第20話 返事はいりませんの、その先
律から、会いたいと連絡が来た。
場所は、最初に会った喫茶店だった。
今度は一時間あるという。
朔はその一時間に、何を期待してよいのか分からなかった。
律は小さな紙の束を持ってきた。
八ページの白い見本だった。表紙には鉛筆で『帰り道』とだけ書いてある。
「続けるなら、ここからにしたい」
律は机へ置いた。
「十部。公開は確認してから。販売の予定は、今は入れない」
「うん」
「締め切りを決めるなら、二人で決める。できないと分かった時点で言う」
朔は一つずつメモした。
「俺からも、いい?」
「どうぞ」
「返事を待てる期限があるときは、最初に書く。その時間まで返事がなければ、申し込まないとか、進めないとか、先に決めたい」
律は考え、うなずいた。
「それなら分かる」
前の自分なら、相手が返事をくれれば済むと思っただろう。
待つ側にも、勝手に進めないための決め方があった。
話が一区切りつくと、律は鞄から店の案内を出した。
移転のお知らせだった。
「これ、お前が作った?」
「うん。仕事で」
「読みやすかった」
朔は礼を言った。
紙の端を見つめ、返却の話をこちらから出さないようにした。
「瓶は、戻さない」
律のほうから言った。
朔は顔を上げた。
「改めて考えた。でも、今は戻したくない」
「そっか」
喉の奥が少し詰まった。
その感覚を、頷いた顔で隠しきろうとはしなかった。
「少し、寂しい」
律が黙った。
「でも、それを戻す理由にしてほしいって意味じゃない」
朔はゆっくり言った。
「俺のほうの気持ちとして、そう思った」
律はしばらくして、うなずいた。
「分かった」
コーヒーが来た。
律は今回は砂糖を一袋入れた。
甘いものを完全にやめたのだと勝手に思っていた朔は、その動作を見て少し笑った。
「何?」
「いや。前、入れなかったから、もう飲まないんだと思ってた」
「今日は入れたい」
「そうだよな」
たったそれだけのことでも、人を固定したまま見ている自分がいた。
「封筒の文、まだ持ってる?」
律が聞いた。
「持ってる」
「返してほしいとかじゃない。あの、返事はいりませんってやつ」
律はカップを回した。
「今は、返事を聞いてもいいと思ってる」
朔は鞄から封筒を取り出した。
何度も開いたので、端が柔らかくなっていた。
「何を聞きたい?」
「朔が、あのとき何を思ってたのか」
朔は記憶を確かめた。
自分をよく見せるために、忙しかった話だけで埋めたくなかった。
でも、相手を傷つけた側だからといって、自分の当時の事情を全部消すのも違った。
「就職が決まらなくて、怖かった」
朔は言った。
「何か一つ失敗したら、全部駄目になる気がしてた。律のことは、俺より先へ行ってると思ってた」
「絵が描けたから?」
「それも。困ってても、最後は自分で何とかする人だと思ってた」
「何とかしてるふりは、してた」
「俺も、そのふりを信じるほうが楽だった」
朔は指を組んだ。
「来られるかって聞かれたとき、本当は少し、別の話かもしれないと思った。でも、聞いたら自分にできないことを頼まれるかもしれなくて、冊子の話にした」
初めて、そこまで言えた。
知らなかっただけではなかった。
知るのが怖かった部分もあった。
律はすぐには答えなかった。
店の奥で、皿の触れ合う音がした。
朔は沈黙を埋めずに待った。
「それは、今聞くと、腹立つな」
律が言った。
「うん」
「でも、言ってくれてよかった」
相反する二つの言葉を、朔はそのまま受け取った。
律は怒っていて、同時に話せたことをよかったと思っている。
どちらか一つに整理しなくてよかった。
「俺も、助けてくれるなら分かるはずだって、期待してた」
律は続けた。
「言わなくても分かる相手だと思いたかった。でも、お前に全部分かってもらうことと、必要な手伝いを頼むことは、別だった」
朔はうなずいた。
どちらの責任が何割かという話にはならなかった。
*
朔は、自分も人に読んでもらいたかったのだと話した。
イベントの申し込みをした本当の理由の、一部だった。
律は少し驚いたようだった。
「それなら、先に言ってくれればよかった」
「うん。お前が喜ぶと思ったって言ったほうが、言いやすかった」
「俺のためみたいにされると、断りにくい」
「そうだよな」
朔は頷いた。
善意に見える説明は、相手の断る場所を狭くすることがある。
自分の希望として言えば、自分で返事を受け取らなければならない。
「読んでもらうこと自体は、俺も嫌じゃない」
律は見本をめくった。
「ただ、まだ見せる相手を選びたい。十部作って、載せた店とか、知ってる人に渡してみたい」
「それでいい」
「本当に?」
朔は少し考えた。
もっと広い場所へ出したい気持ちはある。
それをなくしたことにするのも、また別の嘘だった。
「俺の希望はもう少し先まである。でも、この本は二人で作るから、今は十部でやりたい」
律はうなずいた。
「それなら分かる」
同じ気持ちになる必要はなかった。
違ったまま、今回はどこまでやるかを決められた。
会計の前に、律が封筒の手書きの文をもう一度見た。
「それ、作品には使わないでほしい」
朔は顔を上げた。
「使うつもりはなかった。でも、確認してくれてありがとう」
「今の話も。どこかへ出すなら、先に聞いて」
「うん」
自分に届いた手紙だからといって、そこに書かれた人の気持ちを、自由に使えるわけではない。
朔は冊子の題材を、町の具体的な風景から選んだことを、今はよかったと思った。
自分たちの関係を人に見せて、完成したものにする必要はなかった。
帰り際、二人は冊子のためにすることを確認した。
朔は文章の見直しと、店への掲載確認。
律は絵とページの組み方。
印刷の注文は、二人で最終データを見るまでしない。
次の連絡は、一週間後。
決まったことを、短い文にして互いの画面へ残した。
「昔みたいには、ならないかもしれない」
店の外で、律が言った。
朔はすぐに否定しなかった。
「うん」
「それでも、作ってみたい」
「俺も」
信号が変わった。
今度は二人とも同じ駅へ向かったが、ホームでは別の方向へ分かれた。
朔は電車の中で、封筒の鉛筆の文字を見た。
返事はいりません。
消してはいけないと思った。
あのときの律には、その一行が必要だった。
だから、新しい紙を一枚入れた。
『返事を聞いてもいい。』
その日の言葉を、日付と一緒に書いた。
古い気持ちを塗りつぶさずに、新しいものを隣へ置いた。




