第23話 大丈夫じゃない
今日、明日は1話のみです。
最後の営業日、店はいつもより狭く見えた。
空いた棚が増え、床には番号のついた箱が並んでいる。
瓶の入った引き出しは、まだ壁に残っていた。
それらは翌日、灯子が照合しながら運ぶという。
朔は夕方の作業を一時間だけ頼まれていた。
持ってきた冊子を渡すと、灯子は手を止めて読んだ。
最初から最後まで、急がずに。
「できたんですね」
「はい。十部です」
「十分に、本ですね」
薄い背を指で撫で、作業机の上へ置いた。
朔は、その置き方を覚えておきたかった。
荷造りをしていると、澄江が挨拶に来た。
今日はみかんではなく、丈夫な紐を持っていた。
「引っ越しなら、使うかと思って」
灯子は礼を言い、使う長さだけ分けてもらった。
澄江は余った紐を鞄へ戻した。
「全部押しつけなくてよかった」
自分で笑った。
息子とは、第一日曜の約束が続いているという。
先月は都合がつかず、金曜に連絡があった。
「寂しかったけど、日曜は映画に行けたわ」
うまくいく暮らしにも、寂しい日は残っていた。
澄江が帰ったあと、灯子の姉が来た。
写真の子どもとは、もちろん顔が違った。
朔は挨拶だけして、店の外へ空箱を運んだ。
二人の話を聞く必要はなかった。
戸の向こうから、どの箱を持てばいいかという普通の声がした。
古い喧嘩を埋める大きな言葉より先に、今日の二時間が始まっていた。
朔の仕事が終わると、灯子は報酬の封筒を渡した。
額は事前に決めたとおりだった。
朔は受け取り、鞄へ入れた。
「最初に来たとき、安いって言いましたよね」
「覚えています」
「本音に、値段をつけてほしかったんだと思います。これだけつらかったって、分かる数字が欲しくて」
灯子は頷いた。
「今は?」
「分からないです。でも、三千円で説明できるものじゃなかった」
朔は笑った。
「弁当は、おいしかったです」
灯子も笑った。
あの夜の三千円が、何もかも間違いだったわけではなかった。
*
律は閉店の少し前に来た。
冊子を渡すのは朔に任せていたが、店へ挨拶に寄りたいと言っていた。
灯子と短く話し、移転先の案内を確かめた。
瓶を出してもらうことはなかった。
朔は、その様子を自分から目をそらさずに見た。
律が何を選ぶかを、もう決めていた。
「先に外で待ってる」
律が言った。
朔は灯子へ頭を下げた。
「また、予約して来ます」
「必要なときに」
いつでも、ではなかった。
その言葉には、店の外で暮らす時間も含まれていた。
戸を閉めると、路地の空気が冷たかった。
律は自動販売機の横で待っていた。
「駅まで行く?」
「うん」
二人で歩き始めた。
後ろで、引き戸の鈴が一度鳴った。
姉が何かを持ち出したのだろう。
朔は振り返らなかった。
大通りへ出る直前、足が止まった。
店がなくなるわけではない。
律との冊子も完成した。
仕事では、人に頼む仕組みが少しできた。
うまくいっていることがいくつもある。
だから寂しいと言うのは贅沢な気がした。
前を向くべき場面で、立ち止まる自分が嫌だった。
「朔?」
律が振り向いた。
「大丈夫?」
いつもの返事が、口まで来た。
大丈夫。
そう言えば、このまま駅へ行ける。
律は電車に乗り、自分も帰る。
誰の予定も変えず、今日はきれいに終わる。
でも、帰った部屋で、自分はまた言わなかった言葉を思い返すだろう。
今日はもう、売るための店へ戻りたくなかった。
誰かが気づくのを待つのでもなく、自分で言いたかった。
「大丈夫じゃない。少し、話を聞いてほしい」
言い終えるまで、律の顔を見られなかった。
口にしても、映画のように雨がやんだり、風が変わったりはしなかった。
車が通り、信号が変わった。
律は時計を見た。
「十五分なら。あそこのベンチでいい?」
朔はうなずいた。
「ありがとう」
駅前のベンチには、二人分の空きがあった。
律は温かいお茶を買ってきた。朔は自分の分の代金を渡した。
缶を握ると、手の冷たさが分かった。
「店が移るの、寂しい」
朔は言った。
「うん」
「ここへ来れば、何を間違えたか考えられた。なくなるわけじゃないのに、急に一人になる感じがする」
律は口を挟まなかった。
「冊子も、できたら嬉しいのに、これでまた連絡する理由がなくなるんじゃないかって」
最後のほうは声が小さくなった。
完成を喜ぶ相手へ言うには、情けない話だった。
律は缶の蓋を開けた。
「冊子を作る用事は、一つ終わったな」
「うん」
「それで、全部終わるとは思ってない」
朔は顔を上げた。
律は続けた。
「でも、前みたいに毎日連絡するかは分からない。忙しい週もある」
「分かる」
「今の、分かるは、本当に?」
朔は苦笑した。
「まだ怖い。でも、そういうものだって思いたい」
「なら、そのくらいで」
律はお茶を飲んだ。
立派な決意を求めない言い方が、ありがたかった。
「今度、飯だけ行こうか」
律が言った。
「冊子の打ち合わせじゃなくて」
朔はすぐに予定を聞きたくなった。
律の来週が埋まっていたら、誘いが消えたように感じるだろうか。
その不安ごと、普通に聞くことにした。
「来週の土曜は?」
「そこは無理。再来週の水曜、夜なら」
「俺、七時半以降になる」
「じゃあ八時」
短い相談で、予定が決まった。
十五分が近づくと、律が缶を持って立った。
「そろそろ」
「うん。聞いてくれてありがとう」
「またな」
朔は立ち上がり、空き缶を捨てた。
寂しさは完全には消えていなかった。
けれど、誰にも渡せないまま抱えている重さではなくなっていた。
別れたあと、朔は予定表に八時の食事を入れた。
内容の欄には、何も書かなかった。
会うための理由を、それ以上用意しなくてよかった。
残り1話になりました、最後までよろしくお願いします。




