第2話 返事のないところ
翌朝、朔は目覚ましが鳴る前に起きた。
久しぶりに、眠った気がした。流しに置いた弁当の容器を洗い、窓を少し開ける。隣の建物の壁しか見えない窓だったが、その白さまでいつもと違って見えた。
妹の千帆から、追加の返事は来ていなかった。
昨夜の画面を開いても、送る言葉は浮かばなかった。謝るほどの失敗はしていない。カップを持っていくと答えた。それで用件は終わっている。
そう思ってから、用件という言い方に引っかかった。
千帆との会話を、そんなふうに数えたことはなかった。
家を出る前に、朔は母から届いていた短い連絡にも返事をした。
実家へ送った書類を受け取ったという、ただの報告だった。こちらへ来る予定はないかと付け足されている。
来月なら、と書いて止めた。来月の予定を、まだ一つも確認していない。
自分はいつも、答えを空欄にしておくことを嫌がった。相手に待たせるくらいなら、とりあえずできると言う。できなくなったら、そのとき何とかすればいい。
その何とかする時間を、誰が出していたのか。
ほとんどは自分だったが、自分だけとは限らなかった。
『予定を見て、日曜までに返す』
そう送り、カレンダーに書いた。
小さな約束を増やしただけで、立派な変化ではない。それでも、自分が覚えておかなければならないことが一つ、画面へ移った。
駅へ向かう途中、パン屋の前を通った。
焼きたての札が出ていた。いつもは時間がなく、コンビニで済ませる。
今日は五分早かったので、中へ入った。
選ぶのに迷い、後ろへ人が並ぶと、最初に目についたパンを取ろうとした。
「ゆっくりでいいですよ」
店員に言われ、朔はトレーを持ち直した。
甘いものが食べたかった。
いつもの総菜パンではなく、小さなクリームパンを選んだ。
店を出てから、そんな程度の希望まで急いで引っ込めていたのだと思った。
何を食べたいかくらい、自分で分かっている。
分かっていても、他の人が困らない答えを先に選ぶことがあった。
改札の前で、千帆への返事をもう一度見た。
ありがとう、とだけ足すことはできる。
気持ちがなくても礼儀として送ればよい。
けれど昨日の違和感を、適切な言葉で覆ってしまうのが怖かった。
朔は画面を閉じ、買ったパンを鞄の上へ置いた。
潰さないように持って電車へ乗ると、その一個のために片手が塞がった。
会社では、先輩の滝沢が朔の机に缶コーヒーを置いた。
「昨日ありがと。助かった」
「いえ」
「手、どうした?」
「ちょっとこぼして」
「気をつけろよ」
滝沢は会議室へ入っていった。
以前なら、その背中を少し見ていたはずだった。自分が何時に帰ったか、知っているのだろうか。夕食がスープ一杯だったことも。
今は缶の水滴が書類につくのが気になっただけだった。
仕事は進んだ。胃が重くならないので、昼の定食も残さなかった。
後輩の瀬尾菜月に「今日、顔色いいですね」と言われて、朔はうなずいた。
実際、悪いことばかりではなかった。それが困った。
午後六時、滝沢から追加の修正を渡された。
「今日中、いける?」
「大丈夫です」
口は昨日と同じように動いた。
気持ちが楽になっても、仕事の量は減らなかった。
九時を回ったころ、朔は手元の文字を何度も読み返していた。眠い。帰りたい。その気持ちはちゃんとあった。隣の席は空で、夕方に置いたコーヒーはぬるくなっていた。
スマートフォンを手に取り、滝沢の名前を出す。
『残りは明朝でもよいでしょうか』
そこまで打って、消した。
助けを求めるのが下手なところまで買い取ってもらったわけではない。
それに気づいたとき、ようやく昨日の店が怖くなった。
*
同じ路地に、同じ電球がついていた。
店主は朔を見るなり、カウンターの端にタオルを置いた。今日は降っていないので、朔は首を振った。
「お控えはありますか」
財布からカードを出す。店主は番号を確かめ、木の引き出しを一つ開けた。
朔の小瓶は、紙袋の中にあった。
黒い糸のようなものが、底に沈んでいる。
「買い戻すには、ここで栓を開けます。その前に、確認をさせてください」
「何を?」
「今、どうしたいと思っていらっしゃるかです」
朔は財布を開いた。三千円は別の札で用意してきた。
「妹からメッセージが来たんです。気にしてくれてたのに、何も返したくならなくて」
「妹さんが嫌いになりましたか」
「違います。たぶん」
千帆が事故に遭えば心配する。引っ越しがうまくいけば、よかったと思うだろう。
けれど、あの夜は寂しかった、と分かってもらう理由が見つからない。
「失敗した気がするんです」
「売る前に戻りたい、ということですか」
すぐには答えられなかった。
今朝の眠りを、また手放すのかと思った。
あの部屋で水を飲むたびに感じた心細さまで、もう一度引き受けるのか。
「戻すと、妹にちゃんと感謝できますか」
「返事の言葉を、お渡しすることはできません」
店主は栓に触れなかった。
「戻るのは、売ったときの気持ちです。相手との関係が直るわけではありません。戻して後悔される方もいます」
「じゃあ、どうすれば」
問いかけてから、朔は声の強さに気づいた。
店主が決めてくれれば、失敗しても自分のせいではなくなる。そう思いかけていた。
「今日は、持ち帰って考えてもいいですか」
「瓶は店で保管します。お考えは、どこへでも」
言われて、朔は少しだけ笑った。
カウンターの横に、小さな札があった。
『返却は本人に限ります。保管に期限はありません』
印刷が薄く、端が丸まっている。最初の夜には気づかなかった。
「それ、入口にもあったほうがいいですね」
「そうですか」
「忘れる人、いると思います。楽になるほうの説明だけ覚えてしまうから」
自分のことだった。
店主は札を見てから、朔を見た。
「印刷のお仕事を?」
「補助ですけど」
「これを作り直したいんです。説明する順番も、ずっと直せずにいて」
奥の棚から、古い原稿用紙の束が出てきた。赤い訂正がいくつも重なっている。
「もし見積もりをお願いできるなら」
朔は反射的にうなずきかけ、止まった。
ここでも、引き受けて帰って夜中に作業するのだろうか。
「……今日は、持って帰れません」
言えたあとで、胸が小さく鳴った。
「ええ。今夜お願いしたわけではありません」
店主は原稿を引っ込めた。表情は変わらなかった。
店を出る前に、朔は初めて店主の名前を聞いた。
「篠宮灯子です」
彼女は名乗り、カウンターに残った三千円を指さした。
「まだ、お預かりしません」
朔は札を財布に戻した。
買い戻さずに帰る自分を、誰も責めなかった。
それが安心なのか、物足りないのかは分からなかった。
駅で千帆に返事を書いた。
『熱あった。言わなくてごめん。カップ、忘れず持っていく』
感動するような言葉ではなかった。今の自分が言える事実だけだった。
電車が来る前に、返信が届いた。
『忘れたら取りに行く。土曜、朝ごはん食べてきてね』
朔はその文を、二度読んだ。
返したい気持ちが戻っていなくても、読むのをやめる必要はなかった。




