第10話
第一検問所を囲む、頑強な石造りの城壁。
その門の外側に、揃いの白銀の甲冑をまとった近衛兵五十騎と、豪奢な馬車と、荷物を積んだ護衛用の馬車が一台ずつ、砂煙を上げて陣取っていた。
馬車の前に立ち、仁王立ちで喚き散らしているのは――ユリアン第二王子だった。
「開門しろ! 我が名はユリアン! この国の第二王子であるぞ! 反逆者ドロテア・フォン・ケスラーを我が元へ速やかに引き渡せ!!」
その声は甲高く、焦燥感に満ちていた。
見れば、王立学院で自慢していた輝く金髪はボサボサに乱れ、目の下には私が見たこともないほど濃い青黒いクマが張り付いている。頬はげっそりとこけ、仕立ての良いマントには泥の染みがついていた。
完全に、連日連夜の残業とクレーム対応で精神を病んだ人間の姿だ。
同情はしないけれど、見覚えがありすぎる。
ギィィィ……ドォン。
重厚な鉄の跳ね橋が下ろされ、門がゆっくりと開いた。
現れたのは、漆黒の軍服を着た総督府の兵たち――そして、その中央を歩く私とウルリヒだった。
「フッ! ようやく出てきたか、ドロテア!」
私の姿を認めた瞬間、ユリアンの顔に醜悪な安堵と、歪んだ優越感が戻った。
やつれきった顔でニチャリと笑い、大股でこちらへ歩み寄ってくる。
「探したぞ、ドロテア! こんな辺境に逃げ込んでいようとはな! だがもう安心しろ、私が直々に迎えに来てやった!」
迎えに来てやった。
その一言を聞いた瞬間、私の後ろに立つウルリヒの周囲の気温が、氷点下十度くらいまで急降下したのを感じた。ゴキリ、と拳を握りしめる音が聞こえる。
私は片手をスッと後ろへ回し、「待ちなさい」とウルリヒの太腿を小突いて制した。
ユリアンは偉そうに胸を張り、尊大に顎をしゃくった。
「夜会でお前が取り乱して逃げ出した無礼、そして公務を放棄して王都を混乱に陥れた罪……本来なら死罪に値するが、特別に不問にしてやろう! 私の寛大さに泣いて感謝するがいい! さあ、すぐに馬車に乗れ。王都へ戻り、溜まりに溜まった書類を片付けるのだ!」
上から目線。
恩着せがましい施し。
そして当たり前のように前提とされた「お前がタダ働きしろ」という要求。
ここまで来て、それなのか。
謝罪の一言もなかった。
ここまで清々しいほどのクズっぷりを見せてくれると、こちらの罪悪感も完全にゼロになるというものだ。
私は胸元に手を当て、小首を傾げた。
そして――社交界仕込みの、冷え切った営業用スマイルを唇に貼り付けた。
「恐れ入りますが、どちら様でしょうか?」
「は?」
ユリアンの動きがピタリと止まった。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、という表現がこれほど似合う人間を私は他に知らない。
「な、何を言っている……? ドロテア、私だぞ! お前の婚約者だったユリアン殿下だ!」
「ユリアン……? ああ、王立学院の夜会で、男爵令嬢様と抱き合って婚約破棄を宣言なさった、あのユリアン様ですか」
「そ、そうだ! 分かっているではないか!」
「ええ、存じ上げております。ですが当総督府におきましては、事前の面会申請書が提出されておりません。本日の総合受付業務は午後三時をもって終了しておりますので、アポなしでの立ち入りおよび面会はお断りしております。お引き取りください」
ペラリ、と手元の受付規程の書類をめくって見せる。
「ふ、ふざけるなッ!!」
ユリアンが激昂し、顔を真っ赤にして唾を飛ばした。
「受付だと!? アポだと!? 私は王族だぞ! 王族の命令が聞けんというのか! お前は国家反逆罪の容疑者なのだぞ! 近衛兵、何を突っ立っている! その女を捕縛しろ!」
ユリアンの怒鳴り声に応じ、背後の近衛兵たちが剣の柄に手をかけようとした――その瞬間。
「動くな」
私の静かな、だが通る声が検問所前の広場に響き渡った。
私は手元の分厚い革張りのファイルをバサリと広げ、近衛隊長へと鋭い視線を向けた。
「近衛隊長さん。貴方、軍務規程を忘れたのですか?」
「な、何!?」
「王宮近衛令第十二条。『王族が公務外で近衛兵を十名以上動員する場合、貴族院議長および管轄領主の事前承認書を要する』。承認書はお持ちですか? 持っていませんよね」
「殿下より、承認は取得済みと伺っておりました。令状は……殿下、お持ちなのですね?」
ユリアンは答えず、隊長を睨みつけた。
隊長が一歩後ずさる。私は容赦無く畳み掛けた。
「承認書のない部隊動員は私兵の不法運用に該当します。さらに地方自治法第四条に基づき、当総督府は入領を拒否します。令状も承認書もないと知ったうえで門を破れば、貴方たちも軍法会議で責任を問われます。ここで剣から手を離しなさい」
「ひっ!?」
近衛兵たちの顔から、一斉に血の気が引いた。
彼らはユリアンに「反逆者を捕まえる公務だ」と騙されて連れてこられただけなのだ。自分たちが犯罪者になると知った瞬間、腰の剣からサッと手を離した。
「おい、何を怯えている! 構わん、捕まえろと言っているだろうが!」
ユリアンが狂ったように叫ぶが、近衛兵たちは誰一人として動かない。
承認書も令状も出てこなかった。
ウルリヒが国王の命令書を掲げ、隊長へ内容を読み聞かせる。隊長はその場で王子に帰還を求めたが、ユリアンは「偽物だ」と喚くばかりだった。
問答と書状の確認で、時計の針は五時を回っていた。
「無駄ですよ、ユリアン様」
私は氷のように冷たい声で、元婚約者を見据えた。
「私はすでにケスラー伯爵家から正式に除籍され、平民としてこちらのラートブルク総督府と正式な雇用契約を結んだ筆頭財務顧問です。貴方に私へ命令する権利も、連れ戻す権利も、一ミリたりとも存在しません」
「だ、だが! お前がいなければ、西領の関税が……王宮の予算が破綻するんだぞ! 誰があの書類を片付けるというのだ!」
「知りません」
私は即答した。
「愛の力で片付ければよろしいのではなくて? マリアンネ様とご一緒に」
「マリアンネにできるわけがないだろうがッ! あの女は字を読むだけで知恵熱を出す無能だぞッ!!」
本音が出た。
あれだけ夜会で「可憐な私の薔薇」とか言って溺愛していたくせに、利用価値がないと分かった瞬間にこの言い草である。つくづく救いようのない男だ。
「貴方の都合など、私には関係ありません。二度と私の前に現れないでください」
私が踵を返そうとした、その時だった。
「だ、だまれ! 生意気な口を利くなぁぁぁッ!!」
完全に理性を失ったユリアンが、血走った目で叫びながら、私の腕を掴もうと猛然と飛びかかってきた。
「戻れ! 戻って私のために働けぇぇぇッ!!」
その汚らわしい手が、私の服の袖に触れようとした瞬間。
ドォォォォンッ!!
空気を切り裂く轟音と共に、私の視界からユリアンの姿が文字通り消え失せた。




