中断も労働時間に含むと書き足した。

 朔はその一行を見た。

 待っているだけなら、働いていないことになると思っていた。

 会社でも、指示が来るまでの時間を休憩のように数え、そのあとに終わらなかった作業を足していたことがある。

 椅子に座っているだけでも、自由に帰れないなら、時間は使っている。


「二時間で全部は終わらないと思います」

「何回くらいになりそうですか」

「原稿を見てから、次の回に目安を出してもいいですか」

「お願いします」

 分からないことを分からないまま伝えても、話は止まらなかった。

 灯子は作業机へ案内し、コンセントの位置を教えた。


 机の引き出しには、短くなった鉛筆と、削りすぎた消しゴムが入っていた。

 朔は紙へ四角を描き、文字の配置を考えた。

 最初は控えめな灰色で見出しを作ったが、店の明かりの下では読みにくい。

 画面上で整って見えるものが、実物でも役立つとは限らない。

 入口からどの位置で読むのか、椅子に座って読むのかを、灯子に確認した。

 人に見せる紙を作るのは好きだった。

 喜んでもらうためだけではない。ばらばらだった情報が順に並び、読む人の目が迷わなくなる瞬間に、手応えがあった。

 自分にそういう好みがあることを、忙しい仕事の中では忘れがちだった。


 作業用に借りた古いノートパソコンには、見覚えのある文書ソフトが入っていた。

 原稿には、同じ注意が別の言い方で三度ずつ書かれていた。灯子が説明を足すたびに増えていったらしい。

 朔は、まず項目を分けた。

 売るもの。変わること。変わらないこと。返却の条件。

 文字を大きくすると、一枚に収まらなかった。

「二枚でいいですか」

「一枚に収めたくて、読めなくなりました」

 灯子は苦笑した。

 その顔を見て、朔は初めて、この人も困ったりするのだと思った。


 五時前、細い傘を持った女性が来た。

 朔は画面を伏せ、奥の作業机に移った。店内には低い仕切りがあり、客席から顔は見えなくなる。

「いつもの方?」

 女性が小声で聞いた。

「文書を整えてもらっています。お話は聞こえる位置ですので、気になるようなら席を外してもらいます」

「いいわ。大した話じゃないから」

 灯子はその言葉に笑わなかった。

 朔はヘッドホンを借り、原稿の入力を続けた。


 作業が一区切りついたころ、灯子が仕切りの向こうから声をかけた。

「榎本さん。八代さんが、表示の大きさについて意見をくださるそうです」

 女性は七十歳くらいだった。厚手のコートの袖から、赤い手編みの手袋がのぞいていた。

「小さい字が読めないの。見えないと、聞き返すのも面倒になるでしょう」

 朔は文字サイズを二種類印刷した。

 女性は大きいほうを選んだ。

「こっちなら、自分で迷える」

 朔は一瞬、意味を取りかねた。

「説明を読めないと、言われたほうに頷くしかないもの」

 女性はそう言って、紙を丁寧に返した。


 六時になり、灯子が作業を止めた。

「続きは、次に来られる日に」

「あと十分で」

「その十分も仕事です。延長するかは、まず相談しましょう」

 朔は手をキーボードから離した。

 未完成の画面を閉じるのが、ひどく落ち着かなかった。

 それでもデータを保存し、予定どおり帰った。


 封筒には二千四百円が入っていた。

 自分の本音に三千円、二時間の仕事に二千四百円。

 並べて比べそうになり、カードの注意書きを思い出した。

 本音の価値ではない。

 それなら、何の金額なのだろう。


 帰りの電車で、千帆から写真が届いた。

 新しい窓辺に、青いマグカップが置かれていた。

『今日はありがとう。今度は何も運ばず来て』

 朔は写真を拡大した。

 カップの横に、皿が二枚並んでいた。

 引っ越しのあとに何かあるかと聞かれたのは、仕事の予定を知りたかっただけではなかったのかもしれない。

 その想像は、売ったはずの痛みとは違う場所に、小さく残った。

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