第17話 大丈夫では間に合わない
冊子のことを考えないようにすると、会社の仕事が増えた。
正確には、仕事の量は前から多かった。
朔がそこへ全部の時間を流し込むようになったのだ。
滝沢から渡される修正を引き受け、休んだ社員の案件も少し受けた。
できた分は確かに役に立った。
ありがとうと言われると、その間だけ律とのことを考えずに済んだ。
夕方、菜月に「帰らないんですか」と聞かれて、もう少しと答えた。
そのもう少しが、毎晩二時間になった。
金曜日の朝、朔は取引先の電話でミスを知った。
納品前の最終確認用に送ったデータに、修正前の価格が残っていた。
まだ印刷には回っていなかったが、顧客の社内では承認が進みかけていた。
メールの添付ファイル名は『最終』だった。
同じ名前の古いファイルを、別のフォルダから選んでいた。
「すぐ直します」
朔は受話器を握った。
「今日の夕方までに」
滝沢が隣から手を伸ばし、保留ボタンを押した。
「待って。ほかの案件は?」
「大丈夫です」
言ってから、机の端に積まれた指示書が見えた。
青い付箋が三枚、赤い付箋が二枚。
どれも、自分の中だけで順番をつけていた。
「何が何時までか、出して」
滝沢の声は硬かった。
朔は一覧を作ろうとして、手が止まった。
どれも今日中のつもりだった。
誰にも、その全部を同時に引き受けたとは言っていなかった。
打ち合わせ室で、菜月も加わって仕事を分けた。
価格の修正は朔が担当し、照合は滝沢が受け持つ。
別案件の画像差し替えは菜月へ。
滝沢は顧客に事情を説明し、確認時間を調整した。
会社の仕組みが突然よくなったわけではなかった。誰も機嫌よくしてはいなかった。
朔のミスで、他の人の予定も変わった。
そのことは、眠れていなかったからといって消えなかった。
「できないなら、先に言ってくれないと」
滝沢に言われ、朔は唇を噛んだ。
先に言える雰囲気だったか、と思った。
いつも今日中と渡してきたのは誰か、とも思った。
けれど、それを今ぶつければ、自分の確認漏れの話まで曖昧になった。
「添付を確認しなかったのは、俺のミスです」
朔は言った。
「それと、受けている量を共有できていませんでした。今日の対応が終わったあと、割り振りを相談させてください」
滝沢は時計を見た。
「まず、今日の分」
「はい」
すぐに理解し合えたわけではなかった。
それでも、後の話を消さずに残せた。
*
菜月は昼休みをずらして作業した。
朔が礼を言うと、彼女は画面から目を離さず答えた。
「確認の人、別にしたほうがいいですね」
「俺が全部見れば」
言いかけ、止まった。
菜月がこちらを見た。
「それで今回、抜けたんじゃないですか」
「そうだね」
朔は椅子を引いた。
「俺が直して、滝沢さんに照合頼む。瀬尾さんの分は、俺が最後に見る。それでいい?」
「その順なら」
役割が決まると、作業は進んだ。
助けてもらうことは、自分の失敗を誰かに丸ごと渡すことではなかった。
午後、滝沢が缶コーヒーを買って戻ってきた。
朔の机へ置きかけて、手を止めた。
「甘いのでいい?」
「今日は、いらないです」
「あ、そう」
滝沢は自分の机へ持っていった。
以前の朔なら、気遣いを断ることにも理由を並べただろう。
今日は胃が重かった。それだけで断れた。
しばらくして、滝沢が空いている椅子へ座った。
「俺も、全部見えてなかった」
画面を指した。
「頼んだら大丈夫って返ってくるから、ほかに何を持ってるか、確認を飛ばしてた」
朔はすぐに、いえ自分が悪いので、と言いかけた。
そこで止まった。
自分のミスを認めたうえで、相手の確認不足まで取り消す必要はない。
「次から、一覧で見てもらえると助かります」
「そうしよう」
滝沢は少し言いにくそうに続けた。
「ただ、受けたあと黙って遅れるのは、やめてほしい」
「はい。それは、早めに言います」
短い合意だった。
どちらか一人が悪者になって終わる話ではなかった。
菜月は二人の会話を聞き、自分の案件も同じ一覧へ入れてよいか尋ねた。
滝沢が頷くと、彼女はさっそく入力を始めた。
朔だけの問題を大げさに扱っているのだという気まずさが、少し減った。
困り方が似ている人が、同じ部屋にいた。
自分が黙って耐えることは、その人の働きやすさを守ることにはならなかった。
滝沢が席へ戻ったあと、朔は菜月へ確認を頼んだ。
「あとで十分だけ、保存場所の整理を一緒に見てほしい」
「四時なら」
「じゃあ、その時間で」
机の端へ、四時、と書いた紙を置いた。
夕方、正しいデータを顧客へ送り、承認の取り直しが済んだ。
印刷工程への影響は、一日の調整で収まった。
朔は経緯と再発を防ぐ手順を短く書いた。
保存場所を一本化すること。
送信前に添付したファイルを実際に開くこと。
納期が重なる仕事は、受けた時点で一覧へ載せること。
簡単なことばかりだった。
簡単なことをやる余裕をなくしていた。
帰るころ、頭が重くなった。
駅の階段で足を止め、手すりに寄りかかった。
眠っていないせいだと思ったが、家で体温を測ると熱があった。
冷蔵庫には卵と、期限の近い牛乳しかなかった。
先月と似た部屋だった。
水を飲むために立ち上がると、膝が少し震えた。
千帆へ連絡しようとして、画面を開いた。
今日は金曜日だ。仕事のあとに予定があるかもしれない。
律には、今は負担を増やしたくない。
誰かの事情を想像するたび、送る先が減っていった。
朔は、買い戻したときの言葉を思い出した。
来てほしかった。
また同じように、誰にも言わずに待つのか。
『熱がある。食べ物がないから、帰りに買ってきてもらえる? 今日は難しければそう言って』
千帆へ送った。
画面を伏せず、そのまま机へ置いた。
送っただけで楽になるかと思ったが、断られるのが怖くて、むしろ心臓が速くなった。
返事は十分後に来た。
『今日は遠いところにいて、行けない。配達頼めそう?』
朔は画面を見つめた。
来られない。
文字を読んだ瞬間、古い寂しさが戻ってきた。
分かっていたのに、傷ついた。
でも、その下に、次のメッセージが届いた。
『注文だけ一緒に見る? 電話ならできる』
断られたのは、今夜来ることだった。
自分そのものではなかった。
『お願い』
短く送った。
通話がつながると、千帆はまず住所が変わっていないか確認した。
声が聞こえた。
水を取りに行く間も、通話は切れなかった。




