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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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第1話 大丈夫が、三千円になった日

3作目です。また頑張ります笑

 俺の「大丈夫」には、三千円の値段がついた。


 路地裏の店で、女の店主が千円札を三枚、盆に並べた。どれも折り目のない札だった。

 隣には、まだ何も入っていない小瓶がある。


「安いですね」


 口にしてから、榎本朔(えのもとさく)は少し驚いた。

 値段に不満を言ったことなど、これまで一度もなかった。


「高くしてほしいですか」


 店主に聞かれ、いつもの返事が喉まで出た。

 大丈夫です。

 それを飲み込むと、急に何と答えればいいのか分からなくなった。


     *


 三時間前、朔は会社の給湯室で、右手を冷やしていた。

 電子レンジから取り出したスープの紙カップが、指の間でつぶれたのだ。

 水を当てている間も、ズボンのポケットでスマートフォンが震えていた。


『修正データ、今日中にいける?』


 画面の向こうにいる先輩は、もう会社を出ていた。

 朔は左手で返信した。


『大丈夫です』


 送信してから、濡れた右手を見た。

 親指の付け根が赤くなっていた。


 印刷会社の制作補助として働き始めて、二年になる。

 得意なことはまだ少ない。けれど、頼まれた仕事を断らないので、便利には使ってもらえた。

 榎本に聞けば何とかなる。

 そう言われると、何とかならないと言うのが難しくなった。


 午後十時を過ぎた事務所で、送信済みのメールを確認する。

 添付ファイルはある。宛先も間違っていない。

 もう一度だけ確認して、パソコンを閉じた。


 スマートフォンには、妹からのメッセージが届いていた。


『土曜の荷物運び、午前でもいい?』


 その下に、段ボール箱が積まれた写真。

 朔は土曜日の予定表を開いた。昼まで眠るつもりだった。それだけなら、予定と呼ぶほどのものではない気がした。


『大丈夫』


 すぐに、両手を合わせたキャラクターのスタンプが返ってきた。


『お兄ちゃん最近忙しくない? 無理なら業者探すよ』


 朔は「平気」と入力した。

 送らずに、画面を消した。


 会社の外では、細かい雨が降っていた。

 傘はある。今朝、同僚に貸したものが、会社の傘立てに戻っているはずだった。

 取りに戻るには、もう一度カードキーを出して、エレベーターに乗らなければならない。

 駅まで七分。それくらいなら濡れても構わなかった。


 大通りの信号が赤になったので、朔は一本手前の路地へ曲がった。

 飲食店の室外機が並ぶ、狭い道だった。


 その途中に、一軒だけ明かりのついた店があった。


 すりガラスの引き戸。

 軒先の小さな電球。

 入口の黒板には、白いチョークでこう書かれていた。


『あなたの「大丈夫」、買い取ります。』


 その下に、小さく一行。


『査定だけでも結構です。』


 朔は足を止めた。

 冗談みたいな店だった。

 それでも、何を売っている店か分からないことより、自分の持っているものを買ってくれるらしいことが、少し気になった。


 引き戸に手をかける。

 乾いた鈴が、一度だけ鳴った。


     *


「手を拭くもの、そこにあります」


 カウンターの向こうの女性は、朔の顔より先に右手を見た。

 三十代にも、もう少し上にも見えた。灰色のシャツの袖を肘まで折り、眼鏡のつるには細い紐をつけている。

 朔は入口の籠からタオルを取り、髪ではなく手を拭いた。


 壁一面に、浅い木の引き出しが並んでいた。

 薬局のようにも見えたが、薬の匂いはしなかった。床の隅には普通の電気ストーブがあり、濡れた靴の先が温まった。


「何のお店ですか」

「表に書いてあるとおりです」

「大丈夫を、買う?」

「その言葉で隠した本音を、お預かりします。売買が成立すれば、代金をお渡しします」


 店主はカウンターに白い紙を置いた。


「お名前を」

「榎本、朔です」

「榎本さん。今日、大丈夫と言ったとき、本当は何と言いたかったですか」


 朔は紙を見た。

 何も書かれていなかった。名前の欄すらない。


「別に、そんな大したことは」

「大したことかどうかは、聞いていません」


 店主は急かさなかった。

 朔の前にペンを置くと、タオルをもう一枚、ストーブのそばに広げた。


 帰ればよかった。

 変な店ですね、と笑って、頭を下げれば済んだ。

 けれど足が温まるにつれ、もう一度雨の中へ出るのが嫌になっていた。


「……今日じゃなくてもいいですか」

「ええ」


 朔はペンを持った。

 右手の赤いところが引きつれた。


 先月、熱を出した夜のことを思い出した。

 台所まで水を取りに行くだけで、ひどく時間がかかった。冷蔵庫には調味料しかなかった。

 誰かに連絡しようと画面を開いて、結局、天気予報を見て閉じた。


 翌朝、妹から電話があった。

 声が変だと言われて、寝起きだからと答えた。


「誰かに、来てほしかったんです」


 店主は、うなずいた。


「でも、来てもらうほどじゃないと思って」


 ペン先が紙に触れる。

 書き始めると、思ったより短かった。


『本当は、助けてほしかった。』


 最後の丸をつけた途端、胸の奥が痛んだ。

 こんなことを書くために、知らない店へ入ってきた自分が、急に情けなくなった。


「すみません」

「その紙は、こちらへ」


 店主は謝罪には触れず、紙を受け取った。

 文字を見てから、小さな透明の瓶を取り出した。


「こちらなら、三千円です」


 盆の上に千円札が三枚、並んだ。


「安いですね」

「高くしてほしいですか」


 朔は返事に迷い、結局、首を横に振った。


「これ、本当に売ったらどうなるんですか」

「この気持ちを抱えていた苦しさがなくなります。ただし、誰かに分かってほしい、伝えたいという願いも一緒に手放すことになります」

「忘れるんですか」

「出来事は覚えています。熱を出したことも、ひとりだったことも」

「それなら……別に」


 楽になるのではないか。

 そう思った顔をしていたのだろう。店主は紙を盆に置き、まだ札には触れないようにと言った。


「売るのは、今、ここに書いた本音です。これから先、何も感じなくなるわけではありません。ただ、どの人との間で何が変わるかは、こちらでも保証できません」

「買い戻せますか」

「保管されている間は。代金を返していただき、ご本人が受け取りに来る必要があります」

「三千円を返せば」

「それと、ご自身の意思です。誰かに言われて戻ってきても、お返しできません」


 朔は白い紙を見つめた。

 自分の字だった。

 文字にしてしまうと、これまで気づかなかったことまで見えてきそうだった。

 妹に気づいてほしかったのか。

 職場の誰かに、帰っていいと言ってほしかったのか。

 それとも、もっと前から。


 考えるのが、もう疲れていた。


「売ります」


 店主は一度だけ、朔の目を見た。


「では、代金をお取りください」


 三枚の札に触れた瞬間、紙の上の文字がにじんだ。


 朔は指を止めた。

 黒いインクが細い糸のように浮き上がり、店主の手元へ流れた。小瓶の口をくぐり、中でゆっくりほどける。

 店主が栓をする。


 白い紙には、ペン先でつけたくぼみだけが残った。


「……手品?」


 言いながら、朔は胸に手を当てた。

 さっきまで胸の奥を押していたものが、なかった。


 熱を出した夜を思い出す。

 暗い部屋。冷蔵庫。遠かった台所。

 全部、覚えていた。

 でも、どうしてあれほど心細かったのか、うまく思い出せなかった。


「楽に、なった」


 朔は笑った。

 笑おうとしなくても、口元が緩んだ。


 店主は小瓶の底に番号を書き、紙袋に入れた。


「お客様控えです」


 渡されたのは、名刺ほどのカードだった。

 店の名前と、受付番号。裏には住所が印刷されていた。


「なくさずに」


 朔は財布にカードをしまった。

 三千円も、一緒に。


     *


 帰り道、雨はやんでいた。


 駅前の弁当屋には、まだ明かりがついていた。

 朔はいつもより高い弁当を選び、追加で温かい味噌汁も頼んだ。店員に袋を渡されると、右手の痛くない位置で持ち直した。


 スマートフォンが震えた。

 妹からだった。


『引っ越しのとき、お兄ちゃんの部屋にある私のマグカップ持ってきて。青いやつ』


 その下に、もう一通。


『あと、この前ほんとは熱あったでしょ。声で分かったよ』


 朔は歩きながら画面を見た。


『ああいうときくらい言って。買い物なら行けるから』


 青いマグカップは、食器棚の奥にあった。

 妹が前に泊まりに来たとき、置いていったものだ。

 いつもなら、気を遣わせたことを謝っただろう。

 それから少し迷って、今度は頼む、と送ったかもしれない。


 今は、何も続かなかった。


『カップ了解』


 返信すると、すぐ既読がついた。

 朔はスマートフォンをしまった。


 数歩進んでから、立ち止まった。


 何か返し忘れた気がした。

 もう一度、メッセージを開く。


『買い物なら行けるから』


 文字の意味は分かった。

 ありがたいことを言われているのも分かった。


 それなのに、妹に何を返したいのか、分からなかった。


 朔は財布から、さっきのカードを抜いた。

 表に印刷された店名の下に、小さな注意書きがあった。


『買取代金は、本音の価値を示すものではありません。』


 朔は三千円で買えた弁当の袋と、妹のメッセージを交互に見た。


 楽にはなった。


 なのに、返信の途中のような画面を、いつまでも閉じられなかった。

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