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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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第21話 十部の見積書

 見積書の合計は、二人が決めた上限より八百円高かった。

 紙を少し厚くすると、折り加工の料金が変わる。

 朔は不足分を自分が出せばよいと思った。

 画面の返信欄を開き、そこで手を止めた。


『予算を超えた。紙を一段薄くするか、部数を減らすか、費用を上げるか。俺は薄くして十部がいいと思う』

 律へ送ると、夜に返事が来た。

『同じ意見。見本触ってから決めよう』

 朔は笑った。

 思ったより、普通に話が進んだ。

 勝手に追加で払うより時間はかかったが、あとから何をしたか説明する必要はなかった。


 週末、二人で紙見本を見に行った。

 厚い紙は手触りがよかった。

 薄い紙も、折ってみると悪くない。透ける部分を考えて、裏表の配置を少し変えることになった。

 店員は急かさず、折り目の方向を教えてくれた。

 律は機械のことを少し知っていたが、専門の仕事だからと全部引き受けることはしなかった。

 分からないところは店員へ聞いた。

 朔も、その横で質問した。


 帰りに、銭湯の夫婦へ掲載確認の紙を届けた。

 夫は文章を二度読み、タイルを替えた年が一年前倒しになっていると教えてくれた。

「雪の年じゃなくて、その次の冬だよ。滑ったから、次の冬までに直した」

 朔はメモを確かめた。

 取材のときに自分がまとめた順序が、少し違っていた。

「直します」

 夫は頷いた。

「たいした違いじゃないけどな」

「でも、聞けてよかったです」

 朔は訂正箇所に線を引いた。

 感動する文章にすることより、まずその人の話を間違えずに置く必要があった。


 妻は絵を見て、入口の端を指した。

「ここに、いつも傘があったわね」

 絵には傘がなかった。

 律は「入れましょうか」と言いかけ、考えてから聞いた。

「この日はなかったので、そのままでもいいですか」

「もちろん。今の絵だもの」

 妻は笑った。

 全部の思い出を一枚へ詰めなくてよいことが、二人にも分かった。


     *


 パン屋では、閉店間際の窓を描いた絵を見せた。

 店主は翌朝の仕込みをしながら、文章の中の仕事の順番を直してくれた。

 朔が学生のときに書いた三行は、雰囲気だけで言い切った部分が多かった。

 夜に全部の生地をこねるわけではない。

 明日のために片づける仕事も、朝にならないと始められない仕事もある。

 古い文章をそのまま使わず、聞き直してよかった。


 店を出ると、律が言った。

「取材して書くの、前より向いてると思う」

 朔は嬉しかった。

 それを隠す必要はなかった。

「ありがとう」

 言ってから、付け足したくなった言い訳を飲み込んだ。

 まだ全然、とか、これくらい、とか。

 褒められた量を、自分で小さくしなくてもよかった。


 パン屋から駅へ向かう途中、律が紙の見本を折り直した。

 表紙の裏に、文章が少し透けている。

 朔はそれが気になり、やはり厚い紙へ戻したくなった。

「あと八百円なら」

 口にしかけ、途中で止めた。

 律が顔を上げた。

「気になる?」

「少し」

「じゃあ、何が気になるか見よう」

 二人はベンチに座り、明るいほうへ紙を向けた。

 文字が透けることより、表の絵のいちばん白い場所に重なることが気になるのだと分かった。

 裏面の文を数行動かせば、重なり方が変わる。

 費用を増やす以外にも、直し方はあった。


 朔は文の最後を二行削り、残りの位置を変えた。

 律は表紙の絵を少しだけ上へ寄せた。

 スマートフォンの画面で見ると、そのほうが余白も落ち着いた。

「こっち、好きかも」

 律が言った。

 朔もそう思った。

 制限をなくせばよいものになるとは限らない。

 十部という数字と、選んだ紙の薄さが、二人にもう一度考えさせた。


 ベンチを立つとき、律が小さな削りかすを拾った。

 紙の試し折りをしたあとに落ちたものだった。

 朔も足元を確かめた。

 作ることには、完成した面だけでなく、片づける場所がある。

 そういう時間まで一緒に過ごしても、急いで昔の関係と名前をつける必要はなかった。

 二人は別々の改札へ向かい、帰宅してから修正したデータを確認し合った。


 その夜、朔は新しい文章をまとめた。

 帰宅する人と、明日の準備をする人。

 同じ道を違う時間で使っていること。

 誰かの「帰る」は、別の誰かの「始める」と重なっている。

 抽象的なまとめに寄りそうになったら、パン屋の台の上へ戻った。

 粉を払った跡、最後まで残ったトレー、翌朝まで休ませる札。

 自分が見たものから書いた。


 翌週、会社では仕事の一覧表が試験的に使われ始めた。

 朔だけの希望ではなかった。菜月も、他の担当も、誰が何を抱えているか見えないと困ると話した。

 滝沢は最初、入力が増えると渋ったが、納期の重複が分かる点は認めた。

 すべてが改善したわけではない。

 夕方の追加依頼はまだ来る。

 それでも、朔はその場で一覧を開けるようになった。


「これを先にするなら、こっちは明日になります」

 そう言うと、滝沢が予定を確認した。

「じゃあ、明日で」

 拍子抜けする返事の日もあった。

「今日じゃないと困る」と言われる日もあり、そのときは誰と分けるかを相談した。

 断る練習というより、仕事の形を見えるようにする練習だった。


     *


 印刷へ出す前日、二人は最終データを確認した。

 名前、日付、掲載の許可、ページ順。

 朔は一度見た箇所も、送信するファイルを開いて見直した。

 価格を間違えた日のことが、まだ体に残っている。

 恥ずかしい記憶が、役に立つこともあるのだと思った。


「これで、いい?」

 律が聞いた。

「いい」

「十部」

「十部」

 二人で同じ数字を確認し、注文した。

 画面に受付完了が出た。

 拍手もしなかったし、抱き合いもしなかった。

 律は冷めたお茶を飲み、朔は肩を回した。


 それから、律が少し笑った。

「出したな」

「出した」

 八ページ、十部。

 三年前の計画より、ずっと小さかった。

 それでも、二人で最後の画面を見たのは初めてだった。


 帰る途中、朔は自分宛ての封筒を思い出した。

 あの人にだけは、助けてと言いたかった。

 その願いは、今も店に預けられている。

 取り戻していない律が、今、自分と作った紙を待っている。

 矛盾ではないのだと、ようやく思えた。

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