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あなたの「大丈夫」、買い取ります  作者: きびだんご


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19/24

第19話 店じまいの紙

 本音買取所の黒板に、白い紙が貼られていた。

 赤い字で『現店舗での営業終了について』と書かれている。

 朔は足を止めた。

 自分の瓶はもうない。

 それなのに、手の先が急に冷たくなった。


 引き戸を開けると、灯子が脚立の上から振り向いた。

「いらっしゃい。下にいると危ないので、少し横へ」

 棚のいちばん上から、空の箱を下ろしていた。

 朔は反射的に受け取ろうとし、何を持てばいいか聞いた。

「この軽い箱だけお願いします」

 言われたものを受け取り、床へ置いた。


「閉めるんですか」

「この場所は。建物の配管工事と改修が入ります。前から話があったのですが、日程が決まりました」

「瓶は?」

「すべて移します。返却できなくなるわけではありません」

 灯子は貼り紙の続きが見えるよう、戸を少し開けた。

 小さな字で、保管は継続すること、新しい相談場所は控えに記載の連絡先から案内することが書かれていた。

 朔は最後まで読まず、最初の行だけで結論を出していた。


「新しい店はどこですか」

「しばらくは修復の作業室の一角で、予約をいただく形になります。ここから電車で二駅です」

「遠くなくなるんですね」

「少し歩きます」

 灯子は地図を見せた。

 魔法の店が消えて、二度と戻れない話ではなかった。

 それでも朔は、路地の電球がなくなることを寂しく思った。


 入口の説明を大きく書き直せないかと、灯子から正式に依頼された。

 今回は金額と作業時間を先に確認した。

 朔は会社の仕事が落ち着く来週ならできると伝えた。

「急ぎなら、他の方を」

「来週で間に合います」

 それで決まった。


     *


 片づけを手伝う範囲は、空箱と家具だけだった。

 瓶や台帳の移動は灯子が行う。番号の照合と、本人情報の管理がある。

 朔は運ぶものが少ないことに、以前ほど落ち込まなかった。

 全部に関わらなくても、手伝いは成立する。


 引き出しの数を遠くから見ながら、朔は律の瓶がどこかにあると思った。

 この棚にある最後の日が近づいている。

 そのことを伝えれば、律は戻す気になるだろうか。

 そういう考えが一瞬浮かび、自分で驚いた。

 なくなるわけではないと、今説明されたばかりなのに。


「案内、律にも届きますか」

「登録されている連絡先へ、順番にお送りします」

「俺から急がせる必要はないですね」

 灯子は朔を見た。

「ありません」

 短く、はっきりした返事だった。

 朔はうなずいた。


 入口で、初めて見る若い女性が貼り紙を読んでいた。

 灯子が声をかけると、今日は相談できるかと聞かれた。

 予約の客が入るまで、二十分だけ空いているという。

 女性は迷い、説明だけ聞くことにした。

 朔は作業机の画面を閉じ、外へ出た。

 売るかどうかを決める前の顔を、見続ける必要はなかった。


 近くの自動販売機で水を買い、路地の端で待った。

 自分が最初に来た夜も、灯子にとっては幾つもある営業時間の一つだった。

 特別に選ばれて招かれたわけではない。

 困っている人が、見つけられる場所に明かりがついていた。

 その仕組みを続けるには、家賃も、紙も、店主が休む時間もいる。

 奇妙な力があるからといって、誰かが無限に人を受け止められるわけではなかった。


 二十分ほどして戻ると、女性は新しい案内を手に帰るところだった。

 売ったかどうかは、朔には分からなかった。

 灯子も何も話さなかった。

 ただ、説明札の一か所に赤い線が引かれていた。

「この一文、二つに分けられますか」

 灯子が聞いた。

 朔は読み返し、主語が変わるところで文を切った。

 誰かが実際に読んだことで、紙がまた変わる。

 そういう仕事なら、今の自分にもできた。


 作業の途中、灯子が昼食を取っていないことに気づいた。

 朔は食べるよう命じるのではなく、何分席を外せばよいか尋ねた。

「十五分、お願いします」

「その間、俺も外で食べます」

 別々に食事をして、決めた時間に戻った。

 店主が誰かを待たせずに一日を終えることだけが、よい営業ではなかった。


 奥の作業机から、小さな額が出てきた。

 灯子と姉の写真だった。

 その裏には、古い封筒が挟まっていた。

 灯子は宛名を確かめ、自分の鞄へ入れた。

「お姉さんに、連絡しました?」

 朔は聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。

 灯子は答えるかどうか少し考えた。

「引っ越しを知らせました。手伝いに来ると言ってくれています」

「来てもらうんですか」

「はい。午後二時間だけ」

 朔は笑った。

 店主まで、自分と同じように時間を決めている。


「瓶は、戻すんですか」

 聞いてしまったあと、すぐに言い足した。

「答えなくてもいいです」

「今は、決めていません」

 灯子は棚を見上げた。

「引っ越しの日に戻せば、きれいな区切りになりますが。それだけで決めたくはないので」

 朔は頷いた。

 物語みたいな日付に合わせて、気持ちまで整えなくてもよかった。


     *


 新しい案内を作るとき、朔は最初の見出しを変えた。

『移転します。本音の保管と返却は続きます』

 営業終了という言葉を先頭から外し、何が続くのかを大きくした。

 灯子は印刷見本を見て、こちらのほうがよいと言った。

 連絡手段も二つ載せた。電話が苦手な人は手紙を送れる。住所は控えに付ける別紙へ記載した。

 個人の連絡先が誰にでも見える形にはしなかった。

 細かい話を一つずつ詰めるほうが、立派な約束より安心を作れることがあった。


 作業を終えると、朔は壁の時計を見た。

 店に初めて来た夜から、ずいぶん時間が経っていた。

 仕事が終わるとここへ寄れば、話を聞いてもらえた。

 その習慣が変わる。

 知らない店へ入る前の自分に戻るような気がして、怖かった。


「移転したら、今みたいにふらっとは来られないですよね」

「相談は予約をお願いします。時間を取るためにも」

「分かりました」

 朔は少し間を置いて言った。

「助かってました。ここが開いてると」

 灯子は顔を上げた。

「ありがとうございます」

 それ以上、毎日来ていいとも、いつでも受け止めるとも言わなかった。

 朔も、その言葉を求めなかった。


 帰りに路地を振り返ると、電球の下で新しい紙が白く見えた。

 店が続くことは書いてある。

 同じ場所には戻れないことも書いてある。

 朔は新しい住所を携帯に保存し、路地を出た。

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