第9話
総督府から第一検問所へと向かう軍用馬車の中。
車輪がゴトゴトと規則正しい音を立てる車内で、私は膝の上に広げた書類の最終チェックに余念がなかった。
「よし……部隊動員の承認書の確認、近衛兵の私的動員による軍規違反、独断の免税命令による協定違反、それから不当身柄拘束の未遂……うん、どこからどう突いても一発で王室監査行きね。完璧だわ」
我ながら惚れ惚れするような法的包囲網である。
これなら、いかに王族の特権を振りかざそうと、ユリアン殿下は一歩もこの領地に足を踏み入れることはできない。
「ふふふ……思い知らせてやるわ。社会を舐めたボンボンに、大人のコンプライアンスという名の鉄槌を……」
悪役令嬢らしい不敵な笑みを浮かべ、ふと向かいの座席に視線を戻した。
「ウルリヒさん?」
そこに座る大男は、先ほどから一言も発していなかった。
腕を組み、長い足を窮屈そうに折り曲げ、眉間にくっきりと深い溝を刻んでいる。
いつもなら「ふん、小僧め」と鼻で笑うはずの男が、まるでこれから世界を滅ぼす魔王と戦うかのような、異様な悲壮感を漂わせていた。
「どうしたんですか? お腹でも痛いんですか? 朝のベーコン、焼きすぎました?」
「胃は痛くない」
「じゃあ何ですか? まさか、相手が王子だからって怖気づいたとか――」
「ドロテア」
低く、重い声で名を呼ばれ、私の言葉が止まった。
ウルリヒは組んでいた腕を解くと、大きな手を伸ばしてきた。
そして――私の膝の上に置かれていた右手を、無骨な掌でギュッと包み込んだ。
「ひゃっ!?」
思わず変な声が出た。
手が大きい。私の手の二倍近くある。
剣だこのある温かい手だった。普段、鍋を持つ時には見たことのないぎこちなさで、私の指を包んでいる。
「あの、ウルリヒさん? どうしたんですか?」
「あいつは」
ウルリヒは私の瞳を真っ直ぐに見据えていた。
目が合うと、彼は口を開いて、また閉じた。
何をそんなに言いにくそうにしているのか。こちらまで落ち着かなくなる。
「あいつは、お前の元婚約者だろう」
「ええ、まあ、書類上はそうでしたね」
「もし……あいつが、お前の前に跪いて、反省を口にしたらどうする?」
「はい?」
突拍子もない質問に、私は目を丸くした。
ウルリヒは視線をわずかに伏せ、悔しそうに唇を噛み締めた。
「あいつは王族だ。見栄えもいい。……お前が抜けた穴の大きさに気づいて、泣いて縋り付き、『お前がいないとダメだ、戻ってきてくれ』と許しを請うてきたら……お前は、王都へ戻るのか?」
「俺のような、愛想もへったくれもない武官の手料理より……王族の妃の座と、華やかな王宮の暮らしの方が、お前にとっては相応しいのではないか。……お前は、あいつの手を取るのか?」
絞り出すような、掠れた問いかけ。
私の手を包む指が、わずかに震えた。
普段は万能で、大工仕事も料理も完璧で、泣く子も黙る北の総督。
そんな男が、こんなにも不器用で、みっともない牽制をしてきている。
私は数秒間、ぽかんと口を開けてウルリヒを見つめていたが――
「ぶっ!」
次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。
「あっははははははは! なに言ってるんですか閣下! あはははは、お腹痛い!」
「なっ! 笑うな! 俺は至極真面目に――」
ウルリヒが耳まで真っ赤にして怒鳴ろうとするのを、私は笑い涙を指先で拭いながら制した。
「戻るわけないでしょうが!!」
「え?」
「あんな残業代ゼロ! 有給休暇ゼロ! 婚約者を追い出したあとに連れ戻そうとするバカが上司の超絶ブラック職場に、誰が好き好んで戻るんですか!? 死んでも嫌ですよ!!」
「そこなのか? 理由はお前の、その異常なまでの労働環境への執着なのか?」
「当たり前です! 人間にとって睡眠と休日は命より重いんですよ!」
私が鼻息荒く言い放つと、ウルリヒは毒気を抜かれたように目をパチクリとさせた。
本当に、この男は私のことを分かっていない。
私は握られたままの手を、今度は自分の指を絡めるようにして、ぎゅっと握り返した。
「それに……」
「?」
「ウルリヒさん、屋根の修理は私が書類を読まなくてもしてくれたでしょう。断っても、シチューを取り上げなかった。そういうところが、好きなんです」
口に出すと、急に自分の顔がカッと熱くなった。
恥ずかしさを誤魔化すように、私はそっぽを向いて早口で捲し立てる。
「温かいシチューを作ってくれて、雨漏りを直してくれて、一日一時間の昼寝を認めてくれて……私、ここの生活が大好きなんです。あんな男に百万回土下座されたって、指一本触れさせませんよ」
「だから……私を王都に返したくないなら、もっと堂々としててください。総督閣下なんでしょう?」
言い終えて、恐る恐るチラリとウルリヒの方を見た。
息が詰まった。
ウルリヒは片手で顔の下半分を覆い、固まっていた。
その隙間から覗く耳たぶが、リンゴのように真っ赤に染まっている。
灰色の瞳が、信じられないほど熱い光を帯びて私を射抜いていた。
ウルリヒが息を吐いた。
「俺も、お前にここにいてほしい。仕事ができるからだけじゃない」
「今のは、聞き流せないんですけど」
続きを待つ間、彼の親指が私の手の甲を一度だけ撫でた。
私が握り返したところで、馬車が止まった。
御者が外から声を張り上げる。
「閣下! 第一検問所へ到着いたしました!」
窓の外から、けたたましい怒号と金属音が響いてくる。
『ドロテアを出せ!! 反逆者ドロテア・フォン・ケスラーを我が元へ引き渡せ!!』
聞き覚えのある、甲高い、情けないユリアン殿下の声だった。
私とウルリヒは視線を交わした。
ウルリヒは先に私を降ろすため、扉へ手を伸ばした。眉間の皺は、さっきより浅くなっている。
私は書類を抱え直し、にっこり笑った。
「さあ、行きましょうか閣下」
「ああ。……泣かせてやる」
馬車を降りるまで、つないだ手は離さなかった。
王子の声を聞いても、もう逃げたいとは思わなかった。




