第22話 紙になった帰り道
段ボール箱は、両手で抱えるほどの大きさもなかった。
中に詰められた紙をよけると、薄い冊子が十冊、透明の袋に入っていた。
朔は一冊を取り出し、まず部数を数えた。
十冊。
もう一度数えてから、律へ写真を送った。
『届いた。開けたけど、まだ読んでない』
返事は短かった。
『明日、見よう』
朔は一冊だけ机に置いた。
読まずに待つことが、初めて少し楽しかった。
翌日、二人は市民センターの机を借りた。
律は手を洗ってから冊子を取った。
表紙を開き、見開きの中心を指で押さえる。
紙は選んだとおり、少し薄かった。
裏の色がわずかに透けるが、配置を変えたので気にならない。
針金の位置も、文字の切れも問題なかった。
「どう?」
朔が聞くと、律は答えず、もう一度最初から読んだ。
その時間が長く感じられた。
どこか間違っていただろうか。画面ではよかった色が、薄すぎるだろうか。
朔は口を開きかけ、閉じた。
今、律は読んでいる。
感想を取り立てる必要はない。
「できたな」
律が言った。
「うん」
それ以上の言葉は、しばらく出てこなかった。
十冊から、自分用に一冊ずつ取った。
一冊ずつ、銭湯とパン屋へ。
残りをどう渡すかは、これから相談する。
余らせてはいけないという決まりはなかった。
朔は自分の分の奥付を見た。
文 榎本朔。
絵 朝倉律。
その二行の下に、取材協力の店名がある。
誰か一人の力で作ったように見せなくてよかった。
小さくても、何人かの時間が入った本だった。
*
銭湯の夫婦は、ちょうど荷物を整理していた。
建物を引き渡す準備で、古い椅子と籠が外へ並んでいる。
妻は冊子を受け取ると、手をエプロンで拭いた。
「本になったの」
声が少し高くなった。
夫は老眼鏡を取りに戻った。
二人が並んで読む間、朔と律は庭先で待った。
「ここ、直ってる」
夫が年のところを指した。
「教えていただいたので」
「細かいこと言って悪かったな」
「いえ」
朔は首を振った。
妻は、タイルの絵からなかなか目を離さなかった。
「毎日見てたのに、こんな形だったのね」
建物がなくなることを悲しむ長い話はしなかった。
ただ、冊子を畳まずに持ち、屋内の棚へ置いた。
置く場所を空けるために、隣の時計を少し動かした。
その小さな動作が、朔には嬉しかった。
パン屋では、店主がレジの下へしまった。
客の多い時間だったので、感想は聞けなかった。
「あとでゆっくり読む」
それだけ言って、また袋へパンを詰め始めた。
朔は礼を言い、律と外へ出た。
すぐに反応をもらえなくても、渡したことはなくならない。
以前より、少し待てるようになっていた。
律は残りからもう一冊を取り、その足で父に会いに行くと言った。
「見せるんだ」
「一冊、持っていく」
朔は頷いた。
一緒に行こうか、とは聞かなかった。
律が今必要としているのは、友人の付き添いではなかった。
*
その夜、律からメッセージが届いた。
『父さん、最後まで読んだ』
続いて、写真が一枚。
窓際の棚に、冊子が立てかけてあった。
画面には父の顔は写っていない。律が見せたい場所だけが写っていた。
朔は「見せてくれてありがとう」と返した。
電話が来たのは、それから少し後だった。
「今、話せる?」
律からそう聞かれたのは、久しぶりだった。
朔は洗い物を止め、手を拭いた。
「二十分くらいなら」
「十分でいい」
律は少し黙ってから、父が言ったことを話した。
「俺が描いてるのを、ずっとやめたと思ってたらしい」
「そうなんだ」
「やめたわけじゃないって言ったら、また描く場所があるならよかったって」
律は言葉を探した。
「嬉しかったけど、ちょっと腹も立った。お前のことで時間なかったんだよって、言いたくなった」
朔は何か慰めようとして、やめた。
父親だって病気になりたかったわけではない。
そんな正しいことを言うために、律は電話してきたのではなかった。
「そう思ったんだな」
「うん」
しばらく、互いの部屋の音だけが聞こえた。
律のほうで、湯が沸く音がした。
「父さんには言わなかった。今日は言い方が見つからなかった」
「うん」
「それだけ。誰かに言いたかった」
朔は机の上の冊子を見た。
律が何かを頼んでいる。
解決ではなく、聞くことを。
胸がいっぱいになったが、それを相手へ返して、こちらの感動を説明することはしなかった。
「聞いた」
朔は短く言った。
律が少し笑った。
「変な返事」
「ごめん。何て言えばいいか分からなくて」
「いいよ。変にまとめられるより」
電話は十二分で終わった。
朔は画面を伏せ、洗い物へ戻った。
助けてほしかった過去が戻らなくても、新しく声をかけてもらえる夜がある。
その夜を、大きな約束で壊したくなかった。
*
次の日、菜月に一冊を見せた。
会社の昼休みだった。
彼女は読み終えると、表紙を指した。
「この題名、ちょっと寂しいですね」
「そう?」
「でも、帰るところがある感じもします」
朔はその感想を、覚えておきたいと思った。
「もう一冊、友達に見せてもいいですか」
「律に確認してからでいい?」
「もちろん」
朔は即答せず、家へ持ち帰って連絡した。
律は構わないと答えた。
たった一冊について、確認の往復があった。
面倒だと思わなかった。
数日後、パン屋から短い連絡が届いた。
閉店後に読んだことと、手伝いに来ている家族にも見せたことが書かれていた。
最後に、入口へ置いて客に見せてもよいかと尋ねられた。
朔は律へ転送した。
今度は、よい話だからと先に承諾しなかった。
律は、店内で見る一冊としてなら構わないと答えた。
追加で印刷して配る話は、まだ別にしたいという。
朔も同意した。
二人の返事をまとめ、自由に持ち帰る配布ではなく、店で読むために置いてほしいと伝えた。
パン屋からは、それで十分だと返ってきた。
自分たちの知らない人へ届く最初の場所は、イベントの長机ではなく、取材させてもらった店の小さな棚になった。
朔は翌週、その店でパンを買った。
冊子はレジから少し離れた窓辺にあり、表紙の上へ『ご自由にご覧ください』と札が置かれていた。
誰も読んでいなかった。
少し残念だったが、ずっと立って待つのは違うと思った。
パンを選び、支払いをして店を出る。
振り返る前に、一度だけ足を止めた。
知らない人に手に取ってほしかった願いは、まだある。
それが今日叶うかどうかを、見張っていなくてもよかった。
朔は袋を抱え直し、律へ棚の写真を送った。店員に許可をもらい、人が写らないように撮ったものだった。
『置いてもらえた』
『うん』
律の返事は、それだけだった。
朔はクリームパンを一つ取り出し、駅前のベンチで食べた。
余った一つは、明日の朝に残した。
その週、本音買取所へ持っていく一冊を紙袋に入れた。
店の最後の営業日が近づいていた。
完成したものを渡せることが嬉しい。
しかしそれで、何か一区切りになってしまうことが怖い。
朔は二つの気持ちを抱えたまま、紙袋の口を折った。




