第11話
ズドォォォォンッ!!
鈍く、重い衝撃音が検問所の広場に木霊した。
私に向かって飛びかかってきていたはずのユリアン殿下が、視界から真横へと消え去り――そのまま数歩先の地面に尻もちをつき、勢いのまま泥へ転がり込んだ。
ズザザザザザッ!
「ぎゃふぅっ!? ごぼっ!?」
泥だらけになって地面に突っ込み、蛙がつぶれたような情けない悲鳴を上げる元婚約者。
豪奢だったはずの絹の上着は無残に破れ、鼻からは派手に鮮血が噴き出していた。
私の目の前には。
足を振り抜いた姿勢のまま、漆黒のマントを夕風にはためかせる大男――ウルリヒが立っていた。
「あ」
私が小さく声を漏らすと、ウルリヒはゆっくりと足を下ろし、冷え切った灰色の瞳で泥まみれの王子を見下ろした。
抜刀すらしていない。ただの前蹴り一発である。
腕を掴まれる寸前、ウルリヒが私を背後へ庇い、踏み込んできた王子を蹴り返したのだ。
「ひ、ひぃぃっ!? な、何をする貴様ぁぁぁッ!!」
地面を這いずり回りながら、ユリアンが血と泥にまみれた顔を上げて絶叫した。
「無礼者! 万死に値するぞ! 私は第二王子ユリアンだぞ! 王族に手を出して、ただで済むと思っているのかぁッ!」
「騒々しい蝿だな」
ウルリヒは眉一つ動かさず、ずしり、ずしりと重い足取りでユリアンへと歩み寄った。
その全身から放たれるのは、戦場で数多の敵首を刎ね飛ばしてきた本物の武神の殺気だ。
広場にいた近衛兵たち全員が、その圧倒的な威圧感の前に金縛りに遭ったように震え上がっている。
「我が総督府の筆頭顧問に、その薄汚れた手を伸ばそうとしたな」
ウルリヒの低く地を這うような声が、ユリアンの鼓膜を直接揺さぶる。
「お、おい! 近衛兵、何を突っ立っている! この男を斬れ! 早く斬り捨てろぉッ!」
「無駄だ、小僧」
ウルリヒは懐から、見事な金糸の刺繍が施された書状を取り出し、ユリアンの泥だらけの顔面へ無造作に叩きつけた。
バサリ、と音を立てて落ちた書状の末尾には――国王陛下の玉璽と、貴族院議長の署名がくっきりと押されていた。
「な……んだ、これは!?」
「先ほど示した、国王陛下と貴族院の命令書だ。読め」
ウルリヒは冷淡に告げた。
「『第二王子ユリアンの決裁権を停止する。無許可の部隊動員を中止させ、抵抗する場合は身柄を確保し、王都へ護送せよ』。王位継承権の剥奪と王籍離脱についても、審議に入るとある」
「な……っ!?」
ユリアンの顔から、血の気が完全に引いた。
鼻血で真っ赤に染まった顔が、急速に青白く変色していく。
「う、嘘だ! 父上が……貴族院が、そんなことを認めるはずがない! 私は王位継承者だぞ! 優秀な第二王子なのだぞ!!」
「優秀な王子が、減税の書類にホイホイ判子を押して国庫に四千万ゴールドの大穴を開けますか?」
私がウルリヒの隣に並び、腕を組んで冷ややかに見下ろすと、ユリアンはビクゥッと肩を跳ねさせた。
「貴方がマリアンネ様とよろしくやっている間に、貴族院も国王陛下もとっくに事態を把握していたんですよ。貴方の無能さを隠して書類を片付けていた私が消えたせいで、貴方が実際に何をしていたのか、隠しようがなくなっただけの話です」
「ド、ドロテア! 頼む、嘘だと言ってくれ! お前が王都に戻れば、全て元通りになるんだろう!? お前が書類を片付ければ、父上も私を許してくれる! お前が私の婚約者に戻れば――」
「戻りません」
私は一ミリの迷いもなく、首を横に振った。
「婚約を破棄したのは貴方です。私を要らないと仰ったのも貴方です。いま困っているからといって、なかったことにはできません」
「あんな女のためにお前を捨てたのが間違いだったんだぁぁぁッ!!」
ユリアンは頭を抱えて絶叫した。
「マリアンネの奴、宝石を買う金まで財務省に止められたと知った瞬間、別の貴族の男に色目を使い始めたんだぞ! 私の執務室でインクをぶちまけて書類を台無しにしたくせに、『殿下が怒るから嫌い』だと!? あんな性悪女、愛せるものかぁッ!!」
最初から中身のないお花畑同士の恋愛なんて、現実のトラブルに直面した瞬間に崩壊するに決まっているのだ。
「隊長さん」
私が声をかけると、呆然と立ち尽くしていた近衛隊長がハッと我に返った。
「は、はいっ!」
「ユリアン殿下の身柄を確保して、速やかに王都へ連行してください。総督府の兵も護送につけます。命令書の通り、法務局へ引き渡してください」
「は、ハッ! 直ちに!!」
近衛兵たちが一斉に駆け寄り、泥だらけのユリアンの両腕を力づくでねじり上げた。
「ぎゃあっ! 痛い、離せ! 無礼者、私は王子だぞ! ドロテア! おいドロテアァァッ! 頼む、助けてくれ! 悪かった、私が悪かったからぁぁぁッ!!」
隊長は、ユリアンの手から指揮用の杖を取り上げた。
「お返しすることはできません。こちらも提出いたします」
いつも一礼して命令を待っていた男が、もう頭を下げなかった。ユリアンは杖を追って指を伸ばしたが、誰もその手に触れようとしない。
「待て。せめて、私の馬車で……」
「護送車へお乗りください」
荷物を下ろした護衛用の馬車へ引かれると、ユリアンの膝が崩れた。土の上で何度も足を踏ん張り、子供のように首を振る。
「嫌だ、あんなところに乗れるか! ドロテア、お前からも言え! 言ってくれ!」
声の最後が裏返った。命令が通らないと分かった顔を、私は黙って見ていた。
泣き叫び、鼻水と涙を撒き散らしながら、ユリアンは馬車へと引きずられていった。
その惨めな姿を、私は眉一つ動かさずに見送った。
「ドロテアァァァッ! お願いだ、戻ってきてくれぇぇぇぇぇぇ……ッ!!」
馬車の車窓から伸びる手。
私は懐から時計を取り出し、針を確かめた。
「午後五時十五分。定時を過ぎておりますので、本日の業務は終了いたしました。残業代の出ないご相談は、一切受け付けておりません」
バタンッ、と馬車の扉が閉ざされ、近衛兵の馬列が砂煙を上げて王都へと去っていった。
もう二度と、あの男がこの地に足を踏み入れることはないだろう。
静寂が、検問所の広場に戻ってきた。
ふう、と深く息を吐き出す。
肩の荷が、すとんと落ちた気がした。
三年間、私を縛り付け、すり減らし続けてきた過去の呪縛が、完全に消え去ったのだ。
「終わったな」
隣から、低く温かい声が降ってきた。
見上げると、ウルリヒがいつもの仏頂面で、だがどこかホッとしたような瞳で私を見つめていた。
「怪我はないか? 怖くはなかったか?」
「怪我なんてありませんよ。ウルリヒさんが一撃で吹き飛ばしてくれましたし」
「当然だ。俺の前で、お前に触れさせなどするものか」
ウルリヒは大きな手で私の頭をぽんぽんと乱暴に撫でた。
不器用で、くすぐったくて、でも信じられないくらい安心する温もり。
「腹が減ったな」
「ええ、すごく減りました!」
「昨日のシチューの残りに、チーズを乗せて焼いてやる。……帰るぞ、ドロテア」
「はい、ウルリヒさん!」
私たちは並んで馬車へ戻った。夕暮れの道を、公邸へ帰るために。
馬車の扉を開ける前に、今度は私から彼の手を取った。
「帰ったら、お代わりしてもいいですか?」
「鍋ごと用意してやる」
泣き声はもう聞こえなかった。私は声を上げて笑った。




